先秦 附
玄漢劉玄更始三年・東漢光武帝建武元年(25年)に光武帝が即位しました。 ここでは光武帝が即位するまでの経緯を『後漢書・光武帝紀上』を元に書きます。『資治通鑑』を元にしている本編とは時系列が若干異なります。 新更始時代61 更始劉玄(十三) 劉秀即位 …
紀元前632年、中原の覇権を競う二大国・晋と楚が衝突しました。城濮の戦いです。 春秋時代68 東周襄王(二十八) 城濮の戦い 前632年(2) 両軍の布陣を簡単にまとめました。 会戦の詳細は『春秋左氏伝』に書かれていますが、古文の解釈によって異なる説が存在し…
今回は名家、兵家、陰陽家、雑家について簡単に書きます。 まずは名家です。 名家の代表は戦国時代中期の公孫龍で、『公孫龍子』という書が残されています。 公孫龍は事物の対立・分離を強調しました。 もう一人の代表を恵施といい、『恵子』という書があっ…
今回は法家です。 まずは荀子です。 荀子は名を況、字を卿といい、趙国の人です。十五歳で斉国の稷下で遊学を始めたといわれています。斉で祭酒(学長)を三回担当してから楚国に移り、楚の春申君によって蘭陵令に任命されました。しかし讒言に遭ったため趙…
今回は墨子です。 墨子は墨家学派の創始者で、名を翟といい、魯国の人です。 「賎人(庶民。身分が低い者)」の出身で、かつては木匠でしたが、後に各国を周遊して学説を唱えました。多数の門徒を抱え、しかも厳密な組織を形成するようになります。多くの門…
今回は道家の荘子です。 荘子の思想はとても神秘的で、理解が難しい思想です。後に神仙思想へと発展していきます。 荘子は名を周といい、宋国の人です。孟子とほぼ同じか少し遅れて登場しました。貧寒の家に生まれ、生涯で仕官したのは漆園を管理する小官に…
今回は道家です。老子と荘子の二回に分けます。 老子 老子は道家学派の創始者で、姓は李、名は耳、字は聃といい、老聃ともよばれています(老子の姓名に関しては諸説があります)。 孔子と同時期か少し前の人で、周王室の「守藏室之吏(図書館の長)」を勤め…
春秋戦国時代に孔子、孟子、老子等の思想家が現れました。本編では体系的な解説がきなかったので、ここで簡単に紹介します。 参考にするのは譚家健の『中国文化史概要』です(『中国文化史概要』の完訳ではなく、抜粋添削します)。 諸子百家というのは春秋…
春秋時代末期から戦国時代初期あたりに「跖」という「盗」が現れたといわれています。「盗」というのは、直接は「盗賊」を指しますが、もっと範囲が広く、統治者に逆らって蜂起した者も「盗」に含まれます。「跖」は通常、「盗跖」とよばれており、民衆反乱…
秦昭襄王五十二年(前255年)に范睢が退きました。 戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年 ここでは范睢に関する二つの事を書きます。 一つ目は范睢の名です。 本編は『資治通鑑』を基礎にしているので、『資治通鑑』にならって「范睢」と書いて来ました。…
蔡沢と范睢の会話を書いています。前回の続きです。 戦国時代 范睢と蔡澤(一) 元々、范睢は蔡沢に反駁するつもりでした。しかし蔡沢の発言を称賛するようになります。 蔡沢はその機に乗じてこう問いました「商君、呉起、大夫・種は人臣として忠を尽くし、功…
東周赧王三十二年(前283年)、趙の藺相如が使者として秦に行きました。 戦国時代84 東周赧王(二十二) 衛嗣君 前283年(2) 以下、『史記・藺相如列伝(巻八十一)』から「完璧帰趙」の故事を紹介します。 趙恵文王が楚の和氏の璧を得ました。 それを聞いた秦…
荊軻の故事を紹介しています。 戦国時代 荊軻(一) 久しく時が過ぎましたが、荊軻は動こうとしません。 その間に秦将・王翦が趙を破り、趙王を虜にしてその地を全て併合しました。秦は更に兵を北に進めて燕の南界に至ります。 恐れた太子・丹が荊軻に言いまし…
秦王政二十年(前227年)、荊軻が秦王・政(始皇帝)の暗殺を謀りました。 戦国時代125 秦王政(十一) 荊軻 前228~227年 本編は『資治通鑑』を元にしました。ここでは『史記・刺客列伝(巻八十六)』の内容を簡単に紹介します。 荊軻は衛人ですが、先祖は斉…
荀子について『資治通鑑』の記述を元に書いています。前回の続きです。 戦国時代 荀子(一) 孝成王と臨武君が荀子に問いました「将となる者について聞かせてください。」 荀卿が言いました「最も重要な知とは、疑謀(勝敗が定かではない計)を棄てることです…
本編で荀子が登場しました。 戦国時代110 秦昭襄王(一) 荀子 前255年 ここで『資治通鑑』の内容を紹介します。二回に分けます。 かつて趙孝成王の前で荀子と臨武君が兵について論じました。 王が用兵の要を問うと、臨武君が言いました「上は天の時を、下は地…
『史記・魏世家』から魏安釐王時代の出来事を紹介しています。 戦国時代 魏の出来事(1) 前回の続きです。 魏王はかつて秦に助けられたことがあったため、秦と親しくして韓を攻めることで失った領地を恢復しようとしました。しかし魏無忌(『戦国策・魏策三…
『史記・魏世家』に魏安釐王十一年(東周赧王四十九年・前266年)頃の魏に関する出来事が書かれています。 戦国時代99 東周赧王(三十七) 范睢の報復 前266年 具体的にいつの事かははっきりしません。 二回に分けて紹介します。 秦昭王が左右の近臣に問いまし…
東周赧王三十七年(前278年)に楚の屈原に触れました。 戦国時代91 東周赧王(二十九) 楚都・郢陥落 前278~274年 以下、『史記・屈原列伝(巻八十四)』から抜粋します。 屈原は名を平といい、楚王と同姓です。楚懐王の左徒を勤めました。左徒というのは楚の…
田単が斉の相になりました。 戦国時代90 東周赧王(二十八) 荘蹻 前279年(3) 『資治通鑑』が田単の故事を書いているのでここで紹介します。元の話は『戦国策・斉策六』に見られます。 ある日、田単が淄水を渡った時、一人の老人に出会いました。老人は淄水を…
東周赧王十七年(前298年)に趙王が弟の勝(公子・勝)を東武城に封じました。勝は平原君と号します。平原君は士を愛したため、常に数千人の食客を抱えていました。 戦国時代77 東周赧王(十五) 鶏鳴狗盗 前298~296年 食客の中に公孫龍という者がおり、「堅…
東周赧王八年(前307年)、趙武霊王が胡服令を発布しました。 戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年 本編は『資治通鑑』を元にしました。ここでは『史記・趙世家』の記述を紹介します。 趙武霊王は北に向かって中山の地を巡視してから房子に至りまし…
『史記・周本紀』が周に関する記述を書いています。 戦国時代72 東周赧王(十) 秦武王の死 前307年 いつの事かははっきりしません。以下、列記します。 秦が両周(東西の周)の間に道を借りて(『戦国策・東周策』では「両周の間」ではなく「周に道を借りる」…
東周赧王三年(前312年)、蘇代が田軫に策を授けました。 戦国時代66 東周赧王(四) 楚の大敗 前312年 理解困難なので『史記・田敬仲完世家』の原文(注釈含む)をここで紹介します。 湣王十二年,攻魏。楚囲雍氏(『集解』徐広曰「在陽翟,属韓。」)秦敗屈…
東周安王五年(前397年)に刺客・聶政が登場しました。 戦国時代25 東周安王(一) 刺客・聶政 前401~396年 本編では『資治通鑑』の内容を元にしたので、ここでは『史記』を中心に少し詳しく紹介します。 聶政は軹邑・深井里の人です。人を殺したため、仇を避…
本編で西門豹が登場しました。 戦国時代23 東周威烈王(七) 呉起 前405~404年 以下、『戦国策』と『史記』の記述を紹介します。 まずは『戦国策・魏一』からです。 西門豹が魏の鄴令に任命されました。 西門豹が魏文侯に別れを告げに来た時、文侯が言いまし…
『資治通鑑外紀』が『呂氏春秋』等から魏文侯に関する故事を紹介しています。 戦国時代22 東周威烈王(六) 魏文侯 前407~406年 本編では書かなかったので、ここでまとめて列記します。 まずは『呂氏春秋・開春論・期賢』からです。 魏文侯が段干木の閭(小巷…
『資治通鑑外紀』が『孔叢子』等を元に魯穆公と子思(孔伋)、公儀休について書いています。 戦国時代20 東周威烈王(四) 斉の田和 前410~409年 ここでまとめて紹介します。 まずは『孔叢子・雑訓(第六)』からです。 魯穆公が子思を訪れて問いました「寡人…
本編では『資治通鑑』を中心に晋陽の戦いを紹介しました。 戦国時代10 東周貞定王(五) 晋陽の戦い 前453年(1) 『戦国策・趙策一』にも詳しい記述があります。『資治通鑑』と重複する場所もありますが、以下紹介します。 晋陽の包囲が三年続きました。城中の…
晋の知氏(智氏)、韓氏、魏氏が趙氏の晋陽を包囲しました。本編では『資治通鑑』と『戦国策』の記述を中心に書きました。 戦国時代9 東周貞定王(四) 晋陽包囲 前456~454年 晋陽包囲に関して『韓非子』等にも記述があるので、ここで紹介します。 まずは『韓…