春秋時代 斉桓公と諸侯(二)

桓公と諸侯の関係を紹介しました。

春秋時代 斉桓公と諸侯(一)

今回はその続きです。

 
まずは『国語・斉語』からです。
桓公が言いました「南伐をしたいと思うが、どこの国を主(物資を提供する国)とするべきだろうか。」
管仲が答えました「魯を主にするべきです。棠と潜の地を魯に返しましょう(どちらも魯の邑です。斉に占領されていたようです)。我が国は海と山を利用して守りを固めることができます。」
桓公が言いました「西伐するにはどこを主とするべきだろうか。」
管仲が言いました「衛を主とするべきです。台、原、姑と漆里の四邑を衛に返しましょう。我が国は海と山を利用して守りを固めることができます。」
桓公が言いました「北伐するにはどこを主とするべきだろうか。」
管仲が言いました「燕を主とするべきです。柴夫と吠狗の邑を燕に返しましょう。我が国は海と山を利用して守りを固めることができます。」
桓公管仲の進言に従い、周辺諸国との関係を改善しました。諸侯から奪った地を返し、国境を定めます。斉国の南境は陰に、西境は済水に、北境は黄河に、東境は紀(紀季の邑)に至り、革車(兵車)八百乗を擁する勢力になりました。
桓公は淫乱暴虐な諸侯を選んで征伐しました。当時、東南に位置する萊、莒、徐夷、呉、越等が乱れた政治を行っていました。桓公は一戦して三十一国を服従させました。
 
 
『管子・小匡(第二十)にもほぼ同じ内容がありますが、斉の領土に関する記述が異なります。
斉は諸侯から奪った地を返し、国境を定めました。斉の地は南境は岱陰(岱山の北)に、西は済水に、北は海に、東は紀随に至り、方三百六十里に及びました。桓公は即位して三年で国内を治め、四年で教化を完成させ、五年目に兵を出しました。訓練を積んだ兵士は三万人、革車は八百乗を擁します。当時多くの諸侯が昏乱で天子(周王)に従いませんでした。桓公は東に向かって徐州を援け、呉の地を半分に分け、魯と蔡陵(地名)を援けて越の地を裂きました。南は宋と鄭を拠点にして楚と対抗しました。
 
 
この頃、楚が宋と鄭を攻撃して城を破壊し、民を殺しました。そのまま二国を併合しようとしましたが、斉の南下を恐れます。そこで楚が手を打ちました。この時の楚の主は成王です。
 
以下、『管子・覇形』からです。
楚王が国内に命令しました「寡人(私)が英明と認める国君は、桓公に勝る者はいない。人臣として賢明な人材では、管仲に勝る者はいない。英明な君と賢明な臣を持つ斉に寡人は仕えたいと思う。寡人のために斉に行き、関係を結ぶ交渉ができる者はいないか。寡人が封侯を惜しむことはない(功績がある者に爵位を与えよう)。」
楚国の賢士は重宝幣帛を持って次々に斉に行きました。斉桓公の近臣は重宝幣帛を愛し、楚との交わりを受け入れるように桓公に勧めます。そこで桓公管仲を召して言いました「自分が人に善くすれば、人も自分に善くするという。楚王は寡人に善くしてくれた。寡人も彼に応えなければ道に合わないだろう。」
管仲が言いました「いけません。楚人は宋と鄭を攻めました。鄭の地は焼かれ、城は破壊され、男女問わず多くの人が殺されました。残った人々も家を失い鳥や鼠のように穴を掘って生活しています。また、宋の田地も奪われ、二川を塞いで水が東に流れないようにしました。東山の西は水没し、四百里離れなければ農業ができない状態に陥っています。楚は宋と鄭の併合を狙っています。しかし強大な兵をもち、楚の害になるのは斉しかないと判断し、文(外交)によって斉を抑えようとしています。楚の目的は武によって宋と鄭を取ることです。楚と国交を結んだ後、我が国が楚の二国への侵攻を止めなかったら、宋と鄭を失うことになります。逆に楚の侵攻を妨害したら、楚に対する信を失うことになります。楚と交わるのは善い方法とはいえません。」
桓公が言いました「わかった。しかし、どうすればいい?」
管仲が言いました「兵を興して南下し、宋と鄭を援けるべきです。同時に将兵にはこう命じてください『楚を攻めてはならない。わしが自ら楚主に会う。』主公が楚主に会ったら鄭の破壊された城と宋の大水の被害について譴責し、改善を要求してください。楚が受け入れれば、我々が文によって楚に命を下したことになります。楚が受け入れなければ、武によって命を受け入れさせましょう。」
桓公は同意しました。
こうして斉桓公は出征し、宋と鄭を援けて召陵で楚王と会見しました。斉桓公は楚に「食糧を蓄えてはならない(食糧の流通を活発にさせるためです)。堤防を勝手に変えてはならない。嫡子を勝手に廃してはならない。妾を妻(正妻)にしてはならない(後継者争いを防ぐためです)」と命じ、併せて鄭と宋への侵略を止めるように要求しました。
楚王はこれを拒否します。
桓公は七十里撤退して陣を構え、兵を送って鄭南の地に百代城を築きました。桓公が鄭に言いました「ここから北で黄河に至る地域は、鄭が自由に城を築くことを許す。」
楚が北上して鄭の城を攻めることはありませんでした。
同時に桓公は宋のために東方を開墾して田地を作り、両側の川を開いて水を東に流しました。
楚が川を塞ぐことはありませんでした。
鄭と宋を安定させた桓公は南伐を開始し、方城を越え、汝水を渡り、汶山に望みました
 
 
桓公の征伐を『国語・斉語』からです。
桓公は南征して楚を討ち、汝水を渡り、方城を越え、汶山に望みました。楚に対して絲帛を周王室に貢納するよう命じ、北に兵を還します。荊州諸侯で斉に逆らう者はいなくなりました。
桓公は北伐して山戎を攻め、令支と孤竹を破って南に還りました。海浜の諸侯が全て斉に服従しました。
桓公は諸侯と共に犠牲の前で盟を結び、諸侯と協力していくことを上下庶神(天地全ての神)に誓いました。
桓公は西征して白狄の地を占領し、西河に至りました。そこで舟や筏を準備し、黄河を渡って晋の石枕に入ります。車を吊り馬を堅く繋いで険阻な太行山・辟耳山の山道や拘夏谷(辟耳山の谷)を進みました。
西は流沙と西呉を服従させ、南は周王室のために城を築き、晋恵公が国都・絳に還るのを援けました。
北嶽(常山)一帯の諸侯が斉に服したため、桓公は諸侯を陽穀に集めました。
斉は「兵車の属」を六回、「乗車の会」を三回開きました。諸侯は武器を収めて武事を控え、文道を行うようになります。桓公は諸侯を率いて天子(周王)に朝見しました。
「兵車の属」は「兵車の会」です。討伐・遠征について相談する会合で、諸侯は兵車に乗って参加しました。北杏(前681年)、鄄(二回。前680年と前679年)、檉(前659年)、鹹(前647年)、淮(前644年)の六回です。
乗車の会は兵車を必要としない会合で、陽穀(前657年)、首止(前655年)、葵丘(前651年)の三回です。
合計九回諸侯を集めたため「九合諸侯」といいます。
 
 
ほぼ同じ内容が『管子・小匡』にもあります。
桓公は楚を征伐し、汝水を渡り、方地を越え、文山(汶山)に望みました。楚王に対して周王室へ絲帛を納めるように命じ、成周(周王室)は胙(祭祀で用いる肉)を隆岳(斉国の別称)に与えました。州諸侯が全て斉に服します。
桓公は、中原では晋公を援け、狄王を捕え、胡貉・屠何を破り、騎馬で侵攻する勢力を服従させました。
北伐して山戎を討ち、泠支(令支)・孤竹を破りました。九夷が斉の命令を聞き、海浜の諸侯が斉に服従します。
西征して白狄の地を占領し、西河に至って舟や筏を用意し、黄河を渡って石沈に入りました。車を吊り馬を繋げ、太行山や卑耳山辟耳山)拘秦夏(拘夏谷)を進みます。
西は流沙・西虞を服し、秦戎(秦地の戎)服従させました。
一度兵を発したら十二の大功を挙げ、東夷、西戎、南蛮、北狄および中原の諸侯が全て斉に従いました。そこで桓公は諸侯と盟を結び、上下諸神に誓いました。その後、天下の諸侯を率いて周王室に朝見し、陽谷で大会を開きました。
桓公は兵車の会を六回、乗車の会を三回開き、諸侯を九合して天下を一つに正しました(九合諸侯,一匡天下)。諸侯は兵器をしまい武事を収め、文道を行って天子(周王)に朝見するようになりました
 
 
『管子・大匡』からです。
呉人が斉の穀を攻撃しました。桓公が諸侯に連絡する前に、桓公の徳を慕った諸侯が兵を率いて集結し、桓公の到着を待ちました。桓公は車千乗を率いて国境で諸侯と会見します。諸侯の兵が戦いの準備を整える前に呉人は逃走しました。諸侯も兵を還しました(恵王二十二年、前655年参照)
 
帰還した桓公管仲に言いました「諸侯が斉に従うようになった。これから何をするべきだろうか。」
管仲が言いました「諸侯に政策を加える時が来ました。」
管仲が政策の内容を詳しく説明しました「今後二年の間で、諸侯の嫡子が『孝を行わない、弟を愛さない、国の良臣を敬わない』という三者のうち一つでも犯したら誅伐するべきです。諸侯の臣が国事を行い、三年経っても善政の評価を聞かなかったら、罰を与えるべきです。主君に過ちがあっても大夫が諫めず、士人や庶人で優秀な者がいても大夫が進めなかったら、罰を与えるべきです。士人や庶人が官吏の賢・孝・悌を称えたら、その官吏に賞を与えるべきです。」
桓公はこれに従い、諸侯の綱紀を正しました。斉国周辺の諸侯は皆、斉に従い指示を仰ぐようになりました。
 
 
最後は『管子・覇形』からです。
桓公は内政・外交と征伐によって諸侯を九回集合させ、覇業を完成させました。
そこで桓公は撤去した鐘磬を修復させ、再び音楽を奏でました。管仲が言いました「これこそ『楽』というものです。」