春秋時代182 東周景王(四) 宋伯姫 前543年(1)

今回から東周景王二年です。三回に分けます。
 
景王二年
543年 戊午
 
[] 春正月、楚王・郟敖が(または「頗」)を魯に送って聘問し、新たに即位したことを伝えました(本年は郟敖二年にあたります)
 
魯の叔孫豹(穆叔)が楚の令尹(王子・囲)の政治について聞くと、罷はこう答えました「私のような小人は指示に従っているだけです。命令を完遂できず、罪を得ることを恐れる立場なので、政治について知ることはできません。」
叔孫豹が何回聞いても罷は答えようとしません。
後に叔孫豹は魯の大夫にこう言いました「楚の令尹は大事を成そうとしており、子蕩罷の字)も関わっているはずだ。彼は実情を隠している。」
 
[] 鄭の子産が簡公に従って晋に入りました。
晋の叔向が子産に鄭の政治について問うと、子産はこう答えました「政治について先が見えるかどうかは、今年にかかっています。駟氏(子晳)と良氏(伯有)は対立しており、和解できるかどうかわかりません。もしも和解できるようなら、先を知ることができます(和解できないようなら、大乱を招き、先が見えなくなります)。」
叔向が問いました「既に和解したのではないのですか?」
子産が言いました「伯有は奢侈で剛情です。子晳は人の上に立ちたがっています。両者が譲り合うことはありません。たとえ和解したとしても、お互いに怨みを積もらせています。悪(禍乱)は近いはずです。」
 
[] 二月癸未(二十二日)、晋の悼公夫人(平公の母)が杞国の築城に参加している者達に食事を与えました。絳県のある男は、老齢でしたが子がいなかったため、自ら築城の労役に従事しており、食事を受け取りに行きました。
男があまりにも歳を取っていたため、官吏が何歳になるか問うと、男はこう答えました「臣は小人なので、紀年(歳の記録)を知りません(何歳か分かりません)。臣が産まれた年は、正月甲子朔の一年でした。あれから四百四十五回の甲子の日を経ており、最後の甲子から今日で二十日(癸未)になります。」
官吏は走って朝廷に報告しました。
師曠が言いました「それは魯の叔仲恵伯が郤成子と承匡で会した年(東周頃王三年・前616年)です。その年は狄が魯を攻めましたが、叔孫荘叔が鹹で狄を破り、長狄僑如と虺、豹を捕えて、自分の子の名にしました。あれから七十三年が経ちます。」
史趙が言いました「亥の文字は二首六身、下二如身です。それが彼の日数です。」
ここでなぜ「亥」という文字が出てきたのかは分かりません。老人の名が「亥唐」だったともいわれています(亥唐は『孟子・万章下』に登場する人物です)。「二首六身、下二如身」という部分は、「亥」という文字を解説しており、「首(上)は二、身(下)は六、更に下の二つは身と同じ(上は二、その下は六、その下にまた六が二つ)」という訳になります。つまり数字にすると「二六六六」になります。これが「亥」の文字を表すようですが、当時の文字は現在の漢字と字体が異なり、国によっても文字の形が異なっていたので、「亥」と「二首六身、下二如身」が具体的にどういう形になるのかは、はっきりしません。
士伯瑕士文伯)が言いました「老人の日数は二万六千六百日と六旬(六十日)になります(「二六六六」です)。」
趙武が老人に県大夫が誰かを聞くと、趙武の部下だとわかりました。
趙武は老人を招いて謝罪し、こう言いました「武(私)は不才ながら国君の大事を担っています。しかし、晋国の憂いを減らすことができず、吾子(あなた)を用いることもできませんでした。吾子に久しく泥塗(地位が低いこと)の辱めを受けさせていたのは、武の罪です。この不才を謝罪致します。」
趙武は老人に官位を与えて政治を補佐させようとしましたが、老人は老齢を理由に辞退しました。
趙武は老人に田(土地)を与え、絳の県師(地方官)として徭役を管理させることにしました。絳県の輿尉(徴役を指揮する官)は老人を労役に従事させていたため、罷免されました。
 
この時、魯の使者が晋にいました。使者は帰国してから絳県の老人のことを諸大夫に話します。すると季孫宿(季武子)が言いました「晋を侮ってはならない。趙孟(趙武)が大夫(ここでは上卿の意味)を勤め、伯瑕(士文伯。名はです。かつて晋の政治を行った士とは別人です)がそれを補佐し、問題があれば史趙、師曠に諮問し、叔向、女斉がその君の師保(帝王を教育したり補佐する官)となっている。その朝廷には君子が多いから、軽視してはならない。勉めて晋に仕えるべきだ。」
 
[] 夏四月己亥(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の四月には己亥の日がありません)、鄭簡公と諸大夫が盟を結びました。駟氏(子晳)と良氏(伯有)の関係を改善させるためです。
しかし君子(知識人)は鄭の難が終わっていないと判断しました。
 
[] 蔡景侯は世子(太子)・般のために楚から嫁を迎えました。しかし景侯が楚女と姦通します。
夏四月、世子・般が景侯を殺しました。景侯の在位年数は四十九年です。
世子・般が即位しました。霊侯といいます。
 
[] 周霊王の弟・儋季が死んだ時、その子・括が霊王に謁見するために入朝して嘆息しました。
霊王の御士を勤めている単公子・愆期が王廷を通った時、儋括の嘆息を耳にします。愆期が言いました「ああ、彼は朝廷の権利を狙っているようだ。」
単愆期は入朝して霊王にこう言いました「彼を殺すべきです。(父が死んだばかりなのに)憂いを持つことなく、願いだけは大きくなっています。その視線は定まらず、足を高く上げるのは、心が他にあるからです。彼を殺さなければ必ず害を招きます。」
しかし霊王は「童子に何が分かるか」と言って採りあいませんでした。
 
霊王が死ぬと、儋括は王子・佞夫(霊王の子。景王の弟)を擁立しようとしました。佞夫自身はその企みを知りません。
戊子(二十八日)、儋括が蔿邑を包囲し、単成愆蔿邑大夫です)を駆逐しました。単成愆は平畤(周の邑)に奔ります。
 
五月癸巳(初四日)、尹言多、劉毅、単蔑、甘過、鞏成(五人とも周の大夫)が佞夫を殺しました。
括、王子・瑕と廖(恐らく王子)は晋に出奔しました。
 
[] この頃、宋の太廟で「譆譆!出出!」と叫ぶ者がいました。
また、鳥が亳社で「譆譆」と鳴きました。
甲午(初五日)、宋で火災があり、宋伯姫が死にました。宋伯姫は魯宣公の娘で、宋共公に嫁いだので、宋共姫ともいいます。結婚して六年で共公が死に(東周簡王十年・前576年)、それから既に三十四年経っているので、六十歳前後のはずです。
 
『春秋穀梁伝(襄公三十年)』によると、伯姫の建物に火がついた時、左右の者が「夫人は火から逃げないのですか」と問いました。
しかし伯姫はこう言いました「婦人の義(道)では、傅母姆。女師。王后や諸侯の夫人を教育したり補佐する女性)がいなければ、(夜)、堂を下りないものです(部屋から出ないものです)。」
左右の者が再び逃げるように勧めましたが、伯姫は同じ答えを返して焼死しました。
『春秋穀梁伝』は伯姫を「貞を行動の基準とし、婦道を尽くした賢女」と評価していますが、『春秋左氏伝(襄公三十年)』は「宋共姫の行動は『女(未婚の女性)』の行動であり、『婦(既婚の女性)』の行動ではない。女は保傅がいなければ勝手に動いてはならないが、婦は状況に応じて動くことができる(だから傅母を待って死ぬ必要はなかった)」と評しています。
 
[] 六月、鄭の子産が陳に入って盟を結びました。
しかし、帰国した子産は諸大夫にこう言いました「陳は国が滅ぶから、与する必要はない。禾粟(食糧)を集め、城郭を修築し、この二者に頼っているが、民を慰撫することがない。その君は弱植(根が弱い)、公子(公子・留)は侈(奢侈)、太子(偃師)は卑(卑劣)、大夫は敖(傲慢)で、政治は多門から出ている政令が複数から出され、混乱している)。このような状況で大国の間にいるのだから、滅ばないはずがない。十年ももたないだろう。」
 
 
 
次回に続きます。