春秋時代198 東周景王(二十) 叔孫豹と竪牛 前538年(3)

今回で東周景王七年が終わります。
 
[] 冬、呉が楚を討伐し、棘、櫟、麻に入りました。朱方の役の報復です。
楚の沈尹(沈の県令)・射(人名)が夏汭に奔って朝廷の命を待ちました。
葴尹(または「咸尹」「箴尹」)・宜咎(鍼宜咎。元は陳の大夫。東周霊王二十三年・前549年参照)鍾離に城を築き、疆が巣に城を築き、然丹(鄭から楚に出奔した子革。東周霊王十八年・前554年参照)州来に城を築きました。しかし東国(楚東部の諸国。鐘離・巣・州来・頼など)で洪水があったため、城は完成せず、頼で工事をしていた兵も楚の大夫・彭生によって撤収されました。
 
[] かつて魯の叔孫得臣(荘叔)は叔孫僑如(宣伯)と叔孫豹(穆叔)を産みました。得臣の後、僑如が叔孫氏を継ぎましたが、成公の母・穆姜と私通し、魯の政権を握ろうとして失敗したため、斉に出奔しました(東周簡王十一年・前575年)。僑如が斉に奔る数年前に、叔孫豹は既に斉に移っていました。具体的にいつの事かはわかりません。あるいは僑如の失敗を予期して、魯を離れていたのかもしれません。
叔孫豹が斉に向かう途中の庚宗(魯地)まで来た時、一人の婦人に遭いました。叔孫豹は婦人に食事と宿泊を求め、やがて関係を持つようになります。しかし叔孫豹は去らなければなりません。婦人は泣いて送り出しました。
叔孫豹は斉に入ると国氏と結婚し、孟丙と仲壬が産まれました。
ある日、夢の中で天が落ちて来て、叔孫豹を圧迫しました。押し潰されそうになった叔孫豹が後ろを見ると、一人の男が立っています。その男は色黒、上僂(極度の猫背)、深目(目が深い)、豭喙(豚のように突き出た口)という様相です。叔孫豹が叫びました「牛よ!余を助けよ!」
するとその男は天を持ち挙げて叔孫豹を助けました。
 
翌朝、叔孫豹は全ての徒(従者)を集めましたが、夢で見た男はいませんでした。叔孫豹は「覚えておこう」と誓います。
やがて叔孫僑如が斉に逃げてきました。叔孫豹が食物を届けると、僑如はこう言いました「魯は先子(叔孫氏の先人)の功績に免じて我が宗族を継承させるはずだ。(わしが出奔したから)汝が招かれるだろう。汝はどうするつもりだ?」
叔孫豹は「久しく帰国を願っていました」と答えました。
 
魯が叔孫豹を呼び戻すと、叔孫豹は僑如に伝えずに帰国しました。僑如が斉でも声孟子と私通したため、既に関係を絶っていたのかもしれません。
叔孫豹は魯に帰って卿に立てられます。すると庚宗の婦人が雉を献上しに来ました。婦人が雉を献上するというのは子ができたことを意味します。
叔孫豹が子供について聞くと、婦人は「私の子は既に成長しました。自分で雉を持って私についてくることができます」と言いました。そこで叔孫豹が子供を招くと、以前、夢で見た男にそっくりでした。子供に名を聞く前に、「牛」と呼びかけると、子供は「はい(唯)」と応えます。叔孫豹は全ての徒(従者)に牛(子供)を紹介し、豎(小臣。成人前の家臣)にしました。竪牛とよばれます。
竪牛は叔孫豹に寵愛され、成長してから家政を掌るようになりました。
 
叔孫豹が斉にいた時、斉の大夫・公孫明(子明)と親しくなりましたが、叔孫豹が帰国してから国姜(叔孫豹の妻・国氏の娘)が公孫明と再婚したため、叔孫豹は怒って二人の子(孟丙と仲壬)を斉に放置しました。二人は成長してからやっと魯に招かれます。
 
やがて、叔孫豹が丘蕕(地名)で狩りをして、体調を崩しました。豎牛は叔孫の家を自分のものにしようとして、孟丙に協力を誓わせます。しかし孟丙は拒否しました。
後日、病床の叔孫豹が孟丙のために鍾を作らせ、こう言いました「汝は諸大夫との交際の場に出たことがないから、大夫を招いて享(宴)を開き、鐘を落成させよう。」
孟丙が公式の場所で紹介されるということは、叔孫氏の後継者になるということです。
孟丙は享礼の準備を済ませると、豎牛を送って叔孫豹に享礼の日をうかがいました。竪牛は叔孫豹の部屋に入りましたが、報告せず退出して孟丙に適当な日を教えます。
その日、賓客が集まったため、孟丙が鐘を敲きました。病の叔孫豹は部屋で鐘の音を聞きます。すると竪牛が言いました「孟(孟丙)の所に北の婦人(国姜。孟丙の母)の客(公孫明)が来ています(公孫明に最初の鐘の音を聞かせています)。」
外で享礼が行われているとは知らない叔孫豹は、怒って外に出ようとしました。しかし竪牛が叔孫豹を止めます。賓客が帰ってから、叔孫豹は人を送って孟丙を捕まえ、殺してしまいました。
 
竪牛は仲壬にも協力を誓わせようとしましたが、仲壬も拒否しました。
ある日、仲壬が昭公の御者・萊書(莱書は人名)と公宮で遊び、昭公が仲壬に玉環を下賜しました。仲壬は竪牛に玉環を渡して叔孫豹に報告させます。しかし竪牛は叔孫豹に玉環のことを話さず、叔孫豹の部屋から出ると叔孫豹の指示と称して仲壬に玉環をつけさせました。それを見届けて竪牛が叔孫豹に言いました「仲(仲壬)を国君に会わせたら如何でしょうか?」
国君に紹介するというのは、後継者に立てることを意味します。
叔孫豹が「なぜだ?」と聞くと、竪牛はこう言いました「国君に会うように命じなくても、彼は既に自分で会いに行きました。主公が下賜した環をつけています(改めて叔孫豹が仲壬を連れて正式に国君を謁見するべきです)。」
叔孫豹は怒って仲壬を追放し、仲壬は斉に奔りました。
 
叔孫豹の病が悪化しました。叔孫豹は仲壬を呼び戻すように命じます。竪牛は命に応じましたが、仲壬を招きませんでした。
後日、叔孫氏の家宰・杜洩が叔孫豹に会った時、叔孫豹は飢渇を訴えました。その頃には、叔孫豹も竪牛の姦悪に気がついていたため、杜洩に戈を与えて竪牛を罰するように命じました。しかし杜洩はこう言いました「彼を求めたから彼が来たのです。なぜまた除こうとするのですか。」
杜洩は自分が竪牛にかなわないことを知っていたようです。
 
この後、豎牛は「夫子(叔孫豹)は疾病のため、誰にも会いたくない」と発表し、食事を持って来た者には食物を廂正室の左右の部屋)に置いて帰らせました。竪牛は食物を棄ててから、空になった食器を片づけさせます。
十二月癸丑(二十六日)、叔孫豹の食事が途絶えました。
乙卯(二十八日)、叔孫豹が死にました。竪牛は叔孫昭子。叔孫豹の庶子を後嗣に立てて、自ら相(補佐)になりました。
 
昭公が杜洩に叔孫豹の葬儀を命じました。豎牛は叔仲帯(昭伯)と南遺(季氏の家臣)に賄賂を贈り、葬儀の邪魔をさせます。
杜洩が路車(周王が叔孫豹に下賜した車)で葬送を行い、卿礼を用いようとすると、南遺が季孫宿に言いました「叔孫は路車に乗ったことがありません。なぜ葬礼で用いるのですか。そもそも、冢卿(正卿・季孫宿)でも路車を使わないのに、介卿(副卿)がそれを使うのは、相応しくありません。」
季孫宿は「その通りだ」と言うと、杜洩に路車を用いないように命じます。
しかし杜洩はこう言いました「夫子(叔孫豹)は朝廷で命を受けて王を聘問し(東周霊王二十四年・前549年)、王は旧勳を思って路車を下賜しました。復命後、路車を国君に献上しまいたが、国君は王命に逆らうことができず、再び夫子に下賜したのです。それは三官によって記録されました。吾子(あなた)は司徒として姓名を記録し(群臣の位号を定め)、夫子(叔孫豹)は司馬として工正と共に服(車服)を記録し、孟孫は司空として勳功を記録してきました。今、夫子が死んだのにそれを使わないのは、君命を棄てることになります。公府に書かれているのに使わないのは、三官を廃すことになります。命服(国君から与えられた車服)を活きている間に敢えて使うことができず、死んでからもまた使ってはならないというのなら、(賞賜に)何の意味がありますか。」
翌年、路車が叔孫豹の副葬に使われました。
 
季孫宿が中軍を廃することを検討すると、豎牛がこう言いました「夫子(叔孫豹)は以前から中軍を除きたいと考えていました。」
翌年、中軍が廃されます。
 
[] 『資治通鑑前編』によると、この年、魯で有若が産まれました。有若は字を子有といい、後に孔子の弟子となります。
但し、『史記・仲尼弟子列伝』には「孔子より四十三歳年下」とあり『孔子家語』には「孔子より三十六歳年下」とあります。孔子は東周霊王二十一年(前551年)に産まれたので、この年(東周景王七年・前538年)は二十歳にもなっていません。有若が四十三歳または三十六歳年下だとしたら、この年にはまだ産まれていないはずです。『資治通鑑前編』の記述は誤りのようです。
 
 
 
次回に続きます。