第四回 秦文公が天を郊し、鄭荘公が母に会う(中編)

*『東周列国志』第四回中編です。
 
鄭では、世子(太子)・掘突が正式に即位しました。これを武公といいます。
武公は周の乱に乗じて東虢と鄶の地を併合し、鄭都を鄶に遷して新鄭と命名しました。また、栄陽を京城とし、制邑に関を設けます。ここから鄭は強大になり、衛武公と共に周朝の卿士を勤めるようになりました。
周平王十三年、衛武公が死ぬと鄭武公が周の政権を独占するようになります。鄭の京城・栄陽と周都・洛邑が近かったため、武公は周朝廷と鄭国の間を頻繁に往復しました。
 
鄭武公の夫人は申侯の娘・姜氏で、二子を産みました。長子は寤生、次子は段といいます。姜氏夫人は長子を産む時、蓐(草蓆。分娩する場所)に坐らず、いつも通り寝て夢を見ていました。その間に長子が産まれ、目が覚めてから気がつきます。驚いた姜氏は長子に寤生と名付けました。寤は「目覚める」という意味ですが、敢えてこれを名にしたのは、姜氏が心中に抱いた不快の意味が込められています(「寤」には「逆」という意味もあり、寤生は逆子で難産だったという説もあります)
次子の段は産まれた時から立派な容貌で、顔は粉を塗ったように白く、唇は朱を塗ったように赤く、成長してからは勇力を持ち、射術を得意とし、武芸に精通していたため、姜氏に偏愛されました。姜氏は「もしこの子が位を継いで国君になれたら、寤生より十倍もましでしょう」と考え、しばしば夫の武公に次子の長所を語り、後嗣に立てるように勧めました。しかし武公はこう言いました「長幼には序(秩序)があり、それを乱してはならない。そもそも寤生には過失がないではないか。なぜ長を廃して幼を立てようとするのだ。」
武公は寤生を世子(諸侯の太子)に立て、段には小さな共城を食邑として与えました。段は共叔と号します。姜氏は心中に不満を積もらせました。
 
やがて武公が死に、寤生が即位しました。これを鄭荘公といいます。父に代わって周の卿士を勤めました。
姜氏夫人は共叔に権力がないことに不満だったため、荘公にこう言いました「汝は父の位を継いで数百里の地を享受していますが、同胞の弟が身を置く場所はわずかしかありません。憐れだと思わないのですか。」
荘公が言いました「母の希望に従います。」
姜氏が言いました「なぜ制邑に封じないのですか?」
荘公が言いました「制邑は岩険の地として有名で、先王(?)もそこで命を落としました。分封はできません。それ以外なら命に従います。」
姜氏が言いました「それなら京城がいいでしょう。」
荘公が黙ってしまったため、姜氏が怒って言いました「もしそれも許さないのなら、彼を他国に駆逐し、別に仕官の道を開いて餬口(粥を口にすること。生活を維持するという意味)とさせるべきです。」
荘公は慌てて「そのようなことはできません(不敢!不敢!)」と言うと、やむなく同意して退出しました。
 
翌日、荘公が上殿して共叔・段を京城に封じることを宣言しました。大夫・祭足が諫めて言いました「いけません。天には二日(二つの太陽)がなく、民には二君がいないものです。京城には百雉(城壁の高さが三百丈あること。百雉の規模は国君がいる都城の特権です)の雄があり、地は広く民も多く、栄陽に匹敵します(鄭の都は新鄭で、京城と栄陽は同じ場所のはずなので、ここは「新鄭に匹敵します」の誤りです)。そもそも共叔は夫人の愛子です。もし大邑に封じたら二君が並立することになります。彼が内(母の寵愛)に頼ったら後患となるでしょう。」
しかし荘公は「母の命に逆らうことはできない」と言って、共叔・段を京城に封じました。
共叔・段は荘公に恩を謝すと、入宮して姜氏に別れを告げました。姜氏は左右の者を去らせ、秘かにこう言いました「汝の兄は同胞の情を想わず、汝を冷遇しています。今日の封も私が再三懇求してなんとか従わせましたが、心中は納得していません。汝は京城に入ってから、武器を集めて兵車を整え、秘かに準備を進めなさい。乗じる機会が来たら私がそれを報せます。汝が鄭を襲う師を率い、私が内応すれば、国を得ることができるでしょう。汝が寤生に代わって国君の位に立てるようなら、私は死んでも悔いがありません。」
共叔・段は母の命を受けると京城に入りました。この後、鄭の国人は共叔を京城太叔とよぶようになりました。
 
開府の日(太叔・段が京城で政治を始めた日)、西境と北境の宰(長)が祝賀に来ました。太叔・段が二宰に言いました「汝等二人が管理している地は、我が封土に属することになった。今後、貢税(貢物と賦税)は全て私の所に納め、兵車の徴用は全て私の指示に従え。誤りがあってはならない。」
二宰はかねてから太叔・段が国母に寵愛されており、国君になる望みがあることを知っていました。しかも実際に会ってみると容貌は立派で能力も人並み外れています。太叔に逆らうことはできず、命を受け入れました。
太叔・段は狩猟を名目に毎日城を出て士卒を訓練しました。二鄙(西境と北境)の衆も全て軍冊(名簿)に入れられます。
更に、狩りを理由に出した兵で鄢と廩延を襲って占領しました。二邑の宰が鄭都に逃げ入り、太叔・段が兵を率いて邑を奪ったことを詳しく荘公に報告します。
しかし荘公は微笑するだけで何も言いません。すると群臣の中から一人の官員が現れ、大きな声で言いました「段を誅すべきです!」
荘公が頭を挙げて見ると、上卿の公子・呂(子封)でした。
荘公が問いました「子封には何か高論があるのか?」
公子・呂が答えました「『人臣に将はなく、将になったら必ず誅される(「人臣無将,将則必誅」。人臣が国君の命を受けていないのに勝手に将として兵を動かしたら誅殺される、という意味です)』といいます。太叔は、内は母后の寵に頼り、外は京城の堅固な守りに頼り、日夜、兵を訓練して武を語っています。その志が奪にあるのは明らかです。臣に偏師(一隊)をあずけていただければ、京城に直進して段を捕えてみせます。これで後患を絶つことができるでしょう。」
荘公が言いました「段には過失がない。なぜ誅を加えるのだ。」
公子・呂が言いました「既に両鄙が懐柔され、その勢力は廩延にまで至っています。先君の土地が日々割かれていいはずがありません。」
荘公が笑って言いました「段は姜氏の愛子であり、寡人(国君の自称)の愛弟である。寡人はたとえ地を失ったとしても、兄弟の情を損ない、国母の意志に逆らおうとは思わない。」
公子・呂が言いました「臣は地を失うことを憂慮するのではありません。国を失うことを憂慮しているのです。今、人心は安定せず、太叔の勢力が強大なのを見て、観望(傍観)しようとしています。やがて都城の民にも二心が生まれるでしょう。今日、主公が太叔を許容しても、後日、太叔が主公を許容できるとは限りません。その時に後悔しても手遅れです。」
荘公が言いました「卿は妄言を吐くな。寡人には考えがある。」
 
公子・呂は退出してから正卿・祭足に言いました「主公は宮闈(宮内)の私情のために社稷の大計を疎かにしています。これは憂いるべきことです。
祭足が言いました「主公の才智は常人を越えています。この事を坐して視ているはずはありません。しかし大庭(朝廷)には耳目があるので、考えを漏らすことができないのでしょう。子(あなた)は貴戚(公族)の卿です。もしも個人的に尋ねれば、公の意見を知ることができるでしょう。」
公子・呂は祭足の言に従って自ら宮門を叩き、荘公に謁見を求めました。
荘公が問いました「卿が来たのは何のためだ?」
公子・呂が言いました「主公が位を継いだのは国母の意志ではありません。万一、内外が共謀し、肘腋(身近)で変事が起きたら、鄭国は主公のものではなくなってしまいます。臣は寝食も不安なので、こうして謁見を求めに来ました。」
荘公が言いました「この事は国母に干渉することになる。」
公子・呂が言いました「主公は周公が管蔡を誅殺した事西周初期の故事)を知らないのでしょうか。『断つべきを断たなければ、逆に乱を受ける(当断不断,反受其乱)』といいます。早く計を決してください。」
荘公が言いました「寡人も久しく考えてきた。しかし、段は不道とはいえ、叛逆が明らかになったわけではない。もし誅を加えたら、姜氏が必ず内から妨害し、いたずらに外人の議論を招いて、わしが不友・不孝であると言うだろう。今は度外に置いて好きにさせているのだ。彼が寵に頼り、志を得てはばかることがなくなり、ついに造逆を成した時、罪を明らかにして正すことができる。それならば国人も彼を助けず、姜氏にも辞(言い訳の言葉)がないだろう。」
公子・呂が言いました「主公の遠見は臣が及ぶところではありません。しかし、太叔が日々勢力を拡大し、除くのが困難な蔓草(蔓延した雑草)のようになったらどうしますか。主公が相手の動きを待っているのなら、早く動くようにしむけるべきです。」
荘公が問いました「計があるのか?」
公子・呂が答えました「主公が久しく(周王室に)入朝しないのは、太叔が原因です。もし周に行くと宣言すれば、太叔は国内の空虚に乗じて必ず(鄭都)を襲います。臣があらかじめ京城(太叔の本拠)附近に兵を伏せておき、太叔が城を出た隙に占拠しましょう。同時に主公が廩延から一路攻撃してくれば、太叔は腹背に敵を受けるので、たとえ天を衝く翼があったとしても、どこにも逃げられなくなります。」
荘公は「卿の計に従おう。他人に漏らしてはならない」と言いました。
公子・呂は宮門を出ると感嘆して言いました「祭足の判断は神のようだ。」
 
翌日早朝、荘公が偽の君令を発しました。大夫・祭足を監国(国を守る役)とし、自ら周朝に赴いて輔政すると宣言します。
これを聞いた姜氏は心中喜んで「段には福がある。ついに国君になる日が来た」と言うと、一通の密書を書き、腹心を使って京城に届けさせました。太叔に五月初旬の挙兵を指示します。四月下旬の出来事でした。
 
一方の公子・呂は要路に部下を隠していました。密書を持った者が捕まり、その場で殺されます。密書は荘公に届けられました。
密書を開いて中を確認した荘公は再び書に封をしてから、自分の部下に姜氏の使者のふりをさせて太叔に届けさせました。太叔は返書を使者に渡します。そこには「五月初五日を決行の日とします。白旗をひとつ、城楼に立てて内応の場所の標としてください」と書かれていました。
使者は返書を荘公に届けます。
荘公が喜んで言いました「段の供招(証言)がここにある。姜氏も庇うことはできない。」
荘公は入宮して姜氏に会い、周に旅立つ挨拶をしてから城を出ました。実際には廩延に向かってゆっくり進みます。公子・呂も兵車二百乗を率いて京城の近くに埋伏しました。
 
 
 
*『東周列国志』第四回後篇に続きます。