春秋時代206 東周景王(二十八) 周と晋の関係 前533年

今回は東周景王十二年です。
 
景王十二年
533 戊辰
 
[] 春、魯の叔弓、宋の華亥、鄭の游吉、衛の趙黶が陳で楚霊王と会しました。
 
[] 二月庚申(楊伯峻の『春秋左伝注』によると、この年の二月に庚申の日はないようです)、楚の公子・棄疾が許国を夷に遷しました。夷は城父ともいい、古くは陳領でした。
また、淮水北に位置する州来の田(地)を許国に与えました。伍挙が許男(悼公)に田地を授けます。
 
許国が城父に遷ったため、然丹が城父の住人を陳県(前年、楚に滅ぼされた陳です)に遷しました。城父の民が元々陳人だったためです。濮水西に位置する夷の田も陳県に加えられました。
 
楚の方城外に住む人々は許国に遷されました。
 
霊王が頻繁に国の領地を変えたり民を移住させたため、辺境の民は安定した生活ができなくなりました。
 
[] 周の甘大夫(甘は地名)・襄と晋の閻嘉(閻県の大夫)が閻の地を争いました。
晋の梁丙と張趯が陰戎(陸渾の戎)を率いて穎を攻撃します。
周景王が詹桓伯を晋に送って譴責しました「夏代以来(周の祖・后稷が功績を立ててから)、魏・駘・芮・岐・畢は我が西土である。武王が商に勝ってから、蒲姑・商奄は我が東土であり、巴・濮・楚・鄧は我が南土であり、粛慎・燕・亳は我が北土である。我が封疆(国境)が狭くなることはない。文王・武王・成王・康王は同母弟の国を建てて周の蕃屏とし、周の廃頽を防がせた。それを弁髦(弁は冠礼で最初にかぶる冠。髦は幼い時の髪。どちらも冠礼が過ぎたら不用の物になります)のように棄ててもいいというのか。先王は檮杌(太古の四凶の一人)を四裔(辺境)に住ませて螭魅(魑魅魍魎)を防がせた。だから允姓(陰戎の祖)の姦は瓜州敦煌附近。辺境)に住むようになったのである。ところが伯父(同姓の諸侯)・恵公(晋恵公)が秦から帰国後に陰戎を誘い入れたため、彼等は我々諸姫(姫姓諸国)を脅かし、我が郊甸(周の郊外)に侵入し、我々の土地を奪うようになった。戎が中国(中原)にいるのは誰の責任だ。后稷は天下を封殖した(農業を振興させた)が、今は戎に制御されている。これは(天子にとって)危難ではないか。伯父(晋侯)はよく考えるべきだ。天子の存在は伯父にとって、衣服に冠冕(冠帽)があり、樹木や水流に源があり、民人(民)に謀主がいるようなものである。伯父が冠冕を破棄し、源を塞ぎ、謀主を棄てるようになったら(晋は本来、周を守る立場にいるのに、その晋も周を棄てるようになったら)、戎狄の心中のどこに余一人(天子)が存在するだろうか。」
晋の叔向が韓起(韓宣子)に言いました「文公が伯(覇者)になった時、旧制を変えることができましたか(晋文王が隧葬の礼を求めた時、周襄王は許可しませんでした。周王の地位は絶対であることを意味します)。天子を補佐して恭敬を加えるべきです。我が国は文公以来代々徳が衰え、宗周を害したり軽視することで驕横を示すようになりました。これでは諸侯が二心を抱くのも当然です。王の言辞は直(理があること)です。子(あなた)はよく考えるべきです。」
韓起は叔向の進言に喜んで同意しました。
ちょうど周景王に姻喪(婚姻関係者が死ぬこと)がありました。そこで韓起は趙成を周に送って弔問し、閻田を返還して襚(死者に着せる服)を贈りました。また、穎で捕えた捕虜も釈放しました。
景王も大夫・賓滑に甘大夫・襄を捕えさせて、晋の歓心を買いました。晋は甘大夫・襄を礼遇して帰国させました。
 
[] 夏四月、陳で火災がありました。
鄭の裨竈が言いました「五年で陳が復封(復国)し、五十二年後に滅亡します。」
子産がその理由を問うと、裨竈はこう答えました「陳は水に属します(陳の祖・顓頊は水徳の帝王とされています)。火は水の妃(配偶。対応する物)であり、楚が治めています(楚の祖・祝融は火正でした)。今、火(大火星)が現れて陳で火災が起きました。これは楚人を駆逐して陳を建てるという意味です。妃(配偶。天地・陰陽二極)は五(五行)によって成り立つので(天は一によって水を生み、地は二によって火を生み、天は三によって木を生み、地は四によって金を生み、天は五によって土を生む。天地によって象徴される陰陽は五行によって形成され変化する)、五年で復封します。しかし、歳星が五回鶉火を通った時(この年、歳星は大梁という場所に居り、四年後に鶉火に至ります。これが鶉火を通る一回目です。歳星は十二年で一周するので、あと四回鶉火に至るには四十八年かかります。これに最初の四年を足すと、五十二年になります)、陳が滅んで楚が占領します。これは天の道です。」
 
[] 晋の荀盈(知盈)が婚姻のために斉女を迎えに行きました。
六月、荀盈が晋に帰る途中、戲陽で死にました。

絳に霊柩が置かれると、荀盈の葬儀が終わっていないうちから、晋平公は酒を飲み、音楽を奏でました。
すると膳宰(料理担当)・屠蒯が速足で進み出て、宴席にいる者に酒を注ぐことを願い出ます。平公が許可すると、屠蒯はまず楽工に酒を献じて言いました「汝は国君の耳であり、聡(国君の耳を聡明にすること)が職責です。子(甲子。商紂が滅んだ日とされています)と卯(乙卯。夏桀が滅んだ日とされています)は忌日といい、国君は宴楽を退け、学人(音楽を学ぶ者)は業を棄てて忌避するものです。国君の卿佐は股肱(四肢)です。股肱を損なったらどれだけ心が痛いでしょう。汝はそれを国君に教えず、音楽を奏でました。これは不聡というものです。」
次に外嬖(寵臣)の嬖叔にもこう言いました「汝は国君の目であり、明(国君の目を正すこと)が職責です。服によって礼を表し、礼によって事を行い、事によって物(種類。区別)が生まれ、物によって容(外貌)ができます。今の国君の容(姿)はあるべき物(状態)ではありません(卿佐が死んだのに宴を楽しんでいるからです)。しかし汝はそれを国君に教えていません。これは不明というものです。」
屠蒯は最後に自分で飲んで言いました「味(食事)によって気が流通し、気によって志が満たされ、志によって言が定まり、言によって令が発せられるものです。臣は味を管理する立場にいながら、二御(国君の傍にいる二人)を失官させ(二人の職責を全うさせることができず)、国君も命を発していません(二人を処罰していません)。これは臣の罪です。」
平公は諫言を喜び、酒宴を中止しました。
 
平公は元々知氏(荀盈の家族)を廃して外嬖(寵臣)を卿に立てたいと考えていました。荀盈が死んでも宴を開いたのはそのためです。しかし屠蒯の諫言があったため考えを改めました。
秋八月、荀盈の子・荀躒(知文子)を父の代わりとして下軍の佐に任命しました。
 
[] 魯の仲孫貜(孟僖子)が斉に行き、殷聘(盛大な聘問)を行いました。
 
[] 冬、魯が郎囿(郎は地名。囿は宛)を築きました。農事に影響しない工程です。
 
建設中のことです。
季孫意如(季平子。季孫宿の孫。悼子・季紇の子。悼子は季孫宿より先に死んだため、二年前に季孫宿が死んでから季孫意如が継ぎました)が速く完成させるために工人を督促しようとしました。すると叔孫叔孫昭子)が言いました「『詩(大雅・霊台)』にこうあります『造営を急ぐことはない。(徳があれば)民は我が子のように集まってくる(経始勿亟,庶民子来)。』なぜ急いて民の労を増やすのですか。囿がなくてもかまいませんが、民がなくなったらどうするのですか。」
 
 
 
次回に続きます。