春秋時代212 東周景王(三十四) 楚霊王 前530年(3)

今回で東周景王十五年が終わります。冬の続きからです。
 
[十一] 楚霊王が州来で狩りを行い、潁尾(潁水が淮水に入る場所)に駐軍しました。そこで大夫の蕩侯、潘子、司馬督、囂尹・午、陵尹・喜に命じて徐国を包囲させます。呉に圧力をかけるためです(徐の国君の母は呉人です)
霊王は乾谿に入って後援になりました。
 
雪が降ってきたため、霊王は皮冠、秦復陶(秦が贈った禽獣の皮衣)、翠被(翠鳥の羽で作った肩掛け)、豹舄(豹皮の履物)を身に着けてから鞭を手にしました。傍には太僕・析父が従っています。
夕方、右尹・子革(鄭丹)が霊王に会いに来ました。霊王は冠と被をはずし、鞭を置いて(大臣に対する敬意を表します)、子革と話をしました。霊王が問いました「昔、わが先王の熊繹(最初に楚に封じられた国君)は呂伋(斉君。太公・呂尚の子)、王孫牟(衛君。康叔・封の子)、燮父(晋君。唐叔・虞の子)、禽父(魯君。伯禽。周公・旦の子)と共に康王西周に仕えたが、四国には分(珍宝の器)が贈られたのに、我が国には贈られなかった。今、わしは周に人を送って鼎を賞賜として要求しようと思うが、王(周景王)はわしに譲るだろうか?」
子革が答えました「周は君王(楚霊王)に譲るはずです。昔、我が先王の熊繹は荊山の僻地に住み、篳路・藍縷(粗末な車と衣服)で土地を開き、山林を越えて天子に仕えましたが、桃弧(桃の木の弓)と棘矢を貢納することしかできませんでした。これに対し、斉は王舅(母の兄弟。西周成王の母は太公・呂尚の娘でした)で、晋・魯・衛は王の同母弟でした(魯の周公・旦、衛の康叔・封は武帝の同母弟、唐叔・虞は成王の同母弟でした)。だから楚には分がなく、彼等にはあったのです。今は周も四国も君王(楚王)に仕えており、その命に従っています。鼎を惜しむことはありません。」
霊王が問いました「昔、我が皇祖伯父・昆吾(楚の遠祖・季連の兄)は旧許国の地に住んでいたが、今は鄭人がその田(地)で利を得ている(許国は葉の地に遷り、更に夷の地に遷りました。許国の故地は鄭の支配下にあります)。我々が求めたら譲るだろうか?」
子革が答えました「君王に譲るでしょう。周が鼎を惜しむことがないのですから、鄭が田を惜しむはずがありません。」
霊王が問いました「昔、諸侯は我が国が遠かったため、晋を畏れていた。今、我々は陳、蔡と二つの不羹に城を築き、それぞれの地で千乗の兵車を擁しており、子(汝)が功労を立てた。諸侯は我が国を畏れているだろうか?」
子革が答えました「君王を畏れています。この四国(陳、蔡と二つの不羹)だけでも人を畏れさせるには充分なのに、更に楚全土の力を擁しています。諸侯が君王を畏れないはずがありません。」
この時、工尹・路が来て霊王に言いました「君王は圭玉を削って(斧の柄)の装飾にするように命じました。準備ができたので、指示を出してください。」
霊王は装飾の指示を出すため、退席して工尹・路について行きました。
すると析父が子革に言いました「吾子(あなた)は楚国の望です。しかし先ほどは王が話すことに応じるだけでした。これで国をどうするつもりですか。」
子革が答えました「刃を磨いて待っているのです。王が戻ったら、私の刃で斬ってみせます(子革の知識と言葉が刃です。霊王の悪徳を斬る機会を待っているという意味です)。」
暫くすると、霊王が戻って再び会話を始めました。
左史・倚相が小走りで通りすぎたため、霊王が子革に言いました「彼は良史(優れた史官)だ。子(汝)は彼を厚遇した方がいい。彼は『三墳』『五典』『八索』『九丘』(全て古書の名)に通じている。」
子革が言いました「以前、臣は彼と穆王西周の話をしました。穆王は私心のままに天下を巡り、あらゆる場所に車轍馬跡を残そうとしましたが、祭公・謀父が『祈招』の詩を作って王心を諫めました。そのおかげで穆王は祗宮で寿命を終えることができたのです。そこで臣はこの詩について問いまいたが、彼は知りませんでした。これよりも遠いことなら、なおさら知らないでしょう。」
霊王が「子(汝)はその詩を知っているのか?」と聞くと、子革はこう答えました「知っています。その詩にはこうあります『祈招(祈父官。名が招。祈父は司馬と同義)は穏和で徳音を表す。我が王の風度を想い、それは玉や金のようだ。民のために尽力し、酒色に溺れる心はない(祈招之愔愔,式昭徳音。思我王度,式如玉,式如金。形民之力,而無酔飽之心)。』」
幽王は子革の言葉に深く感じ入り、揖礼して部屋に入ると、食事も睡眠も少なくなりました。
しかし数日後には自分を律することができなくなり、ついに禍を招くことになります。
 
[十二] 『資治通鑑外紀』はここで『国語・楚語上』から当時の楚の状況を紹介しています。
楚霊王は暴虐無道だったため、白公(白邑の尹)・子張(大夫)がしばしば諫言しました。霊王はこれを煩わしく思い、史老(子亹)に言いました「わしは子張の諫言を止めさせたいと思うが、どうすればいいだろう。」
史老が言いました「諫言を用いるのは難しいことですが、止めさせるのは容易なことです。もしも彼がまた諫言したら、君王はこう言ってください『余は左手で鬼の身を捕え、右手で殤宮(死者が住む場所)を掌握した。全ての箴諫(諫言忠告)を知っている。それ以上、何を話そうというのだ。』」
暫くして、子張が諫言に来ました。霊王は史老に言われた通りに話します
すると子張はこう言いました「昔、殷商王朝の武丁は徳行を敬い神明に通じ、河内に遷都してから、また亳に遷り、そこで三年の間、黙って道(人君の道理)を考えました。しかし卿士は武丁が言葉を発さないことを憂い、こう言いました『王に言があって始めて政令を発すことができます。もし言がなければ、我々が政令を受けることはできません。』そこで武丁は書を作り、卿士にこう伝えました『卿等は余に四方(天下)を正させようとしているが、余は徳が足らないことを恐れて言を発さないのだ。』その後、夢で賢者を見たため、人を送って四方でその人物を探させました。その結果、傅説を得て上公にしました。傅説には朝も夜も自分を諫言するように命じ、こう言いました『私が金(金属)だとしたら、汝はわしを磨く砥石である。私が川を渡ろうとしているとしたら、汝は私の舟である。天が旱害を降したとしたら、汝は私の霖雨(長雨)である。汝は自分の心を開いて朕の心を潤せ。薬を飲んでも瞑眩(目がくらむこと)しなかったら(薬に作用がなかったら)、病は治らない。裸足で道を歩く時に地面を見なかったら、足を怪我してしまう(だから汝の厳しい教導が必要である)。』武丁のように神明に通じ、聖徳が広大で智謀にも欠点がない天子でも、自分では国を治めることができないと判断し、三年間も黙って道を考えました。道を得てからも専制することなく、夢の様子を元に聖人を求めました。聖人を得て自分を補佐させてからも、まだ足りないことを恐れて、朝も夜も箴諫させ、『余を教え導け。余を棄ててはならない』と言いました。今、君王の徳は恐らく武丁に及びません。それなのに諫者を憎むようでは、国を保つのが難しくなるでしょう。
斉の桓公と晋の文公はどちらも嫡嗣ではありませんでしたが、出奔して諸侯を巡り、淫逸を避け、徳のある言葉を愛したので、その徳によって国を得ることができました。近臣が諫め、遠臣が謗り、輿人(大衆)が誦し(得失を歌うこと)、それらの内容によって自分を戒めたのです。そのおかげで、彼等が国に帰った時は四封(四方の国境)が一同百里にも達しませんでしたが、後には畿田(千里の土地)に発展し、諸侯と会して覇者になりました。二人とも今に至るまで令君(名君)とされています。桓公と文公がこのようであったのに、君王は二人の令君に及ばないことを憂いとせず、自逸(自分の安逸)だけを欲しています。これは正しい態度ではありません。『周詩詩経・小雅・節南山)』にはこうあります『君王が自ら身を正さなければ、庶民は信用しない(弗躬弗親,庶民弗信)。』臣は民が君王を信用しなくなることを恐れるので、諫言せざるを得ません。そうでなければ、わざわざ言を発して罪を得ようとは思いません。」
霊王は子張を嫌いましたが、やむなくこう言いました「子(汝)は今後も諫言せよ。不穀(国君の自称)がそれを聞き入れることはないが、そのような言葉を耳の近くに置いておきたいと思う。」
子張が言いました「臣は君王が諫言を聞くことができると思っているから諫めるのです。諫言を聞くつもりがないのなら、巴浦(地名)で採れる犀・犛・兕・象の牙や角で瑱(耳を塞ぐ宝石)を作ればいいでしょう。いくら作っても尽きません。なぜ(受け入れることのない)諫言を耳の傍に置く必要があるのですか。
子張は小走りで退出し、家に帰って出仕しなくなりました。
この七カ月後に乾谿の乱が起きて霊王は命を落とします。
 
[十三] 肥国を滅ぼした晋軍が、帰路、鮮虞(白狄の別種の国)を攻撃しました。
 
 
 
次回に続きます。