第九回 斉侯が文姜を魯に嫁がせ、祝聃が周王を射る(後編)

*『東周列国志』第九回後篇です。
 
話は周に移ります。
周桓王は鄭伯が王命を偽って宋を討伐したと知り、心中激怒しました。そこで虢公・林父だけに朝政を委ねて鄭伯を周の政治から外すことにしました。
これを聞いた鄭荘公は桓王を怨み、五年続けて朝見しませんでした。
桓王が言いました「鄭寤生の無礼にも程がある。もし討伐しなかったら他の者も真似するだろう。朕が自ら六軍を率いてその罪を問おう。」
虢公・林父が諫めて言いました「鄭には代々卿士の功労があります。それなのに政柄を奪ったから入朝しなくなったのです。詔を発して鄭伯を召すべきです。王が自ら赴いて天威を損なう必要はありません。」
桓王が顔色を変えて言いました「寤生が朕を欺いたのは一回だけではない。朕は誓って寤生と両立することはない!」
こうして桓王は蔡、衛、陳の三国を招き、共に鄭を攻撃することにしました。
 
この頃、陳侯・鮑が死に、弟の公子・佗が太子・免を殺して自立しました。公子・佗の字は伍父といい、陳侯・鮑の諡号桓公と定められます。
陳の国人は公子・佗に服従せず、次々に離散しました。
周桓王が兵を集めた時、即位したばかりの公子・佗は王命に逆らうことができず、急いで車徒(車兵と歩兵)を集めました。大夫・伯爰諸が陳軍を統率して鄭国に向かいます。
蔡と衛もそれぞれ兵を出しました。
桓王は虢公・林父を右軍の将とし、蔡・衛の兵を属させました。また、周公・黒肩を左軍の将とし、陳の兵を属させました。桓王自ら大軍を率いて中軍となり、左右に呼応させます。
 
鄭荘公は王師が迫っていると聞いて諸大夫を集めました。しかし群臣は誰も口を開こうとしません。そこで正卿・祭足が言いました「天子が自ら兵を指揮しているのは、我々が朝見しないからです。王の名分は正しく、言も道理に順じています(名正言順)。使者を送って謝罪し、禍を福に転じるべきです。」
荘公が怒って言いました「王がわしから政権を奪い、しかもまた兵を加えようとしている。三世にわたる勤王の功績が失われようとしているのだ(原文「付与東流」。東に流れる大河に棄てるという意味)。その鋭気を挫かなければ宗社(宗廟と社稷を保つのも難しくなる。」
高渠彌が言いました「陳と鄭は元々和睦しています。陳はやむなく兵を出したのでしょう。蔡と衛は以前から我が国と敵対しているので、必ず力を尽くします。天子は怒りに震えて自ら兵を率いているので、その勢いにぶつかるべきではありません。守りを固めて待機し、相手に隙が生まれるのを待ちましょう。そうすれば、戦いも講和も意のままにできます。」
大夫の公子・元が進み出て言いました「臣が君と戦うのは、正しい道理とはいえません。速く決着をつけるべきです。臣は不才ですが、一計を献上したく思います。」
荘公が言いました「卿の計を聞こう。」
子元が計の説明をしました「王師は三分されているので、我々も三軍に分けて応じるべきです。左右の二師は方陣を組み、左軍が敵の右軍に当たり、右軍が敵の左軍に当たります。主公は自ら中軍を率いて王に当たってください。」
荘公が問いました「それで勝てるのか?」
子元が答えました「陳佗は国君を弑殺して即位したばかりなので、国人が心服していません。集められた兵達はやむなく従っていますが、その心は離れているはずです。まず右軍に陳師を襲わせて不意を突けば、陳兵は必ず逃走します。その後、左軍に蔡・衛を攻撃させます。蔡・衛両軍も陳が敗れたと聞けば壊滅するでしょう。最後に兵を合わせて王卒(王軍)を撃てば、万に一つも失敗はありません。」
荘公が言いました「卿は手に取るように敵の動きを予測している。子封は死んでいなかった!」
子封は公子・呂の字で、荘公の右腕として活躍しましたが既に死んでしまいました(第七回参照)。ここでは子元が子封と同じように優秀な人材だと称えています。
 
会議をしているところに疆吏(国境の官吏)の報告が届きました「王師が既に繻葛に到着しました。三営が絶えず連絡を取り合っています。」
荘公が言いました「一営を破るだけでいい。残りを破る必要はない。」
荘公は大夫・曼伯に一軍を率いさせて右拒(「拒」は方陣とし、正卿・祭足に一軍を率いさせて左拒とし、自ら上将・高渠彌、原繁、瑕叔盈、祝聃等を率いて中軍を編成し、「蝥弧」の大旗を建てました。すると祭足が言いました「『蝥孤』を建てて宋・許に勝てたのは、『奉天討罪』の名義を掲げたからです。諸侯を討つ時には使えますが、王と戦う時には相応しくありません。」
荘公は「寡人はそこまで思いが至らなかった」と言って大旆(旗の一種)を瑕叔盈に持たせました。「蝥弧」は武庫にしまわれ、今後使うことがなくなります。
 
高渠彌が言いました「周王は兵法に通じているので、今回の戦いは今までと異なります。『魚麗』の陣を用いるべきです。」
荘公が「『魚麗の陣』とはどのようなものだ?」と問うと、高渠彌が答えました「甲車二十五乗を一偏とし、甲士五人を一伍とします。一偏の車(二十五乗)が前を進み、甲士五五二十五人(五つの伍。合計二十五人)が後ろに従って闕漏(欠け。漏れ)を塞ぎます。もし車上の兵が一人負傷したら、伍から補います。この陣は進むだけで退くことはありません。また極めて堅固な陣形なので、敗れ難く勝ち易いといえます。」
荘公は「善し」と言って同意しました。
鄭の三軍が繻葛に接近して営寨を築きます。
 
桓王は鄭伯が兵を出して抵抗する構えを見せたと聞き、怒って言葉も出ませんでした。自ら出撃しようとしましたが、虢公・林父が諫止します。
 
翌日、両軍が陣勢を整えました。
鄭荘公が全軍に令を発して言いました「左右二軍は軽率に動いてはならない。軍中の大旆が動いたら、一斉に兵を進めよ。」
 
一方の桓王は鄭を譴責するため、鄭君が陣を出るのを待ちました。陣前で鄭君を叱責して鄭軍の鋭気を削ぐつもりです。しかし鄭君は陣を構えてから堅く陣門を守り、全く動きを見せませんでした。
桓王が人を送って挑発しても鄭軍は応じません。
午後になり、王卒(王軍)の緊張がなくなって隙が見え始めました。鄭荘公はその時を見計らい、瑕叔盈に命じて大旆を振らせます。左右の二拒が一斉に戦鼓を叩きました。鼓声が雷のように轟き、将兵が勇ましく前進を始めます。
曼伯は王の左軍を襲いました。陳兵には元々闘志がないため、あっという間に壊散し、逆を向いて周兵と衝突します。周公・黒肩は崩壊を止めることができず、大敗して逃走しました。
祭足は王の右軍を襲いました。蔡・衛の旗号だけを目標にして突撃します。二国の兵も鄭軍に抵抗する力がなく、それぞれ路を探して奔走しました。虢公・林父だけは剣を持って車の前に立ち、周の将兵に向かって「妄りに動く者は斬る!」と叱咤しています。祭足が敢えて林父に手を出そうとしなかったため、林父は一兵も損なうことなくゆっくり退却しました。
中軍にいる桓王は天を震わすほどの鼓声を聞きました。鄭軍の出撃を知って応戦の準備をします。ところが中軍の士卒達は壊走してくる兵を見て左右二営が既に敗れたと知り、中軍も危険だと判断しました。士卒達が互いに耳元で情報を語り合い、隊伍が乱れ始めます。前方には壁のように強固な陣を構えた鄭兵が迫ってきました。祝聃が前を進み、原繁が後ろに続きます。曼伯と祭足も戦勝によって士気が高くなった兵を率いて中軍に合流しました。
鄭軍の総攻撃を受けた周の中軍は、車馬が倒され、将兵が次々に殺されます。
桓王は速やかに退却するように命じ、自ら後ろを守りました。戦いながら退却します。
この時、祝聃が遠くに繍蓋(兵車の傘)を見つけました。その下には周王がいるはずです。祝聃が目をこらして一矢を放ちました。矢は周王の左肩に中りましたが、甲冑が堅厚なため傷は深くありません。
祝聃が周王を目指して車を進めさせました。周王が危機に陥ります。
その時、虢公・林父が現れて祝聃の前進を阻みました。しかし原繁と曼伯も一斉に襲いかかって勇猛に戦います。
すると突然、鄭軍から金(銅鉦や銅鑼)の音が鳴り響きました。撤兵の相図です。鄭の各軍は兵を引き上げました。
桓王も三十里退却して営寨を構え直しました。
周公・黒肩が陣に入り、「陳人が力を尽くさなかったために敗戦を招きました」と訴えると、桓王は慙愧の色を浮かべて「朕が人を用いるのに不明だったのが原因だ」と言いました。
 
祝聃等が陣に帰り、荘公に問いました「臣が王の肩を射たので、周王は胆を潰しました。これから追撃して那厮()を生け捕りにしようと思ったのに、なぜ金を鳴らしたのですか?」
荘公が言いました「天子が不明なため我々の徳を怨みとしたから、今日の応戦は避けることができなかった。しかし諸卿の力によって我が国の社稷の危機はなくなった。それ以上求めることはない。汝が言うように天子を捕えたとして、その後、どうするつもりだ?王を射たのは既にあってはならないことだ。万一王に重傷を与えて命を奪ったら、寡人は弑君の悪名を負うことになる。」
祭足が言いました「主公の言の通りです。既に我が国の兵威を立てることができました。周王は畏懼しているはずです。使者を送って慇懃な態度で慰問し、王の肩を射たのは主公の本意ではないと伝えるべきです。」
荘公は「使者の役は仲(祭足の字)でなければ務まらない」と言い、牛十二頭、羊百頭、粟芻等の穀物百余車を準備させました。
祭足はすぐに出発し、夜の間に周王の営内に入りました。
 
桓王に謁見した祭足が再三叩首して言いました「死罪の臣・寤生は、社稷の滅亡を忍ぶことができず、兵を率いて自衛しました。しかし計らずも軍中に訓戒が行き届いておらず、王躬(王の身体)を犯すことになりました。寤生は戦兢觳觫(戦戦兢兢とした大きな恐れ)の極みに堪えることができないため、謹んで陪臣・足を派遣し、轅門(陣門)で罪(刑罰)を待って無恙(安否)を問わせることにしました。敝賦(鄭の財物)は充分ではありませんが、とりあえず労軍の用に足してください。天王の憐憫と赦しを請います。」
桓王は黙ったままですが、恥じ入る様子を顔に浮かべました。
傍にいた虢公・林父が王の代わりに答えました「寤生が既に罪を知ったのなら、寬宥(寛大)であるべきです。来使(使者)は王の恩に謝しなさい。」
祭足は再拝稽首して退出し、各営を歩いて周の将兵を慰労しました。
 
桓王は敗兵を率いて周に帰りましたが、憤懣と怨みに堪えることができず、四方に檄を飛ばして鄭寤生が王をないがしろにしている罪を討とうとしました。しかし虢公・林父が諫めて言いました「王は軽々しく動いたために功を失いました。もし四方に檄を飛ばしたら、失敗を天下に晒すことになります。諸侯は陳、衛、蔡の三国以外、全て鄭の党です。兵を招きながら集まらなかったら、鄭に笑われるだけでしょう。そもそも、鄭は既に祭足を派遣して労軍・謝罪しました。これを機に王は赦宥の態度を採り、鄭との間に新しい路を開くべきです。」
桓王は黙ったまま何も言わず、この後、鄭について語ることがなくなりました。
 
 
繻葛の戦いで周と共に鄭を討った蔡侯は、軍中で陳国の簒奪事件を知りました。陳の人心は公子・佗に帰していないといいます。そこで蔡は兵を出して陳を襲うことにしました。
 
陳・蔡の勝敗はどうなるか、続きは次回です