春秋時代 伍子胥の出奔
楚の伍子胥が呉に出奔しました。
楚人が伍胥の妻に会うと、妻はこう言いました「胥は亡命しました。既に三百里は去ったはずです。」
楚人が追撃して無人の野に至った時、伍胥が弓を引いて矢を使者に向けました。使者は地に伏せて進みます。伍胥が言いました「汝の平王(「平王」は死後に贈られる諡号なので生前に「平王」とよぶことはありませんが、原文のまま、「平王」と書きます)に報告せよ。国を滅ぼしたくなかったら我が父兄を釈放しろ。もしそうしなければ、楚は廃墟と化す。」
使者は帰国して平王に伝えました。
報告を聞いた平王は大軍を発して伍子胥を追撃させ、長江まで至りましたが、見つけることができなかったため、あきらめて兵を引きあげさせました。
伍胥は大江(長江)まで来ると、林沢の中で天を仰ぎ、大哭して言いました「楚王の無道によって我が父兄が殺された。わしは諸侯に頼って仇に報いよう。」
太子・建が宋にいる聞いた伍胥は宋に向かうことにしました。
伍奢と伍尚の父子は市で処刑されました。
申包胥が言いました「子(あなた)に仇を討たせたいが、それでは私が不忠になる。しかし子に仇を討たせなければ、親友ではなくなる。子は自分の道を行けばいい。私に言うことはない。」
伍胥が言いました「父母の仇とは天地を共有せず、兄弟の仇とは同じ国に住まず、朋友の仇とは近隣に住むことがないという。将来、私は父兄の耻(仇)を雪ぐために帰って来る。」
申包胥が言いました「子が亡ぼすことができるのなら、私は存続させることができる。子が危機をもたらすことができるのなら、私は安んじさせることができる。」
伍胥は申包胥に別れを告げて宋に奔りました。
ところが宋元公は信用がなかったため、国人に嫌われ、大夫・華氏が元公を殺そうとしました。国人も華氏に協力して大乱に陥ります。
伍胥は太子・建を連れて鄭に移りました。
鄭人は太子・建を礼遇しました。
しかし後日、太子・建が晋に行った時、晋頃公がこう言いました「太子は鄭におり、鄭は太子を信用している。太子が我が国に内応して鄭を滅ぼすことができたら、太子に鄭を封じよう。」
太子・建は晋と共に鄭襲撃の計画を練り、内応となるために鄭に帰りました。それを知らない鄭人は以前のように太子・建を厚遇します。
晋は間諜を送って太子・建と連絡を取り、期日を決めて鄭襲撃の約束をしました。ところが太子・建は自分の邑で暴虐な態度をとり、私事による問題が原因で従者を殺そうとしたため、従者が晋と太子・建の陰謀を鄭に訴えました。鄭の取り調べによって、晋の間諜が捕えられます。
鄭は太子・建を処刑しました(『史記・鄭世家』では鄭定公八年・東周景王二十三年・前522年に楚の太子・建が鄭に走り、二年後の鄭定公十年に鄭が太子・建を殺したとしています)。
太子・建には勝という子がいました。伍胥は勝を連れて呉に奔りました。
昭関(楚の関)まで来ると関吏が二人を捕えようとしました。伍胥が偽って言いました「上(国君。楚王)が私を探しているのは、美珠(玉)が欲しいからです。私が出奔したのは、玉を取りに行くためです(あるいは「玉を亡くしてしまったので、探しに行くところです」。原文は「今我已亡矣,将去取之」)。」
関吏は伍胥を釈放しました。
しかし伍胥と勝が去ってから、思い直した役人が追いかけて来ました。二人は長江に面して進退に窮します。その時、江上に船が現れました。漁父が下流から上流に向かって来ます。
伍胥が叫んで言いました「漁父よ、我々を渡らせてくれ!」
伍胥が再三叫ぶのを聞いて、漁父は伍胥を船に乗せようとしました。しかし伍胥の近くに追っ手がいると知ります。そこで漁父が歌を歌いました「日月昭昭乎侵已馳,与子期乎芦之漪。」
「空がまだ明るいから国境を越えようとする者を乗せるわけにはいかない。芦が生えた岸で会おう」という意味が込められています。
伍胥は歌の意味を覚って芦が茂る岸に潜みました。暫くして漁父がまた歌いました「日已夕兮,予心憂悲。月已馳兮,何不渡為。事寖急兮,当奈何。」
「日が既に傾き、私の心は憂い悲しむ。月が登ったのになぜ渡らない。事は急ぐがどうすればいい」という意味で、「早く船に乗りなさい」と誘っています。
伍胥は船に乗り、漁父の助けを得て千浔の津(渡し場)に着きました。
長江を渡った伍胥に飢色が見えたため、漁父が言いました「この木の下で待ちなさい。子(あなた)のために食糧を持ってきます。」
漁父が去ると伍胥は疑って深い葦の中に隠れました。
暫くして麦飯や鮑魚羹、盎漿(酒)を持った漁父が戻ってきます。しかし伍胥がいないため、歌を歌いました「芦の中の人よ。窮乏した士ではないのか(芦中人,芦中人,豈非窮士)。」
再三歌ってからやっと伍胥が現れます。
漁父が言いました「子に飢色が見えたから食糧を持ってきたのだ。子はなぜ嫌う(疑う)のだ?」
伍胥が言いました「性命は天に属すものですが、今は丈人(老人)に属しています。嫌うことはありません。」
二人が飲食を終わらせ、伍胥が去ろうとしました。
伍胥は百金の剣を解いて漁父に与え、こう言いました「これは私の前君の剣で、中に七星があり、百金に値します。お礼に差し上げます。」
しかし漁父はこう言いました「楚の法令では、伍胥を得た者には粟五万石と執圭の爵位を与えると聞いた。百金の剣を欲しいとは思わない。」
漁父は更に続けました「子はすぐ去るべきだ。ゆっくりしていたら楚に捕えられてしまう。」
伍胥が「丈人の姓と字をお教えください」と言うと、漁父はこう答えました「今日は凶凶(凶悪。大凶)の日だ。二人の賊が出会ってしまった。私は楚の賊を逃がした賊だ。二人の賊が理解するのに言葉はいらない。姓や字が何の役に立つというのだ。子は芦の中の人、わしは漁の丈人でいいではないか。富貴を得ても忘れるな。」
伍胥は「はい(諾)」と応えてから、漁父に言いました「子(あなた)の盎漿も隠してください。見つかってはなりません(あなたが私を助けたことを楚兵に知られたら危険なので、証拠を隠してください)。」
漁父も「わかった(諾)」と返事をしました。
伍子胥が数歩進んで後ろを振り向くと、漁父は自分の船を転覆させて長江に沈めていました。
伍子胥は何も言わず、呉に向かいました。