第十七回 宋国が長万を誅し、楚王が息嬀を虜にする(後編)

*今回は『東周列国志』第十七回の後編です。
 
桓公は長勺の大敗後、兵を用いたことを悔いて管仲に国政を任せ、日々、婦人と酒を飲んで遊ぶようになりました。国事を報告する者がいると、桓公は「なぜ仲父に報告しない?」と言って追い返します。
 
当時、豎貂という者が桓公の幸童となりました。豎貂は更に寵を得るために内庭(国君が生活する場所。主に後宮に近づきたいと思いましたが、男の身では自由に往来することができないため、自宮(自分で去勢すること)して宮内に入りました。桓公は豎貂を憐れみ、ますます寵信して左右から離さなくなります。
 
斉の雍邑に巫という者がいました。邑名を氏にして雍巫といいます。字は易牙です。
易牙は権術が多く、射術と御術を得意とし、しかも烹調(割烹)の技に精通していました。
ある日、衛姫(斉桓公の妻妾の一人)が病にかかったため、易牙が五味を調和させた料理を献上しました。それを食べた衛姫は病が回復します。衛姫は易牙を気に行って傍に置くようになりました。
そこで易牙は豎貂に美食を御馳走し、豎貂から桓公に自分を推挙させました。
豎貂の話を聞いた桓公易牙を招いて問いました「汝は料理を善くするのか?」
易牙が「はい(然)」と答えたため、桓公が戯れて言いました「寡人は鳥獣蟲魚の味を食べ尽くした。知らないのは人肉の味だけだ。」
易牙は退席すると午膳(昼食)を準備し、蒸した肉を持ってきました。乳羊のように柔らかく、これ以上ないほどの甘美な味です。桓公が食べ終えてから問いました「これほどの美味とは何の肉だ?」
易牙が跪いて言いました「これが人肉です。」
桓公が驚いて問いました「どこから得たのだ?」
易牙が答えました「臣の長子は三歳になりました。臣は『国君に対して忠の者は自分の家を持たない(忠君者不有其家)』と聞いています。主公が人の味を知らないと言ったので、臣は我が子を殺して主公の口に献上しました。」
桓公は「子(汝)は退がれ!」と命じましたが、易牙が国君を愛するために我が子を殺したのだと思い直し、衛姫も易牙の忠心を褒め称えたため、易牙を寵信するようになりました。
 
この後、豎貂と易牙が内外で事を行い、秘かに管仲を疎むようになります。
ある日、豎貂と易牙が共に桓公に言いました「『国君が政令を出し、臣下がそれを奉じる(君出令,臣奉令)』と言います。しかし今の主公は、一にも仲父、二にも仲父です。斉には国君がいないのでしょうか。」
すると桓公は笑って言いました「寡人と仲父の関係は、身体に股肱(四肢)があるようなものだ。股肱があるから身体が成り立っており、仲父がいるから国君の地位が成立している。汝等小人に理解できることではない。」
二人は再び讒言をすることがなくなりました。
 
管仲が政治を行って三年が経ち、斉国は大いに治まりました。
 
 
当時、楚が強盛になり始めており、鄧を滅ぼし、権に勝ち、隨を服させ、鄖を破り、絞と盟し、息を従わせていました。漢水以東の小国は全て楚の臣を称して貢物を納めます。しかし蔡だけは斉侯と婚姻関係があり、中国(中原)諸侯とも盟を結んで共に兵事を行っていたため、楚に服従しませんでした。
楚は文王・熊貲の時代に入っており、王を称して既に二世になります。鬥祈、屈重、鬥伯比、章、鬥廉、鬻拳といった人材が王を補佐して漢陽を狙っており、中原進出の野望をしだいに大きくしていました。
 
蔡哀侯・献舞は息侯と同じく陳女を夫人にしました。蔡が先に娶り、息が後に娶ります。息夫人となった嬀氏は絶世の美貌の持ち主でした。
息嬀が陳に帰寧(実家に帰ること)した時、蔡国を通りました。蔡哀侯が言いました「わしの姨(妻の姉妹)がこの地に来たのだから、一目会わなければなるまい。」
哀侯は人を送って息夫人を宮中に招き、宴を開いて款待します。ところが哀公は息嬀に無礼な言葉をかけて客を敬う態度を示しませんでした。
息嬀は怒って蔡を去り、陳から息に帰る時は蔡国を通りませんでした。
 
息侯は蔡侯が妻に対して無礼な態度を取ったことを憎み、報復を考えて楚に貢物を送りました。
息の使者が秘かに息侯の言葉を伝えます「蔡は中国(中原)に頼って(楚に)貢物を送ろうとしません。もし楚が我が国を攻め、我が国が蔡に援けを求めたら、蔡君は勇があっても軽率なので、必ず自ら援けに来ます。そこで我が国が楚と共に蔡を攻撃すれば、献舞(蔡哀侯)を虜にできます。献舞を虜にしたら、蔡は必ず朝貢するようになります。」
喜んだ楚文王は兵を出して息国を攻めました。
 
息侯が蔡に援軍を求めると、蔡哀侯は自ら大軍を率いて息に向かいました。
しかし蔡軍が陣を構える前に楚の伏兵が一斉に攻撃を開始しました。哀侯は抵抗できず、急いで息城に奔りましたが、息侯は城門を閉じて入城を拒否します。蔡軍は大敗して逃走を開始しました。楚軍が後を追い、莘野で哀侯を捕えて帰国します。
息侯が楚軍を労って楚文王を国境まで見送った時、蔡哀侯はやっと息侯の計に落ちた知り、深く息侯を憎みました。
 
楚文王は帰国してから蔡哀侯を煮殺して太廟に奉げようとしました。しかし鬻拳が諫めて言いました「王は中原の事を行おうとしています。献舞を殺したら、諸侯が皆、王を恐れるでしょう。彼を帰国させて講和するべきです。」
ところが、鬻拳が再三再四苦諫を繰り返しても、楚文王は聞こうとしません。怒った鬻拳は左手で王の袖をつかみ、右手で佩刀を抜き、王に迫って言いました「臣は王と共に死にます!王が諸侯を失う姿を見たくありません!」
楚王は驚いて「孤は汝の言うとおりにしよう!」と繰り返し言いました。
こうして蔡侯が釈放されることになります。
鬻拳が言いました「幸いにも王が臣の言を聞き入れました。これは楚国の福です。しかし臣下が国君を脅迫するのは、万死に値します。斧鑕に伏させてください(鑕は腰斬の刑の時に罪人が横になる道具。「死刑に処してください」という意味です)。」
楚王が言いました「卿の忠心は日(太陽)を貫く。孤はそれを罪としない。」
鬻拳が言いました「王は臣を赦しましたが、臣は自分を赦すことができません。」
鬻拳は佩刀で自分の足を切断し、こう叫びました「人臣で国君に対して無礼な者はこれを視よ!」
楚王は鬻拳の足を大府に保管させて「これを残すことによって、孤が諫言に違えた(逆らった)過を人々に知らしめよ」と言いました。
医人が招かれて鬻拳の怪我を治しましたが、歩くことはできません。
楚王は鬻拳を大閽(門守の長)に任命して城門を管理させ、尊んで太伯と呼ぶことにしました。
 
釈放された蔡侯が帰国するため、大きな筵席(宴席)が設けられました。華やかな女楽が音楽を奏でます。箏を弾く女楽が儀容秀麗だったため、楚王が指さして蔡侯に言いました「あの女は色も技も優れている。一觴(一杯の酒)を献じさせよう。」
楚王は女楽に大觥を持たせて蔡侯に酒を勧めさせました。蔡侯は一口で飲み干すと、大觥(大杯)に酒を満たして自ら楚王の長寿を祝いました。
楚王が笑って言いました「蔡君は今までに絶世の美色というのを見たことがあるか?」
蔡侯は息侯が楚軍を導いて蔡を破ったことを思い出し、こう言いました「天下の女色で息嬀の美に敵う者はいません。あれはまさに天人です。」
楚王が「その美色はどのようなものだ?」と問うと、蔡侯が言いました「目は秋水のように澄んでおり、顔は桃花のように美しく、背は高すぎず低すぎず、優美なしぐさは二つと存在しないほどです。」
楚王が言いました「息夫人に一目でも会うことができれば死んでも悔いはない。」
蔡侯が言いました「楚君の威があれば、斉姫や宋子(中原の大国である斉や公爵の宋の女)を献上させることも困難ではありません。宇下(軒下。支配下の一婦人ならなおさらです。」
楚王は喜んで宴を楽しみました。
その後、蔡侯は別れを告げて本国に帰ります。
 
楚王は蔡侯の言をいつも思い出し、息嬀を得る方法を考えました。そこで巡視を名目に息国に入ります。
息侯は道中で迎え入れ、恭敬を尽くして自ら闢除(先導して道を開くこと)し、館舍に入りました。
朝堂で大饗(大きな宴)が開かれます。爵(酒器)を手にした息侯が進み出て楚王の寿を祝うと、楚王は爵を受け取り、微笑して言いました「かつて寡人は君夫人のために微労を尽くした。今、寡人がここに来たのだから、君夫人が寡人のために一觴を献じてもいいのではないか?」
息侯は楚の威を恐れて命に逆らうことができず、「わかりました(唯唯)」と連呼しながら宮中に伝えました。間もなく、環珮の音が響き、夫人・嬀氏が盛服(華麗な服)を身にまとって現れました。毯褥が設けられ、嬀氏がその上で再拝してから謝辞を述べます。楚王が答礼の言葉を述べている間に、嬀氏は白玉の卮(酒器)に酒を満たして楚王に進めました。玉色に映える嬀氏の手を見た楚王は大いに驚き、「天上の人というのは嘘ではなかった。人間(人の世)では稀にしか見ることができない美女だ」と思いました。楚王は自分の手を出して卮を受け取ろうとします。しかし嬀氏は慌てることなく卮を宮人(宮女)に渡し、宮人から楚正に渡されました。
楚王が一息に飲み干すと、嬀氏は改めて再拝して宮中に帰りました。
残された楚王は息嬀を想って酒が進まなくなり、解散して館に戻っても眠れなくなりました。
 
翌日、楚王が館舍で享(宴)を設けました。名目は答礼ですが、兵甲を潜ませています。
息侯が席に着いて酒が半ばほどまわると、楚王が酔ったふりをして息侯に言いました「寡人は君夫人(息侯夫人)に対して大功を立てた。今、三軍がここにいる。君夫人は寡人のために犒労(軍を慰労すること)できないか?」
息侯が婉曲に辞退して言いました「敝邑は褊小(狭小)なので優れた従者(夫人に従って犒労する者)がいません。寡小君(夫人)と相談させてください(または「寡小君のために考え直してください。」原文「容与寡小君図之」)。」
すると楚王は案(机)を叩いて言いました「匹夫は義に背き、巧言を用いてわしに逆らうのか!左右の者はなぜ彼を捕えない!」
息侯が弁解しようとした時、隠していた兵達が突然現れ、章と鬥丹の二将が席の間で息侯を縛りました。
楚王自ら兵を率いて息の宮殿に進入し、息嬀を探します。異変を知った息嬀は「虎を室(家)に入れてしまったのですから、私が自分で招いた禍です」と言うと、後園に逃げて井戸に身投げしようとしました。しかし鬥丹が後を追って衣裾をつかみ、「夫人は息侯の命を助けたくないのですか。なぜ夫婦ともに死ぬのですか」と言ったため、息嬀は黙って従いました。
鬥丹が息嬀を楚王に会わせました。楚王は好言で慰め、息侯を殺さず、息の祭祀も継承させることを約束しました。息嬀は軍中で楚王夫人に立てられ、後車に乗せられます。その顔が桃花のように美しかったため、桃花夫人とよばれるようになりました。今(明清時代)も漢陽府城外に桃花洞があり、その上に桃花夫人廟がありますが、これは息嬀のために建てられたものです。
 
楚王は息侯を汝水に置いて十家の邑を封じ、息の祭祀を守らせました。しかし息侯は鬱憤が元で死んでしまいました。楚の無道はここに極まったといえます。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。