第二十回 晋献公が驪姫を立て、楚成王が子文を平定する(中編)

*今回は『東周列国志』第二十回の中編です。
 
公は驪姫を寵愛したため、子の奚斉を後嗣に立てたいと思い始めました。ある日、それを驪姫に話します。
驪姫も心中では我が子が跡継ぎになることを願っていましたが、申生が既に世子に立てられており、廃立の理由もありません。申生を後嗣に立てようとしても恐らく群臣が納得せず、諫言によって阻止されることになります。また、重耳と夷吾も申生と仲がよく、三公子がいつも献公の傍にいるため、もし奚斉擁立のことを話してうまくいかなかったら、三公子の警戒を招いてますます困難になります。
そこで驪姫は跪いて献公にこう言いました「太子が立てられたことは諸侯で知らない者がいません。しかも太子は賢人で罪もありません。国君が妾(私)の子という関係によって廃立を行おうとするのなら、妾は自殺を選びます。」
献公はこれを本心だと信じ、太子廃立に関して話すことがなくなりました。
 
献公には嬖倖(寵臣)の大夫が二人いました。梁五と東関五といい、どちらも献公と共に外事(朝廷の政治)に関わり、寵信を盾に権力を弄んでいます。晋の人々は二人を併称して「二五」とよびました。
また、施という名の優人(芸人)もいました。まだ若い美男子で、伶俐多智(聡明で智慧が多いこと)のうえ、人を喜ばせる話術を得意としたため、献公はこの優人を特別気に入り、優人・施が宮禁後宮を出入りする時も警戒しませんでした。その結果、驪姫が優人・施と私通し、親密になっていきます。
 
ある日、驪姫が胸に秘めていたことを優施(優人・施)に語り、三公子を離間して後嗣の地位を奪う計を謀りました。
優施が画策して言いました「封疆(土地を委ねること)を名目に三公子を遠くに出して鎮守させてから、宮内の事を行うべきです。また、この事は必ず外臣に口を開かせて忠心による計を装わなければなりません。今、『二五』が政治を行っているので、夫人が金幣を贈って彼等と結び、彼等から進言させれば、主公は必ず聞き入れます。」
驪姫は金帛を優施に渡し、「二五」に分け与えさせました。
 
優施はまず梁五に会って言いました「君夫人が大夫と誼を結びたく、施(私)を使って不腆の敬(粗末な礼物)を贈らせました。」
梁五が驚いて言いました「君夫人がなぜ私を必要とするのでしょうか?必ず言付があるはずです。あなたがそれを話さなければ、私は受け取ることができません。」
そこで優施は驪姫の謀を全て話しました。
梁五が言いました「東関の援けを得なければ成功しないでしょう。」
施が言いました「夫人に饋(礼物)の準備があります。大夫(あなた)と同等です。」
二人は東関五の屋敷を訪問し、三人で計画を練りました。
 
翌日、梁五が献公に進言しました「曲沃は始封の地であり、先君の宗廟が置かれています。蒲と屈は戎狄に近く、辺疆の要地です。この三邑は主が必要です。宗邑に主がいなければ民が畏威の心(威信を恐れる心)を持たなくなり、辺疆に主がいなければ戎狄が窺伺の意(隙を窺う野心)を持つようになります。太子を曲沃の主とし、重耳と夷吾をそれぞれ蒲と屈の主とし、主公が国内で制馭(指揮)すれば、磐石の安泰を得ることができます。」
献公が言いました「世子を外に出していいものか。」
東関五が言いました「太子は主君の貳(二番目の地位に居る者)であり、曲沃は国の貳にあたります。太子でなくて誰を主にするというのでしょうか。」
献公が言いました「曲沃はその通りだろう。しかし蒲と屈は荒野の地だ。どうやって守ればいいか?」
東関五が言いました「城がなければ荒野ですが、城ができれば都邑(都市)になります。」
更に二人は声をそろえてこの計画を賛美し、「一朝にして二都に増やせば、内は封内(国内)を守り、外は疆宇(辺境の領土)を開拓できます。晋はますます大きくなるでしょう」と言いました。
献公は二人の言を信じて世子・申生に曲沃を守らせ、宗邑の主にしました。太傅・杜原款が同行します。また、重耳を蒲に、夷吾を屈に送って国境を守らせました。狐毛が重耳に同行し、呂飴甥が夷吾に同行します。
 
三公子の部署が決まると、趙夙を派遣して太子のために曲沃城を修築させました。城壁が広く高くなり、新城と改名されます。
蒲と屈の二城にも士蔿を派遣して築城を監督させました。しかし士蔿は薪を集めて土を重ねるだけで、早々に工事を終わらせます。ある人が「これでは堅固とはいえません」と言うと、士蔿は笑って言いました「数年後にこの城は仇敵となる。なぜ堅固にする必要があるのだ。」
士蔿が詩を賦しました「狐裘が雑乱としている。一国に三公がいる。私は誰に従おう(狐裘尨茸,一国三公,吾誰適従)。」
狐裘(狐の毛皮)は貴人の服で、尨茸は乱れた様子を表します。嫡庶長幼の差がなくなり、貴人が多くて混乱しているという意味です。士蔿は驪姫の陰謀に気付き、後に蒲や屈と敵対することになると知ってこの詩を作りました。
こうして申生と二公子が晋都から遠く離れ、奚斉と卓子が献公の左右に侍ることになりました。驪姫はますます媚を献じで寵を受け、献公の心を惑わしていきます。
 
当時、献公は二軍を作ったばかりでした。自ら上軍の将となり、世子・申生を下軍の将にします。
申生は大夫・趙夙と畢萬を率いて狄、霍、魏の三国を攻め滅ぼしました。狄の地は趙夙に、魏の地は畢萬に采邑として与えられます。太子が大きな功績を挙げたため、驪姫はますます太子を憎み、陰険な謀略がめぐらされるようになりますが、この件は後に述べます。
 
 
話は楚に移ります。
楚の熊囏と熊惲の兄弟は文夫人から産まれましたが、熊惲の才智は兄に勝っており、文夫人からも愛されていました。国人も熊惲に心服するようになります。
そのため、即位したばかりの熊囏は弟を警戒し、後患を絶つために口実を探して誅殺しようとしました。しかし周りの者が熊惲を助けていたため、なかなか決断が下せません。
 
熊囏は政事を怠り、遊猟に耽りました。即位して三年が経っても国君としての業績はありません。
一方、熊惲は熊囏との嫌隙が明らかになっていたため、秘かに死士を養い、兄が狩猟に出た隙を襲って殺してしまいました。文夫人には兄が病死したと報告します。
文夫人は心中で疑いましたが、事件を明白にしようとはせず、諸大夫に熊惲を擁立させました。これを成王といいます。
熊囏は国をまともに治めず、国君として相応しくなかったため、諡号がなく、「堵敖」と号されました。葬儀も王の礼を用いられませんでした。
成王の叔父にあたる王子・善が令尹になりました。字は子元です。
 
子元は兄の文王が死んでから簒奪の野心を抱いていました。また、嫂の息嬀(文夫人)が天下の絶色(またとない美女)だったため、関係をもちたいと思うようになりました。
文王の二子である熊囏と熊惲がまだ若かったため、子元は尊行(叔父という序列)に頼って二子に遠慮することがありませんでしたが、大夫・鬥伯比の正直無私と豊かな才智を恐れて、好き勝手な振る舞いはできませんでした。
ところが、周恵王十一年に鬥伯比が病死したため、子元ははばかる者がなくなります。そこで王宮の傍に大きな館舍を築き、毎日、歌や舞で文夫人の気を引こうとしました。
音楽を聞いた文夫人が侍人に問いました「宮外の楽舞の声はどこから来るのですか?」
侍人が答えました「令尹の新館から聞こえて来るようです。」
すると文夫人はこう言いました「先君は武事を習うために干(武器)を持って舞い、諸侯を征伐しました。だから諸侯の朝貢を絶えなくさせることができたのです。しかし今は楚兵が中国(中原)に至らなくなって既に十年が経ちます。令尹は恥を雪ごうとせず、未亡人の傍で舞を楽しんでいますが、おかしなことではありませんか?」
侍人がこれを子元に話すと、子元が言いました「婦人が中原を忘れていないのに、わしが忘れていた。鄭を討伐しなければ丈夫(男)ではない。」
こうして兵車六百乗が動員され、子元が自ら中軍を指揮しました。鬥御疆と鬥梧が大旆(大旗)を立てて前隊となり、王孫游と王孫嘉が後隊になります。堂々とした楚軍が鄭国に殺到しました。
 
楚の大軍が迫ったと聞いた鄭文公はすぐに百官を集めて協議しました。
堵叔が言いました「楚兵は数が多く勢いがあるので敵う相手ではありません。和を請うべきです。」
師叔が言いました「我々は斉と盟を結んだばかりなので、斉が必ず援けに来ます。城の守りを固めて援軍を待つべきです。」
世子・華は若くて剛毅だったため、城を背にして一戦することを請いました。
叔詹が言いました「三人の言の中で、私は師叔の意見を採ります。しかし臣の愚見によれば、楚兵はやがて自ら退くでしょう。」
鄭文公が問いました「令尹が自ら将となったのに、なぜ簡単に退くのだ?」
叔詹が言いました「楚が人の国に兵を加えるのに六百乗を用いたとは聞いたことがありません。公子・元が必勝の心(意志)を持っているのは息夫人に媚びたいからでしょう。勝ちを求める者は同時に敗戦を恐れるものです。楚兵が来たら臣に撤兵させる計があります。」
群臣が協議している時、間諜が報告しました「楚師が桔関を破って進軍し、既に外郭も破って純門に入りました。もうすぐ逵市(大通りの市)に至ります。」
堵叔が言いました「楚兵の勢いが激しいので、和を求めて成功しなかったら、桐邱に奔って難を避けるべきです。」
すると叔詹は「恐れることはない」と言い、甲士を城内に潜ませて城門を大きく開けました。街市の百姓にはいつものように生活させます。
 
楚の鬥御疆等が率いる前隊が鄭都に到着しました。
すると城門が大きく開かれており、民衆は普通に往来して恐れる様子もありません。城壁の上にも動きがないため、怪しんで鬥梧に言いました「鄭がこのように閒暇(平安無事。何もない様子)なのは、きっと詭計があるからだ。我々を誘って入城させようとしているのであろう。軽々しく進んではならない。令尹を待って指示を仰ごう。」
楚の前隊は城から五里離れたところで営寨を築きました。
 
暫くして子元の大軍が到着しました。鬥御疆等が城中の様子を詳しく報告します。
子元が高阜(丘)に登って鄭城を眺めると、旌旗が整然と並んで甲士が林立していました。
子元が嘆息して言いました「鄭には『三良』がおり、その謀は測り知ることができない。万一利を失ったら文夫人に会わせる顔がなくなる。もっと虚実(実情)を探ってから城を攻めるべきだ。」
 
 
 
*『東周列国志』第二十回後編に続きます。