第二十回 晋献公が驪姫を立て、楚成王が子文を平定する(後編)

*今回は『東周列国志』第二十回の後編です。
 
翌日、後隊の王孫游が人を送って子元に報告しました「間諜の報告によると、斉侯が宋・魯二国の諸侯と共に自ら大軍を率いて鄭に向かっています。前隊の鬥将軍等が前進しないので、後隊も軍令を待ち、敵を迎え撃つ準備をします。」
子元が驚いて諸将に言いました「諸侯が我々の退路を絶ったら腹背に敵を受けることになり、損害が大きくなる。我が軍は鄭に進攻して逵市に至った。既に全勝(完勝)といえるだろう。」
子元は秘かに軍令を発し、兵に枚(声を出さないために口にくわえる板)を噛ませ、馬から鈴をはずし、夜の間に営寨を出ました。但し鄭軍の追撃を恐れたため、軍幕は撤去せず、大旆も立てたままにして、人がいるように見せました。
大軍が秘かに鄭の国境を出てからやっと鐘を鳴らして鼓を敲き、凱歌を歌って帰国します。
 
子元が先に人を送って文夫人に報告しました「令尹が全勝して帰って来ました。」
すると夫人はこう応えました「令尹が敵を殲滅して功を成したのなら、国人に宣示して敵の罰を明らかにし、太廟に報告して先王の霊を慰めるべきです。未亡人に関係することではありません。」
子元は恥じ入って後悔しました。
楚王・熊惲は子元が戦わずに兵を還したと知り、不快になりました。
 
鄭の叔詹は自ら軍士を監督して城壁を巡視し、徹夜して一睡もしませんでした。
翌日早朝、楚陣の軍幕を指さして言いました「空の営だ。楚師は逃走した。」
周りの者はそれを信じず、「なぜわかるのですか?」と問いました。
叔詹が答えました「幕は大将がいる場所なので、鉦が鳴り、儆(警報)が設けられ、軍声が轟くものだ。しかし今、幕の上に鳥が集まって鳴いている。だから空幕だと分かるのだ。恐らく諸侯の援軍が到着し、楚が先にそれを知って遁走したのだろう。」
間もなく、間諜が報告しました「諸侯の救兵が来ましたが、鄭境に至る前に楚師が去ったと聞いたので、それぞれ本国に去りました。」
人々は叔詹の智に敬服しました。
鄭は斉に使者を送って救援の労に謝しました。この後、鄭は斉に感服して二心を持たないようになります。
 
楚の子元は鄭を討伐したのに功を挙げられなかったため、心中不安になり、簒奪の計画を急ぐようになりました。まず文夫人と通じ、その後、事を行おうと決心します。
この頃ちょうど文夫人が小恙(小さい病)を患ったため、子元は見舞いを名目に王宮に入り、臥具を宮中に遷して寝泊りしました。三日経っても王宮から出ようとしません。その間、家甲(私兵)数百が宮外を囲みます。
これを知った大夫・鬥廉が宮門に入り、子元の臥榻(寝床)に至りました。子元は鏡に向かって鬢(髪)を整えています。鬥廉が譴責して言いました「ここは人臣が櫛沐(化粧)をする所ですか!令尹は速やかに出ていくべきです!」
すると子元が言いました「ここは我が家(一族)の宮室だ。射師に何の関係があるのだ?」
鬥廉が言いました「王侯の貴(尊貴な地位)は弟兄でも共有できないものです。令尹は介弟(「介弟」は「弟」の敬意を込めた言い方。文王の弟という意味)とはいえ人臣です。人臣が宮闕を通る時は馬から降りなければならず、廟の前を通る時は小走りにならなければなりません。咳をして唾をその地に吐いただけでも不敬とみなされます。寝処ならなおさらでしょう。しかも寡夫人が近くにいます。男女が猜疑を避けるべきであることは、令尹も御存知でしょう。」
子元が激怒して言いました「楚国の政治はわしが掌握している!汝はなぜ口出しするのだ!」
子元は左右の近臣に命じて鬥廉の両手に枷をつけさせ、廡(正堂の周りの廊屋)に拘留して王宮から出られないようにしました。
それを知った文夫人が侍人を派遣し、鬥伯比の子・鬥穀於菟に急を告げます。入宮して難を平定するように命が降されました。
鬥穀於菟は秘かに楚王に上奏し、鬥梧、鬥御疆およびその子・鬥班と約束して半夜に王宮を包囲しました。家甲を率いて攻撃を始めると、子元の衆は驚いて四散します。
子元は酒を飲んで酔いがまわってから、宮人を抱いて寝たところでしたが、騒動に驚いて目を醒ましました。すぐに剣を握って外に出ます。そこに剣を持った鬥班が入ってきました。子元が怒鳴って言いました「乱を成したのは孺子(子供)か!」
鬥班が応えて言いました「私が乱を成したのではない!乱を成した者を誅殺しに来たのだ!」
二人が宮中で戦っていると、数合もせずに鬥御疆と鬥梧が現れました。子元は勝てないと覚り、門に向かって走ります。しかし鬥班の一撃を受けて首が斬られました。
鬥穀於菟が鬥廉を救い出し、共に文夫人の寝室外で稽首慰問して去りました。
翌朝、楚成王・熊惲が殿に登り、百官が朝見しました。楚王は子元の家族を滅ぼし、その罪状を通衢(大通り)に掲げるように命じました。
 
ここで鬥穀於菟について紹介します。
鬥穀於菟の祖父は鬥若敖といい、鄖子(鄖国の主)の娘を娶って鬥伯比が産まれました。
若敖が死んだ時、伯比はまだ幼かったため、母と一緒に母の実家・鄖国に遷り住んで宮中を往来するようになりました。鄖夫人(鄖子の妻。この時の鄖子は伯比の祖父ではなく、恐らく次の世代で、伯比の母とは兄弟姉妹の関係です)は伯比を我が子のように愛します。
鄖夫人には娘がおり、伯比とは表兄妹(親の兄弟姉妹の息子と娘)のように親しくなりました。幼い頃から宮中で一緒に遊び、成長してからも一緒にいることを禁じなかったため、二人の間に情が芽生えます。やがて鄖女が妊娠してしまいました。鄖夫人はやっと二人の関係を知り、伯比との接触を絶たせて入宮を禁止します。娘は病として一室に籠らせました。
暫くして娘が子を生むと、母は侍人に命じて子を衣服に包んで宮外に運ばせました。子は夢沢(地名)に棄てられます。母は娘に子ができたことを鄖子にも隠し、娘の醜名が拡がらないようにしました。
伯比は恥と後悔を抱いて母と一緒に楚国に戻りました。
 
ちょうどその頃、鄖子が夢沢で狩りをしました。沢を眺めると猛虎が座っています。近臣に矢を射させましたが、矢は虎の近くで落ち、一矢も中りませんでした。虎は全く動じた気配を見せません。鄖子は不思議に思い、人を送って沢を探らせました。
暫くして探りに行った者が戻り、こう報告しました「虎が一人の嬰児を抱きかかえ、乳を飲ませています。人を見ても恐れず、逃げようともしません。」
鄖子が言いました「それは神物だ。驚かしてはならない。」
狩りが終わって帰った鄖子が夫人に言いました「夢沢に行ったら奇事に出遭った。」
夫人がその内容を問うと、鄖子は猛虎が人の子に乳を与えていた事を話しました。
すると夫人が言いました「夫君は知らないのです!その嬰児は妾(わたし)が棄てたのです!」
鄖子が驚いて問いました「夫人はなぜ嬰児を棄てたのだ?」
夫人が言いました「お赦しください。その子は私達の娘と鬥甥(甥は姉妹の子)の間に産まれた子です。妾(わたし)は娘の名が汚れることを恐れたため、侍者に命じて夢沢に棄てさせました。昔、姜嫄が巨人の足跡を踏んで子を産みましたが、不祥だと思って冰の上に棄てました。しかし鳥が集まって翼で覆い守ったので、姜嫄は神だと考え直して養育したといいます。その子は棄と名付けられ、后稷の官に就いて周代の祖となりました。虎の乳で育てられたという嬰児も大貴人に違いありません。」
鄖子は納得して人を派遣し、嬰児を取り戻して娘に育てさせることにしました。
翌年、娘を楚に送って鬥伯比と結婚させました。楚人の方言で乳を「穀」、虎を「於菟」というため、虎の乳で育ったという意味で子供は穀於菟と命名されます。表字(あざな)は子文です。
(明清時代)も雲夢県に於菟郷がありますが、そこが子文の産まれた地です。
 
成長した穀於菟は安民治国の才、経文緯武の略(文武の才能)を備えました。父の伯比は楚に仕えて大夫になります。
伯比が死ぬと穀於菟が大夫を継ぎました。
 
子元が殺されて令尹が不在になった時、楚王は鬥廉を用いようとしました。しかし鬥廉は辞退してこう言いました「今、楚と敵対しているのは斉です。斉は管仲や甯戚を用いて国を富ませ、兵を強くしています。臣の才が管・寧の流に及ばないのは明らかです。王が綱紀を改めて楚の政治を正し、中原と対抗したいのなら、鬥穀於菟を用いなければなりません。」
百官も声をそろえて言いました「彼こそ職責を全うできます。」
楚王は納得して鬥穀於菟を令尹に任命しました。
楚王が言いました「斉は管仲を用いて仲父と号した。今、穀於菟が楚において尊顕の地位に就いたのだから、我々も字を使うべきだ。」
こうして鬥穀於菟は名を直接呼ばれず、子文と呼ばれるようになりました。周恵王十三年の事です。
 
令尹になった子文が群臣にこう命じました「国家の禍は国君が弱く臣下が強いことから起きる。百官の采邑は全て半分を公家に返還せよ。」
子文が鬥氏から率先して実行したため、誰も異議を称えませんでした。
 
郢城は南が湘水・潭水に至り、北は漢水・長江が路を塞ぐ形勝の地でした。そこで子文は丹陽から遷都して郢都と号しました。
子文は兵を整えて武を教え、賢人を推挙して能力に応じた職務を与えます。公族の屈完を賢人と認めて大夫に任命し、族人の鬥章に才智があると認めて他の鬥氏と共に軍旅を治めさせました。また、子の鬥班を申公にしました。
この後、楚国は大いに治まりました。
 
 
楚王が賢人を用いて国を治めているという情報は斉にも入りました。斉桓公は楚の中原進出を恐れ、諸侯の兵を率いて先に楚を討つことにしました。
しかし、桓公管仲に意見を求めると、管仲は反対してこう言いました「楚は南海で王を称し、その地は広大で兵も強いので、周の天子も制御できません。しかも最近、子文に政治を委ねて四境を安定させています。兵威によって志を得られる相手ではありません。そもそも主公は諸侯を得たばかりで、まだ存亡興滅の徳が人心深くに入り込んではいません。恐らく諸侯の兵を用いることはできないでしょう。今は威徳を拡げて時を待つべきです。これこそが万全を保つ計です。」
桓公が言いました「我が先君は九世の讎に報いて紀国を滅ぼし、その地を領有できた。しかし鄣が紀国の附庸だったのに、まだ我が国に服従していない。寡人は鄣も滅ぼしたいと思うが、如何だろうか?」
管仲が答えました「鄣は小国ですが、その先祖は太公の支孫であり、斉と同姓の国です。同姓の国を滅ぼすのは非義です。主公が王子成父に命じて大軍で紀城を巡視させ、鄣討伐の姿を示せば、鄣は恐れて投降するでしょう。こうすれば親族を滅ぼす悪名を得ることなく、その地を領有するという実を得ることができます。」
桓公管仲の策を実行すると、鄣君は恐れて投降を請いました。
桓公が言いました「仲父の謀は百に一つも失敗がない。」
 
斉の君臣が国事を相談している時、突然、近臣が報告しました「燕国が山戎の侵伐を受けており、使者を派遣して救援を求めています。」
管仲が言いました「主公が楚を討伐したいのなら、まず戎を安定させなければなりません。戎患が止んだら南方の事に専念できます。」
 
桓公の戎討伐はどうなるか、続きは次回です。