第二十六回 百里が妻を知り、穆公が陳宝を得る(後編)

*今回は『東周列国志』第二十六回後編です。
 
姜戎子・吾離が秦に服さず侵犯を繰り返したため、三帥が兵を率いて討伐しました。
吾離は敗れて晋に奔り、瓜州の地が全て秦の支配下に入りました。
 
当時、西戎の主・赤斑が強盛になる秦を見てその臣・繇余を秦に送りました。聘問を名分にして穆公を観察させます。
穆公は繇余を連れて苑囿で遊び、三休の台に登って宮室苑囿の美を誇示しました。すると繇余が言いました「貴君のこれらの物は、鬼(鬼神)を使って完成させたのですか?それとも人を使った完成させたのですか?鬼を使ったのなら神を労し、人を使ったのなら民を労したことでしょう。」
穆公はこの言葉から繇余が普通の人物ではないと知り、こう聞きました「汝の戎夷には礼楽法度がないが、どうやって治めているのだ?」
繇余が笑って言いました「礼楽法度があるから中国(中原)は乱れているのです。上聖(上古の聖人)が文法(法律)を作って百姓を規制しましたが、そこで得たのは小治だけです。その後、上に居る者が日に日に驕淫になり、礼楽を名分にして自分の身を粉飾し、法度の威を借りて下の者を譴責するようになりました。だから人民がそれを怨み、簒奪が生まれたのです。戎夷にはそのようなことがありません。上は淳徳(厚い徳)をもって下を遇し、下は忠信をもって上に仕え、上下が一体となっているので、形迹(礼節)によって欺きあうことも、文法によって撹乱しあうこともありません。その治(治世の方法)が見えなくても(礼楽法度の決まりがなくても)よく治まっているのです。」
穆公は返す言葉がなく、退いてから百里奚に話しました。
百里奚が言いました「それは晋国の大賢人です。臣もその名はよく知っています。」
穆公が不安と不満の面持ちで言いました「『隣国に聖人がいれば、敵国の憂いとなる(鄰国有聖人,敵国之憂也)』という。繇余には賢才があり、戎に用いられている。秦の憂患になるのではないか。」
百里奚が言いました「内史・廖は奇智が多いので、主公は彼と謀るべきです。」
そこで穆公は内史・廖を招いて繇余の話しをしました。
廖が言いました「戎主は荒遠な僻地に住んでおり、中国(中原)の声(音楽)を聞いたことがありません。試しに女楽を送ってその志を奪い、繇余を我が国に留めて帰国の日を遅らせれば、戎の政事は怠廃し、上下が疑いあうようになるでしょう。そうなれば国を取ることも可能です。その臣を得るのはなおさら簡単です。」
穆公は「わかった(善)」と言い、連日、繇余と同席して食事をするようになりました。蹇叔、百里奚、公孫枝等も順に付き添わせ、西方の地形や兵勢について語り合います。
同時に音楽に精通した美女六人を着飾らせて、内史・廖に命じて戎に連れて行かせました。廖が戎を聘問して女楽を献上します。戎主・赤斑は大喜びし、昼は美女が奏でる音楽を聞き、夜は美女と共に過ごすようになりました。しだいに政事から遠ざかっていきます。
繇余は秦に一年滞在してからやっと帰ることができました。戎主が怪しんだため、繇余が言いました「臣は日夜帰国を求めましたが、秦君が臣を留めたのです。」
しかし戎主は繇余に二心があると疑い、疎遠にするようになりました。
繇余は戎主が女楽に溺れて政事を行わないのを見て、諫言を繰り返します。しかし戎主は聞き入れません。
頃合いを見計らって穆公が秘かに使者を送り、繇余を招きました。
繇余は戎を棄てて秦に帰順し、亜卿に抜擢され、二相と共に政事を任されました。
繇余が戎討伐の策を献じ、三帥の兵が戎境に達しました。繇余のおかげで秦軍は道を熟知しています。
戎主・赤斑は秦に敵わないと判断して帰順しました。
 
西戎主・赤斑は諸戎の領袖です。今まで諸戎の服役を受けて来ました。その赤斑が秦に帰順したため、諸戎は秦を懼れ、次々に土地を秦に納めて臣を称しました。
穆公は論功行賞を行い、大宴を開いて群臣を慰労します。
群臣が順番に穆公の寿を祝って酒を進めたため、穆公はいつの間にか泥酔してしまいました。
宮殿に帰った穆公は一度眠りに就くとそのまま目が覚めなくなります。宮人が驚き慌てている間に、情報は宮外にも漏れて行きました。群臣が宮門を叩いて穆公の安否を問います。
世子・罌が太医を入宮させました。目を閉じて全く動きませんが、脈息には異常がありません。
太医が言いました「鬼神によるものです。」
そこで内史・廖に祈祷させようとしましたが、内史・廖はこう言いました「これは『屍厥』というものです。異夢を見ているに違いありません。暫く待てば自然に回復するので、恐れる必要はありません。祈祷しても無駄です。」
世子・罌は床蓆の傍で穆公を見守り、寝食の時も離れませんでした。
 
五日目、穆公がやっと目を覚まします。額から雨のように汗を流して「不思議な事だ(怪哉)」と繰り返して叫びました。
世子・罌が跪いて問いました「主公の身体は如何ですか?なぜこれほど長く寝ていたのですか?」
穆公が「少し休んだだけではないか」と言うと、世子・罌が「主公が眠りについて五日を越えました。異夢を見たのですか?」と言いました。
穆公が驚いて「汝はなぜそれを知っている?」と問いました。
世子・罌は「内史・廖がそう言ったのです」と答えます。
そこで穆公は内史・廖を榻の前に招いて夢の内容を話しました「寡人は夢で一人の婦人に遭った。衣服や化粧の様子は妃嬪のようだ。容貌は端正で、肌は冰雪のように白い。手に天符を持ち、上帝の命を奉じて寡人を招きに来たと言うから、寡人はそれについて行った。すると突然、雲中にいるような感覚になり、あてもなくさまよった。やがて一つの宮闕に至った。丹青(赤と青)が鮮明で、玉階が九尺もあり、上には珠簾が掛けられている。婦人は寡人を連れて階下で拝させた。暫くすると簾が巻き上げられ、殿上が見えた。柱は黄金で作られ、壁衣(壁の前の装飾用の布)錦繍でできており、精光が目を奪った。そこには王者がいた。冕旒(帝王の冠)・華袞(華やかな礼服)を身に着け、玉几(玉の肘掛け)にもたれて座っている。左右には侍者が立ち、威儀がとても盛んだ。王者が『礼を施せ(賜礼)』と命じると、内侍のような者が碧玉の斝(酒器)で寡人に酒を下賜した。その酒はまたとないほど甘香な味だった。王者が一簡を左右に渡すと、堂上で寡人の名が大声で呼ばれ、こう言われた『任好(穆公の名)、旨(命令)を聴け。汝は晋の乱を平定する。』この内容が繰り返されてから、婦人が寡人に拝謝させ、再び宮闕の外に連れて行った。寡人が婦人に名を聞くと、婦人はこう答えた『妾(私)は宝夫人です。太白山の西麓に住んでいます。貴君の宇下(国内)にいますが、聞いたことがありませんか?妾の夫は葉君といい、南陽に住んでいます。一二年ごとに妾に会いに来ます。貴君が妾のために祠を造ったら、貴君を霸者にしてその名を万載(万年)に伝えさせましょう。』寡人が『晋にどのような乱が起きて寡人に平定させるのですか?』と聞くと、宝夫人は『それは天機(天の秘密)なので漏らすことができません』と答えた。その時、鶏が鳴いたのだが、その声が雷霆のように大きかったので、寡人は驚いて目を覚ました。この夢は何の祥だろうか。」
内史・廖が言いました「晋侯は驪姫を寵愛して太子を遠ざけています。乱が起きないはずがありません。天命が主公に及んだのですから、これは主公の福となります。」
穆公が問いました「宝夫人とは何者だ?」
内史・廖が言いました「臣はこのような話を聞いたことがあります。先君・文公の時代、陳倉の人が土中から一つの異物を得ました。形は満囊(中身がいっぱいの袋)のようで、色は黄と白からなり、尾が短く足が多く、嘴は鋭く尖っています。陳倉の人はこれを先君に献上しようとしました。
途中で二人の童子に遭いました。童子は手を叩いて笑いながらこう言いました『汝は死人を虐げてきたが、今、生人の手に捕まったか。』陳倉の人がどういう意味か聞くと、二人の童子はこう言いました『その物は猬といい、地下に潜んで死人の脳を食べることで精気を得て変化ができた。汝は慎重に持ち去れ。』すると猬が喙を開き、人の言葉でこう言いました『彼等二人の童子は、一人は雌で一人は雄だ。名を陳宝という野雉の精だ。雄を得た者は王となり、雌を得た者は覇者になるという。』陳倉の人は猬を棄てて童子を追いました。すると二人の童子は突然、雉になって飛び去ります。陳倉の人はこの出来事を先君に報告しました。先君は簡に書き記させてから内府に保管しました。今は臣がそれを管理しており、開いて見ることもできます。陳倉は太白山の西にあります。主公が試しに両山の間で狩りをしてその形跡を求めれば明らかになるでしょう。」
穆公は文公が保管した簡を持って来させました。そこには内史・廖が語った内容が書かれています。そこで内史・廖に夢の内容を記録させ、併せて内府で保管させました。
 
翌日、穆公が朝廷に出ました。群臣が祝賀します。
穆公は車を用意させて太白山に狩りに行きました。大きく西をまわって陳倉山に迫ります。
この時、猟人が網で一羽の雉鶏(雉)を捕まえました。玉色で傷ひとつなく、光彩が人を照らします。暫くして雉は石鶏に変わりましたが、色光は変わりませんでした。猟者はそれを穆公に献上します。
内史・廖が祝賀して言いました「これが宝夫人です。雌を得たら霸者になれるといいます。これは主公が霸を称える証でしょう。陳倉に祠を建てれば必ず福を得ることができます。」
喜んだ穆公は蘭湯で洗って錦衾(錦の布団)で包み、玉匱(玉の箱)に納めさせました。
即日、工匠を集めて木を伐り、山上に祠を建て、宝夫人祠と名付けます。陳倉山は宝鶏山に改名されました。
この後、有司(官員)が春秋の二祭を行うようになりました。祭りの朝になると、山上から鶏の鳴き声が聞こえ、その声は三里も響きます。また、一年か二年に一回、十余丈の赤光が現れ、雷声が轟きました。これは葉君が会いに来た時の徴です。葉君は雄雉の神で南陽に住んでいます。
四百余年後、漢の光武帝南陽で産まれ、兵を興して王莽を倒し、漢祚(漢の政権)を継いで後漢皇帝になりました。これが雄を得て王になった者の験(証)です。
 
さて、秦穆公はどのように晋に乱を平定するのか、続きは次回です。