第二十七回 驪姫が申生を殺し、献公が荀息に嘱す(後編)

*今回は『東周列国志』第二十七回の中編です。
 
翌朝、近臣が報告しました「蒲と屈の二公子が朝覲に来ましたが、関に至って太子の変を聞き、すぐに車を還しました。」
献公が言いました「報告もせずに去ったのは、共謀していたからだ。」
献公は重耳を捕えるため、寺人・勃鞮に兵を率いて蒲に向かわせ、夷吾を捕えるため、賈華に兵を率いて屈に向かわせました。
この動きを知った狐突が次子の狐偃を呼んで言いました「重耳は駢脅(肋骨が繋がって骨が一枚になっていること)・重瞳(瞳が二つあること)という偉異の容貌をもち、しかも賢明な公子だ。後日、必ず事を成すことができる。そもそも太子が既に死んだから、次に立つのは重耳だ。汝は速やかに蒲に向かい、出奔を援けよ。汝の兄・毛と共に、心を一つにして輔佐して後の挙を図れ。」
狐偃は命を受けて蒲城に昼夜兼行しました。討伐の兵が向かっていると知った重耳は、驚いて狐毛・狐偃兄弟と出奔の相談をします。
その間に勃鞮の車馬が到着しました。蒲人が門を閉じて抵抗しようとしましたが、重耳は「君命に抵抗してはならない」と命じました。
勃鞮が蒲城に入って重耳の屋敷を包囲します。
重耳は毛偃と共に後園に走りました。勃鞮が剣を持って追います。毛偃が先に牆(壁)を乗り越え、牆の外から重耳を呼びました。この時、勃鞮が重耳の袖をつかんで剣を振りおろしましたが、袖が切れて重耳は難を逃れました。重耳も牆を越えて去ったため、勃鞮は袖をしまって帰りました。
三人は翟国に出奔しました。
 
翟君はこれ以前に蒼龍が城の上でとぐろを巻く夢を見ました。晋の公子が来たと聞き、喜んで迎え入れます。
暫くして、城下に相次いで数乗の小車が集まり、急いで城門を開くように要求しました。重耳は追手が来たと思って城壁の上から矢を射させます。すると城下の者は大声でこう言いました「我々は追兵ではありません。晋の臣が公子に従いたいと思って来たのです。」
重耳が城壁に登って見ると、知っている者がいました。姓は趙、名は衰、字は子餘といい、大夫・趙威の弟で、晋朝の大夫です。
重耳は「子餘が来たからには心配は要らない」と言い、門を開いて城内に招くように命じました。
趙衰以外にも、胥臣、魏犨、狐射姑、顛頡、介子推、先軫といった知名の士がいます。他にも執鞭負橐(馬車を御し荷物を持つこと。雑用)して尽力を望む壺叔等数十人がいました。
重耳が驚いて問いました「公等(汝等)は朝廷の臣なのに、なぜここに来たのだ?」
趙衰等が声をそろえて言いました「主上は徳を失い、妖姫を寵愛し、世子を殺しました。晋国は旦晩(近々)必ず大乱があります。我々はかねてから公子が下士に対して寬仁だと知っていたので、出亡(亡命)に従いたいと思って来たのです。」
翟君が城門を開いて集まった者を全て城内に入れました。
重耳が泣いて言いました「諸君子が力を合わせて助けてくれるのは、肉が骨を補佐するようなものだ。死んでもその徳を忘れない。」
魏犨が袖をまくり上げて言いました「公子は蒲に数年住んでいたので、蒲人は皆、公子のために喜んで死ねます。狄の助けを借りて、蒲人の衆を率いて絳城(晋都)に殺到すれば、朝廷内にも憤懣が深く溜まっているので、必ず内応する者が現れます。君側(国君の傍)の悪を除き、社稷を安定させ、民人を慰撫するべきです。道から離れて逋客(逃亡者)になるよりも遥かにましです。」
しかし重耳はこう言いました「子の言は壮大だが、君父を震撼させるようなことを亡人(亡命者)がやるべきではない。」
魏犨は一勇の夫だったため、重耳が同意しないのを見て歯ぎしりし、足で地を強く踏んで言いました「公子は驪姫の輩を猛虎蛇蠍のように恐れていますが、いつ大事を成せるというのですか!」
すると狐偃が魏犨に言いました「公子は驪姫を畏れるのではない。名義を畏れるのだ。」
魏犨は何も言わなくなりました。
 
重耳は幼い頃から下士に対して謙恭でした。十七歳の頃から狐偃に父事(父のように仕えること)し、趙衰に師事し、狐射姑に長事(年長者に仕えること)してきたため、朝野(朝廷内外)で名が知られた士は皆、交流を求めました。そのため今回、出奔して患難に遭っても多くの豪傑が従うことを願いました。
しかし大夫・郤芮は呂飴甥(夷吾に仕えています)と腹心の契り(互いに心を打ち明けられる関係)を結んでおり、虢射は夷吾の母舅(母の兄弟)だったため、三人とも屈の夷吾を助けることにしました。三人が夷吾に会ってすぐに言いました「賈華の兵が旦暮(すぐ)に至ります。」
夷吾は兵を集めて城を守るように命じました。
一方、賈華には元々夷吾を捕えるつもりがありません。城下に兵が到着してもわざとゆっくり包囲し、秘かに人を送って夷吾にこう伝えました「公子は速くお逃げください。晋兵の後続が来たら抵抗できなくなります。」
夷吾が郤芮に言いました「重耳は翟にいる。翟に奔るのは如何だ?」
郤芮が言いました「国君は二公子が共謀していると言って討伐を始めました。別々に出奔して同じ場所に行ったら、驪姫に辞を与えることになります(驪姫が訴えたように二公子が共謀していたと判断されます)。晋兵も翟を討伐するはずなので、我々は梁に行くべきです。梁は秦に近く、秦は強盛になっています。また、婚姻の関係があるので、国君百歳(死去)の後、帰国のために力を借りることもできます。」
夷吾は梁国に奔りました。
賈華は追撃する様子を見せましたが、追いつけなかったことにして還りました。
 
献公が激怒して言いました「二子のうち一人も捕えることができないのか。何のために兵を用いたのだ!」
献公が左右の近臣に賈華を縛らせ、処刑するように命じました。しかし丕鄭父が諫めて言いました「主公が以前、人を送って二城を築き、兵を集めて備えとしたのが原因です。賈華の罪ではありません。」
梁五も言いました「夷吾は庸才(凡才)なので心配いりません。しかし重耳は賢名が知られており、多くの士が従ったため、朝堂が空になってしまいました。しかも翟は晋国代々の仇です。翟を討伐して重耳を除かなければ、後に必ず憂患となります。」
献公は賈華を赦して勃鞮を招きました。勃鞮は賈華が処刑されそうになったと知り、自ら翟討伐を買って出ました。手柄を立てて重耳を逃した罪を償うためです。献公は同意しました。
 
勃鞮の兵が翟城に至りました。翟君も采桑に兵を出して対峙します。
二か月余が経ってから、丕鄭父が進言しました「父子には恩を絶つ道理がありません。二公子の罪悪もまだ明らかではありません。既に出奔したのに、必ず追撃して殺そうとしたら、際限がなくなります。そもそも、翟に勝てるとは限りません。我が師を徒に疲労させるだけだったら、隣国の笑い者になります。」
献公の怒りも収まり始めていたため、勃鞮に帰還を命じました。
 
献公は群公子の多くが重耳や夷吾の党だったため、後日、奚斉の邪魔になることを心配し、群公子を全て追放しました。晋の公族が国内からいなくなります。
こうして奚斉が世子になりました。「二五」と荀息以外の百官は皆憤懣し、多くが病と称して告老(引退)しました。
周襄王元年、晋献公二十六年のことです。
 
この年の秋九月、献公が葵邱の会に赴いて間に合わず、帰路で病にかかりました。
宮内に還ると、驪姫が横になった献公の足元に座り、泣いて言いました「国君は骨肉の釁(対立)に遭って公族を全て駆逐し、妾の子を立てましたが、もしも不諱(不幸。死亡)があったら、私は婦人で奚斉は幼いので、群公子が外援に頼って国に入ろうとするでしょう。妾の母子は誰に頼ればいいのでしょうか。」
献公が言いました「夫人が憂いる必要はない。太傅・荀息は忠臣なので、二心を抱くことはない。孤(国君の自称)が幼君を彼に託そう。」
荀息が榻の前に招かれました。
献公が問いました「『士の立身は忠信を本とする(士之立身,忠信為本)』というが、忠信とは何だ?」
荀息が答えました「心を尽くして主に仕えることを忠、死んでも約束を破らないことを信といいます。」
そこで献公が言いました「寡人は弱孤(幼弱で孤立した奚斉)を大夫に託そうと思う。大夫は同意してくれるか?」
荀息は稽首して「死力を尽くします」と答えました。
献公は思わず涙を流し、驪姫の泣き声も幕の外まで漏れました。
 
数日後、献公が死にました。驪姫が奚斉を抱きかかえて荀息に授けます。この時まだ十一歳でした。
荀息は遺命を守り、奚斉を奉じて喪を主宰しました。百官がそれぞれの位置に就いて哭泣します。
驪姫も遺命によって荀息を上卿に任命し、梁五と東関五に左右司馬を加えました。二人は兵を整えて国中を巡行し、非常事態に備えました。
国中の全ての政務が荀息に報告してから実行することになりました。翌年を新君元年に改元することにし、訃告を諸侯に届けます。
 
奚斉はいつまで国君でいられるか、続きは次回です。