第三十回 秦晋が大戦し、穆姫が大赦を要求する(中編)

*今回は『東周列国志』第三十回中編です。
 
晋の西境が恵公に急を告げました。
恵公が群臣に問いました「秦が理由もなく兵を興して国境を侵した。どう防ぐべきだ?」
慶鄭が言いました「秦兵は主上が徳に背いたので討伐して来たのです。なぜ理由がないというのですか?罪を認めて和を請い、五城を譲って信を全うすれば、干戈を動かさずにすむでしょう。」
恵公が激怒して言いました「堂堂とした千乗の国が地を割いて和を求めよと言うのか!寡人に何の面目があって国君を称することができるのだ!」
恵公が左右に怒鳴って言いました「まず慶鄭を斬れ!その後、兵を発して敵を迎え撃つ!」
虢射が言いました「まだ兵を出していないのに先に将を斬るのは、軍において不利です。とりあえず赦して従軍させ、功によって罪を償わせるべきです。」
恵公は同意しました。
当日、車馬を確認して六百乗を選び、郤歩揚、家僕徒、慶鄭、蛾晰に左右の軍を率いさせました。恵公は虢射と共に中軍を指揮し、屠岸夷が先鋒になります。
こうして晋軍が絳州を去って西に向かいました。
 
晋侯の馬は「小駟」といい、鄭国から献上された馬でした。小さな体は均整がとれており、毛鬣(たてがみ)が潤っています。足並みが安定しているため、恵公は以前からこの馬を気に入っていました。
しかし慶鄭が諫めて言いました「古の出征という大事においては、必ず本国で生まれた馬を使いました。本土で生まれた馬は人の心意を理解でき、訓練にもおとなしく従い、道路もよく知っているので、戦になっても人の意思に背かず、自由に使いこなすことができるのです。今、主公は大敵に望みながら異産の馬を使っています。恐らく不利になるでしょう。」
恵公が叱責して言いました「わしはこの馬に慣れている。余計なことを言うな!」
 
秦軍が黄河を東に渡り、三戦三勝しました。晋の守将は皆、逃げ隠れします。
秦軍は長駆進撃して韓原で営寨を築きました。
晋恵公は秦軍が韓(韓原)に至ったと知り、眉間に皺を寄せて言いました「寇(敵)は既に深く進入している。如何するべきだ?」
慶鄭が言いました「主公が自ら招いたのです。何を問うのですか?」
恵公は「鄭は無礼だ。退がれ!」と言いました。
 
晋軍は韓原から十里離れた場所に営寨を築きました。韓簡を派遣して秦兵を偵察させます。
韓簡が帰って報告しました「秦師は我が軍より少ないものの、闘志は我が軍の十倍もあります。」
恵公がその理由を問うと、韓簡が言いました「主公は以前、秦が近いので梁に奔り、その後、秦の援けによって国を得ることができました。また、秦の賑(救済)によって飢餓から免れました。秦から三回も施しを受けたのに、一度も報いていません。秦の君臣に憤懣が積もったので、今回の討伐を招いたのです。三軍全てに裏切りを責める心があるので、その鋭気は甚だしく、十倍ではすみません。」
恵公が怒って言いました「それは慶鄭の語だ。定伯もそのようなことを言うのか。寡人は秦と決死の一戦をするまでだ!」
恵公は韓簡に命じて秦軍にこう伝えさせました「寡人には甲車六百乗がある。貴君の相手をするには充分だ。貴君が師を退くのなら、それは寡人の願いでもある。しかしもし師を退かないのなら、寡人が貴君を避けたいと思っても、三軍の士が承知しない。」
穆公は笑って「孺子が何を驕っているのだ」と言うと、公孫枝に応えさせました。
公孫枝が晋軍に言いました「貴君が国を欲したから、寡人が帰国させた。貴君が粟を欲したから、寡人が供給した。今、貴君が戦いを欲するのなら、寡人が命に逆らうことはない。」
韓簡は戻ってこう言いました「秦の理に直(正しいこと)がある。私には死に場所が分からない(ここで敗れて死ぬかもしれない)。」
 
晋恵公は郭偃に車右を誰にするべきか卜わせましたが、誰も「吉」とは出ず、慶鄭がやっと「吉」になりました。
しかし恵公は「鄭は秦の肩を持っているから任せられない」と言って家僕徒を車右に任命しました。郤歩揚が車を御します。
晋軍が韓原で秦軍の進攻を妨げました。
 
百里奚が営塁に登って晋の大軍を眺めました。
百里奚が穆公に言いました「晋侯は命がけです。主公が戦うべきではありません。」
しかし穆公は天を指さしてこう言いました「晋が我が国を裏切ること甚だしい。もし天道がないのなら仕方がないが、天に知覚があるのなら、我々が必ず勝つ。」
秦軍は龍門の山下に陣を構えました。
暫くして、晋軍の布陣も終わって両軍が対峙します。
それぞれの中軍が戦鼓を敲いて兵を進めました。
屠岸夷が勇に頼って率先し、重量が百斤を超す渾鉄槍を握って秦軍に突撃しました。前に立ちはだかる者はことごとく突き殺され、秦軍が蹴散らされます。
そこに白乙丙が現れました。両者は五十余合戦っても決着がつかず、ますます血気盛んになってそれぞれ車から飛び降りました。互いにもつれ合って戦い続けます。屠岸夷が言いました「わしと汝で生死を決しよう。他人の助けを必要とするようなら、好漢ではない!」
白乙丙も言いました「わしも一人の手で汝を捕まえてこそ、本当の英雄だと思っていた!」
二人とも周りの者に「手助けをしてはならない!」と命じます。二人は蹴り合い殴り合いながら、知らず知らずに陣の後ろまで移動していましたが、勝負がつきませんでした。
 
晋恵公は屠岸夷が秦軍の陣を崩したのを見て、すぐに韓簡と梁繇靡を呼び、兵を率いて左を衝かせました。恵公自らは家僕徒等を率いて右を衝き、中軍で合流する約束をします。
それを見た穆公も自軍を二路に分けて迎撃させました。
 
恵公の車がちょうど公孫枝に遭遇しました。恵公は家僕徒に命じて公孫枝に挑ませます。しかし公孫枝は万夫にも勝る勇者なので、家僕徒が敵うはずがありません。恵公は郤歩揚に「慎重に轡をとれ。寡人が自ら助けに行く」と命じました。
すると公孫枝が戟を横たえて大喝しました「戦う気がある者は、一斉にかかって来い!」
この一喝が霹靂のように天を震わせます。驚き恐れた国舅・虢射は車中に伏せて力が抜けてしまいました。
恵公の車を牽く小駟も戦の経験がなかったため、驚いて御者の指示に従わなくなりました。突然前に駆け出し、泥濘の中で動きがとれなくなってしまいます。
郤歩揚が力一杯鞭を揮っても、馬が小さく力も少ないため、足を上げることができません。
恵公が危急に陥った時、ちょうど慶鄭の車が前から来ました。恵公が叫びました「鄭よ、速くわしを助けよ!」
しかし慶鄭はこう言いました「虢射はどこにいるのですか?なぜ鄭を呼ぶのですか?」
恵公がまた叫びました「鄭よ、速く車を寄せて寡人を乗せよ!」
慶鄭が言いました「主公は静かに小駟に乗っていてください。臣は他の者に助けを求めに行ってきます。」
慶鄭は馬車の向きを換えて左に去りました。
郤歩揚が他の車を探しに行こうとしましたが、秦兵に包囲されたため動けなくなりました。
 
その頃、韓簡の一軍が秦軍に突入し、秦穆公の中軍に遭遇しました。秦将・西乞術と交戦して三十余合になりましたが、勝負がつきません。そこに晋の蛾晰が兵を率いて到着しました。両者に挟み撃ちされた西乞術は対抗できず、ついに韓簡の戟に刺されて車から落ちます。
梁繇靡が大声で言いました「敗将に用はない!力を合わせて秦君を捕えよう!」
韓簡は車下の西乞術を顧みず、晋兵を率いて戎輅(兵車)を駆けさせ、穆公に迫りました。
穆公が嘆息して言いました「今日、わしが晋の俘(捕虜)となってしまうのか。天道はどこにあるのだ。」
言い終わった時、西方の山上から三百余人の勇士が叫びました「我が恩主を傷つけるな!」
穆公が頭を上げてみると、三百余人は皆、髪を乱し、肩を剥き出し、足には草履を履き、手には大砍刀を持ち、腰には弓矢を掛け、飛ぶように向かってきます。まさに混世魔王の手下の鬼兵のようです。
三百余人が到った所で次々に晋兵が斬り殺されていきました。
韓簡と梁繇靡が慌てて迎撃の態勢をとります。
すると今度は北から一乗の車が駆けて来ました。慶鄭です。慶鄭が叫んで言いました「そこでの戦いにこだわるな(勿得恋戦)!主公が龍門山の泥濘の中で秦兵に包囲された!速やかに駕を救え!」
韓簡等は戦意を失い、突然襲ってきた一団の壮士も棄てて、晋侯を助けるために龍門山に駆けつけました。
しかし晋恵公は既に公孫枝に捕えられ、家僕徒、虢射、郤歩揚等も皆縛られて、秦の大寨に連れて行かれた後でした。
韓簡が足踏みして言いました「秦君を捕えていれば交換もできた。慶鄭がわしを誤らせた!」
梁繇靡が言いました「主公がここにいるのだ。我々が帰る場所はない。」
梁繇靡は韓簡と共に武器を棄てて秦の営寨に投じ、恵公と一緒になりました。
 
三百余人の壮士は秦穆公を助けた後、了西乞術も救いました。
秦兵は勝ちに乗じて晋軍を壊滅させます。龍門山下には死体が山のように積まれ、六百乗のうち逃げることができたのは十分の二三に過ぎませんでした。
慶鄭は晋君が捕えられたと聞き、秦軍の攻撃から逃れて退却します。途中、負傷して倒れていた蛾晰に会ったため、抱きかかえて車に乗せ、一緒に帰国しました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十回後編に続きます。