第三十回 秦晋が大戦し、穆姫が大赦を要求する(後編)

*今回は『東周列国志』第三十回後編です。
 
秦穆公が大寨に帰ってから百里奚に言いました「井伯の言を聞かなかったばかりに、晋に笑われるところだった。」
三百人の壮士が一斉に陣営の前に集まり、叩首しました。
穆公が問いました「汝等は誰だ?なぜ寡人のために死力を尽くした?」
壮士が言いました「国君は以前、善馬(良馬)を失ったことをお忘れですか?我々は皆、馬肉を食べた者です。」
以前、穆公が梁山で狩りをした時、夜の間に数頭の良馬を失ってしまいました。官吏に探させたところ、岐山の下で三百余人の野人(郊外の民)が集まって馬肉を食べているのを見つけます。官吏は野人に気付かれないように帰り、急いで穆公に報告して言いました「速く兵を出せば全て捕まえることができます。」
しかし穆公は嘆息してこう言いました「馬は既に死んでしまった。更に馬のために人を殺したら、百姓は寡人が畜生を尊んで人を軽視していると言うだろう。」
そこで、軍中(狩猟中の軍です)で美酒数十甕を集めると、人を送って岐下に運ばせ、国君の言葉を伝えました「寡君は『良馬の肉を食べる時、酒を飲まなければ人を傷つける(体に悪い)』と言い、美酒を汝等に下賜した。」
野人は叩頭して恩を謝し、酒を分けて飲み始め、感嘆してこう言いました「馬を盗んでも罪にならず、逆に我々の身体を心配して美酒を下賜された。国君の大恩にどうやって報いよう。」
今回、秦が晋を討伐すると聞いた三百余人は、秦軍を助けるために命を棄てて韓原に駆けつけました。その時ちょうど穆公が包囲されていたため、勇を奮って救い出したのです。
穆公は天を仰いで嘆息し、こう言いました「野人でも徳に報いようという義があるのに、晋侯だけはなぜそれがないのだ。」
穆公が壮士達に言いました「仕官を望む者がいれば、寡人が爵禄を与えよう。」
しかし壮士達は声をそろえてこう答えました「我々は野人にすぎません。恩主の一時の恵に報いたかっただけです。仕官を望むことはありません。」
穆公が金帛を分け与えようとしましたが、野人は受け取らずに去りました。
穆公は嘆息が止まりませんでした。
 
穆公が将校を確認すると、白乙丙だけがいませんでした。軍士に方々を探させます。すると土窟の中から苦痛にうめく声が聞こえてきました。中に入って見てみると、白乙丙と屠岸夷がいます。白乙丙は屠岸夷と戦って窟中に転げ入り、双方力尽きて気絶していましたが、まだお互いに手を放していませんでした。
軍士が二人を離れさせ、二輌の車に乗せて本寨に帰りました。
穆公が白乙丙に問いかけましたが、白乙丙は話しができませんでした。二人が命がけで戦うところを見ていた者が穆公に詳しく話すと、穆公は感嘆して「二人とも好漢だ!」と言いました。
穆公が問いました「晋将の姓名を知っている者はいるか?」
すると公子・縶が車中を見て言いました「これは勇士・屠岸夷です。臣が以前、晋の二公子を弔問した時、屠岸夷も本国の大臣の命を受けて二公子を迎えに来ました。旅の途中で会ったので、互いに面識があります。」
穆公が言いました「この者を留めて秦で用いることができるか?」
公子・縶が言いました「卓子を弑したのも、里克を殺したのも、この者の手によります。天に順じて誅を行うべきです。」
穆公は屠岸夷を斬首するように命じました。
また、自ら錦袍を解いて白乙丙を包み、百里奚に命じて先に温車(人が寝ることができる車)に乗せて帰らせました。
帰国後に医者が白乙丙を診察しました。白乙丙は薬を飲んで数斗の血を吐き、半年後にやっと回復します。
 
晋に大勝した穆公は営寨を引き払い、人を送って晋侯に伝えました「貴君が寡人を避けようとしなかったから、寡人も貴君を避けられなかった。敝邑に来て罪を請うことを願う。」
恵公は下を向いたまま何も言いません。
穆公は公孫枝に車百乗を率いさせ、晋君の護送を命じました。虢射、韓簡、梁繇靡、家徒僕、郤歩揚、郭偃、郤乞等も髪を乱して顔を汚し、野宿しながら歩いて従います。その様子は喪に赴く時のようでした。
穆公は人を送って晋の諸大夫を慰め、こう伝えました「汝等君臣は晋の粟(食糧)が必要なら兵を用いて取りに来いと言った。寡人が汝等の君を留めているのは、晋の粟を得るためだ。過分な処罰をするつもりはない。二三子(諸大夫)は国君がいなくなることを心配しているようだが、心を痛める必要はない。」
韓簡等が再拝稽首して言いました「貴君が寡君の愚を憐れみ、寬政(寛大な政治)によって過度な処罰を行わないという言葉は、皇天后土が既に耳にしました。臣等は恩恵に拝謝しなければなりません。」
 
秦軍が雍州の境界まで帰ると、穆公が群臣を集めて言いました「寡人は上帝の命を受けて晋の乱を平定し、夷吾を即位させた。しかし今、晋君は寡人の徳に背いた。これは上帝の罪を得たのと同じだ。寡人は晋君を使って(犠牲にして)上帝を郊祀(郊外の祭祀)し、天の貺(福)に応えようと思うが如何だ?」
公子・縶が言いました「主公の言はもっともです。」
しかし公孫枝が反対して言いました「いけません。晋は大国です。我々はその民を捕虜にして既に怨みを買っています。更にその君を殺したら、怨みはますます大きなものになります。晋の秦に対する報いは、秦の晋に対する報いより大きくなるでしょう。」
公子・縶が言いました「臣の意見はむやみに晋君を殺すというのではありません。公子・重耳を代わりに立てるのです。無道を殺して有道を立てれば、晋人は我々をこの上ないほど徳とするでしょう(感謝するでしょう)。なぜ怨まれるのですか。」
公孫枝が言いました「公子・重耳は仁人です。父子兄弟にはわずかな差しかありません。重耳は父の喪を利とすることを拒否しました。弟の死を利とすることに同意するでしょうか?重耳が国に入らず別の者を立てたら、夷吾とどちらがましか分かりません。また、もし重耳が国に入ったら、弟のために秦を仇とみなすでしょう。主公は夷吾に対する以前の徳を廃し、重耳による新しい仇を立てることになります。臣が見るに、それは相応しくありません。」
穆公が問いました「それでは放逐するのは如何だ?または幽閉するべきか?帰国させるべきか?」
公孫枝が言いました「幽閉したところで一匹夫に過ぎないので秦に利益はありません。放逐しても国に戻そうとする者が現れます。復位させるべきです。」
穆公が問いました「それでは今回の功を失うのではないか?」
公孫枝が言いました「臣の意見もただ復位させるというのではありません。河西五城の地を必ず割譲させ、その世子(太子)・圉を質(人質)として我が国に留めさせるのです。その後、講和に同意すれば、晋君は終生、秦に対して悪を行うことができず、後日、父が死んで子が継ぐ時も、我が国がまた圉に徳(恩)を与えることができます。晋が代々秦を奉戴するようになるのなら、これ以上の利はないでしょう。」
穆公が言いました「子桑の算(計)は数世にまで及ぼすことができる。」
穆公は恵公を霊台山の離宮に置いて千人に監守させることにしました。
 
晋侯を送り出した穆公が秦都に還ろうとしました。すると突然、一団の内侍が現れました。皆、衰絰(喪服)を着て近づいてきます。
穆公は夫人に異変があったのではないかと思い、内侍に問おうとしました。すると内侍が先に夫人の言を口頭で伝えました「上天が災を降し、秦・晋の両君が好を棄てて戎に即きました(戦争をしました)。晋君が捕えられたのは、婢子(私)にとっての恥辱です。もし晋君(帰国できず)朝の内に秦に入るのなら、婢子は朝の内に死にます。夕(夜)に入るのなら、婢子は夕の内に死にます。今ここに、内侍に喪服を着せて国君の師を迎え入れさせました。晋侯が赦されるのは婢子が赦されるのと同じです。国君の裁きに従います。」
穆公が驚いて問いました「夫人は宮内でどのような様子だ?」
内侍が答えました「夫人は晋君が捕えられたと聞いてから、太子を連れて喪服を身に着け、歩いて宮を出て後園の崇台に登りました。そこに草舍を建てて住んでいます。台下には薪が数十層も積まれ、饔飱(食事)を届ける者は薪を踏んで登り降りしています。夫人はこう言っています『晋君が城に入ったら台上で自殺します。兄弟姉弟、または兄妹)の情を示すために、火を放って私の屍を焼きなさい。』」
穆公が嘆息して言いました「子桑が晋君を殺さないように勧めた。もしそれがなかったら、夫人の命を失っているところだった。」
穆公は内侍に衰絰を脱がせ、穆姫にこう伝えさせました「寡人は間もなく晋侯を帰国させる。」
穆姫はやっと後宮に帰ります。
内侍が跪いて穆姫に問いました「晋侯は利を見て義を忘れ、我が君との約束に背き、しかも君夫人が託したことも破りました。今日、自ら囚辱を得ましたが、夫人はなぜこれほど哀痛するのですか?」
穆姫が言いました「『仁者は怨んでも親族を忘れず、怒っても礼を棄てない(仁者雖怨不忘親,雖怒不棄礼)』といいます。もし晋侯が秦国で死んだら、私の罪にもなります。」
内侍達は君夫人の賢徳を褒め称えました。
 
晋侯はどうやって国に帰るのか、続きは次回です。