第三十四回 宋襄公が衆を失い、斉姜氏が夫を遣わす(中編)

*今回は『東周列国志』第三十四回中編です。
 
宋軍の動きを間諜が鄭文公に報告しました。驚いた文公は急いで楚に使者を送って急を告げます。楚成王が言いました「鄭は父に仕えるようにわしに仕えている。すぐに援けに行かなければならない。」
成得臣が進言しました「鄭を救うよりも、宋を攻めるべきです。」
楚成王がその理由を問うと、成得臣が言いました「宋公が捕えられてから宋の国人は胆を潰しています。今また自分の力を顧みず、大軍で鄭を攻撃したので、その国は虚(空)になっているはずです。虚に乗じて敲けばその国は必ず動揺します。これが戦わずに勝負(勝敗)を知るというものです。もし宋軍が引き返して自国を守ろうとしても、彼等は既に疲労しています。逸(安逸。余裕がある状態)によって労疲労した敵)を制すれば、出征して志を得られないはずがありません。」
納得した楚王は成得臣を大将に、鬥勃を副将に任命して宋討伐の兵を興しました。
宋襄公は鄭軍と対峙していましたが、楚軍の動きを知り、昼夜兼行して帰国しました。泓水の南(恐らく「北」の誤り)に陣を構えて楚の進軍を塞ぎます。
 
成得臣が使者を送って宋陣に戦書を届けました。
公孫固が襄公に言いました「楚師が来たのは鄭を援けるためです。我々が鄭から兵を退いたことで楚に謝すれば、楚は必ず還ります。戦いの必要はありません。」
しかし襄公はこう言いました「昔、斉桓公は兵を興して楚を討伐した。今、楚が攻めて来たのに戦わなかったら、どうして桓公の業を継ぐことができるのだ?」
公孫固が言いました「『一つの姓は再び興隆しない(一姓不再興)』といいます。天が商を棄てて久しいので、主公が興隆を欲しても困難でしょう。そもそも、我々の甲(甲冑)は楚よりも堅くなく、兵(兵器)は楚よりも鋭利ではなく、人は楚よりも強くありません。宋人は楚を蛇蠍のように恐れています。主公は何をもって楚に勝とうというのですか?」
襄公が言いました「楚には兵甲に余りがあるが、仁義が不足している。寡人は兵甲が不足しているが、仁義には余りがある。昔、武王は虎賁(勇士)三千で殷の億万の衆に勝ったではないか。大切なのは仁義だ。有道の君でありながら無道の臣(楚の臣。成得臣)を避けるくらいなら、寡人は死んだ方がましだ。」
襄公は楚が送って来た戦書の最後に交戦の日を十一月朔日、場所を泓陽(泓水の北)と追記して返しました。
 
襄公は大旗を輅車に立てさせました。旗には「仁義」の二文字が書かれています。公孫固は心中で苦境を悲しみ、秘かに楽僕伊に言いました「戦とは人を殺すことを主とするのに、仁義を口にしている。私には国君の仁義がどこにあるのか理解できない。天が国君の魄を奪ってしまったため、私は心中で危難を心配している。我々は慎重に行動しよう。国を失うようなことにならなければそれで充分だ。」
会戦の日、公孫固は鶏が鳴く前に起きました。襄公に堅い陣を構えて楚軍を待つように進言します。
 
楚将・成得臣は泓水の北(恐らく「南」の誤り)に布陣しています。鬥勃が言いました「五鼓(五更。午前三時から五時)に師を渡らせましょう。宋人が先に布陣して我が軍を塞ぐのを阻止するべきです。」
すると成得臣が笑って言いました「宋公はもっぱら迂闊な事に力を注いでおり、兵(戦)というものを知らない。我々は早く渡れば早く戦い、晩く渡れば晩く戦うだけのことだ。心配はいらない(宋軍が我が軍の渡河を妨害するはずがない)。」
 
空が明るくなってから楚の甲乗(歩兵と車兵)がやっと泓水を渡り始めました。
公孫固が襄公に言いました「天が明るくなってから楚兵が渡り始めたのは、我々を軽視しているからです。敵が半数渡り終えたところで突撃しましょう。我々の全軍で楚の半数を攻めれば必ず勝てます。もし楚の全軍が渡り終えたら、楚は多勢で我が軍が無勢なので、恐らく敵いません。」
すると襄公は大旗を指さして言いました「汝には『仁義』の二文字が見えないのか?寡人は堂堂と陣を構えている。半分しか渡っていない敵を撃つという道理があるか?」
公孫固はまた心中で苦境を嘆きました。
 
暫くして楚兵が全て川を渡りました。成得臣は瓊弁(玉で装飾された冠)をかぶり、玉纓(玉がついた冠の紐)を結び、繍袍軟甲を身に着け、腰に彫弓を掛け、手に長鞭を持って軍士を指揮しています。
楚軍が東西に向かって陣を構え始めました。兵の士気は高く、旁若無人の勢いがあります。
公孫固が襄公に言いました「楚は布陣を始めたばかりなので、まだ列を成していません。今すぐ戦鼓を敲けば必ず混乱します。」
しかし襄公は唾を吐いてこう言いました「汝は一撃の利を貪るために万世の仁義を棄てようというのか!寡人は堂堂と陣を構えた。敵が列を成さないのに戦鼓を敲く道理などない!」
公孫固はまた心中で苦境を嘆きます。
 
楚軍の陣が整いました。強壮な人馬が山野を満たしています。それを見た宋兵は恐れを抱きました。
宋襄公が軍中で戦鼓を敲かせました。楚軍からも戦鼓が響きます。
襄公が自ら長戈を持ち、公子・蕩と向訾守の二将および門官の衆を率いて楚陣に車を突進させました。
宋軍に勢いがあるため、成得臣は秘かに号令を出し、陣門を開いて襄公の一隊だけを招き入れました。公孫固が襄公を守るために後に続きましたが、襄公は既に楚陣に殺到しています。
楚の陣門を一人の上将が守っており、「自信がある者は挑んで来い!」と大喝していました。楚の将・鬥勃です。
公孫固は憤激して戟を握り、鬥勃に突き出しました。鬥勃は刀で迎え撃ちます。
両者が戦って二十合に至らない頃、宋将・楽僕伊が軍を率いて参戦しました。
鬥勃は二人を相手にして焦りを見せましたが、楚の陣中からももう一人の上将・蔿氏呂臣が出撃し、楽僕伊に斬ってかかりました。
公孫固は陣門に隙ができたことに気づき、楚将の刀を振り払って楚陣に駆け込みます。鬥勃が刀を持って追いましたが、宋将・華秀老が現れて鬥勃の道を塞ぎました。二人が陣前で斬り合います。
 
公孫固は楚陣に入ると左を衝き、右を突きました。久しくして東北の角に甲士が集まっているのを見つけます。楚兵が何層もの包囲網を築いているようです。
公孫固が疾駆すると、血で顔を染めた宋将・向訾守に遭いました。向訾守が叫びました「司馬よ、速く主を救ってください!」
公孫固は向訾守の後について楚の包囲に突入します。包囲網の中では、門官の衆が皆負傷しながら楚軍と死戦を繰り広げていました。襄公はかねてから下人に対して恩を施していたため、門官達は死力を尽くしています。
楚軍は公孫固の英勇を見て少し退きました。公孫固が前に進むと、公子・蕩が重傷を負って車の下に臥せています。「仁義」の大旗は既に楚軍に奪われていました。
襄公も数カ所に傷を負っていました。右股に矢が刺さって膝の筋が切断されているため、立つことができません。
公孫固の姿を見つけた公子・蕩は、目を見開いて「司馬は主公を抱えて守ってくれ!私はここで死ぬ!」と言って息絶えました。
公孫固は悲痛が収まらないまま、襄公を抱きかかえて自分の車に乗せました。身を挺して襄公を守り、勇を奮って包囲を突破します。向訾守が後殿しんがりとなり、門官等が一路援護しました。
戦いながら退却し、やっと楚の陣から脱出した時には、一人の門官も残っていませんでした。
宋の甲車は十分の八九が失われています。
楽僕伊と華秀老も宋公が虎穴を離れたのを見てそれぞれ逃げ帰りました。
成得臣は勝ちに乗じて追撃し、宋軍に大勝しました。
宋の輜重・器械(兵器)が全て棄てられ、公孫固は襄公を載せて連夜逃走します。
 
多数の宋兵が死んだため、父母や妻子が朝廷の外で襄公を非難し、司馬の言を聞かずに敗戦を招いたことを怨みました。
それを聞いた襄公は嘆息してこう言いました「君子とは負傷した者を再び傷つけることなく、二毛(老人)を捕えることもない。寡人は仁義によって師(軍)を指揮した。相手の危難や険阻な地形を利用するようなことはできない。」
国人は襄公を嘲笑しました。
 
大勝した楚軍は再び泓水を渡って凱旋しました。宋の国境を出た時、哨馬(探馬。斥候)が報告しました「楚王自ら大軍を率いて迎えに来ました。柯沢に駐軍しています。」
成得臣は柯沢に入って楚王に謁見し、戦利品を献上して勝利を報告しました。
楚成王が言いました「明日、鄭君が夫人を連れて我が軍を慰労に来る。俘馘(宋の戦死者の首。または耳)を大いに並べて勝利を誇示しよう。」
鄭文公の夫人・羋氏は楚成王の妹で文羋といいます。兄妹の関係があるので、輜軿(屋根と壁がついた車)に乗って鄭文公と共に柯沢に来ました。
楚王が豊富な戦利品を並べて勝利を誇示すると、鄭文公夫婦は祝賀して大量な金帛で三軍を犒賞(慰労)しました。
鄭文公は翌日に宴を開くことを伝えて恭しく楚王を招きます。
 
翌朝、鄭文公が自ら郭(外城)を出て楚王を城内に迎え入れました。太廟の中で享(宴)を設け、九献の礼(宴席の儀礼を行います。これは天子に用いる礼です。
数百の食事が用意され、籩豆(食器)六器が加えられました。宴享(宴会)の贅沢さは今までどの国にもなかったほどです。
文羋には二人の娘がいました。伯羋と叔羋といい、まだ誰にも嫁いでいません。文羋は二人の娘を連れて甥(姉妹の子。姪)の礼に従って舅(母の兄弟。楚王)に会わせました。楚王はとても喜びます。
鄭文公夫妻と娘が順に酒を勧めて楚王の寿を祝いました。宴は午(午前十一時から午後一時)から戌(午後七時から九時)まで続き、楚王は酔って酩酊します。すると楚王が文羋に言いました「寡人は情(恩恵。もてなし)を過度に受け、自分の量を越えてしまった。妹と二甥が一緒にわしを送ってくれないか。」
文羋は「命に従います」と答えました。
鄭文公は楚王を送って城を出てから先に還りました。文羋と二人の娘が楚王と車を並べて軍営まで行きます。
楚王は二人の姪の美貌を気に入っていたため、その夜は楚陣の寝室に二人を留め、枕席の歓を成しました。文羋は不安なまま帳の中を行ったり来たりして一睡もできませんでしたが、楚王の威を恐れて何も言えません。舅(母の兄弟)の身でありながら甥(姪)と関係を結ぶとは、真に禽獣の行いです。
 
翌日、楚王は戦利品の半分を文羋に贈り、二人の娘を車に乗せて還りました。二人とも楚の後宮に入れられます。
鄭の大夫・叔詹が嘆息して言いました「楚王は善い終わりを迎えることができないだろう。享(宴)によって礼を成したが、礼が終わったら男女の別を無視した。これでは善い終わりを得ることはできない。」
 
 
 
*『東周列国志』第三十四回後編に続きます。