第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する(中編)

*今回は『東周列国志』第三十五回中編です。
 
宋を去った重耳は鄭国に向かいました。早くも重耳が来たという情報が鄭文公に伝えられます。
文公が群臣に言いました「重耳は父に背いて逃走したため、列国が受け入れず、何度も飢餒(飢え)に苦しんでいる。このように不肖な者を礼遇することはない。」
上卿・叔詹が諫めて言いました「晋の公子には三助があります。天祐の人なので礼を怠ってはなりません。」
鄭伯が三助について聞くと、叔詹が言いました「『同姓が結婚したら子孫は繁栄しない(同姓為婚,其類不蕃)』と言います。重耳は狐女の子で、狐は姫姓と同宗なので、本来は栄えないはずです。しかし重耳が産まれてからは、一カ所に留まれば賢名が聞こえ、そこを離れても禍患がありません(父母が同姓なのに禍がなく、逆に賢名が知られています)。これが一助です。重耳が出奔してから晋の国家は安定していません。天意は治国の人を待っているのではありませんか。これが二助です。趙衰、狐偃等は当世の英傑です。重耳が彼等を得て臣にしていることが三助です。この三助があるのですから、主公は礼遇するべきです。同姓を礼遇し、困窮を憐れみ、賢才を尊び、天命に順じる。この四者はどれも美事とされています。」
鄭伯が言いました「重耳は年老いた。何ができるというのだ。」
叔詹が言いました「主公が礼を尽くすことができないのなら殺すべきです。仇讎を残して後の憂患とするべきではありません。」
鄭伯が笑って言いました「大夫の言は大げさだ。寡人に礼遇しろと言ったと思えば、今度は寡人に殺せと言う。何の恩があって礼遇し、何の怨みがあって殺せと言うのだ。」
鄭文公は門官に命じて門を閉じさせ、重耳の受け入れを禁止しました。
 
重耳は鄭に迎え入れる気がないと知り、車を駆けて国境を越えました。
一行は楚国に入ります。
重耳が楚成王に謁見すると、成王も国君の礼で持てなし、九献の享(天子の宴)を設けました。重耳は謙讓して宴を辞退しようとしましたが、傍に立っていた趙衰が言いました「公子が国外に出てから十余年が経ち、小国も公子を軽視して礼を疎かにしています。大国ならなおさらでしょう。(それなのに大国の楚がこのように礼を尽くすのは)天命です。辞退してはなりません。」
重耳は享宴を受け入れした。
宴が終わるまで楚王の恭敬な態度は変わらず、重耳の言葉も丁寧で常に謙遜していたため、両者は心を許しました。重耳は楚に安居することになります。
 
ある日、楚王と重耳が雲夢の沢で狩りをしました。
楚王は武芸の腕を見せようとして、鹿と兔に向けて矢を連射しました。どちらも捕獲されたため、諸将が地に伏せて祝賀します。
その時、一頭の人熊(熊の一種)が現れ、車に向かってきました。楚王が重耳に言いました「公子は矢を射ないのか?」
重耳は弓に矢を載せると、心中で「某(私)がもし晋に帰って国君になれるのなら、矢は右掌に中れ」と祈り、一矢を射ました。矢は熊の右掌に刺さります。軍士が熊を取り押さえて献上しました。
楚王が驚嘆して言いました「公子はまさに神箭(神の矢)だ!」
 
暫くすると、猟場を囲む兵達の中から喚声が上がりました。楚王が左右の近臣を派遣して確認させます。
近臣が戻ってこう言いました「山谷の中から一匹の獣を追い出しました。熊のようで熊ではなく、鼻は象のようで、頭は獅子のようで、足は虎のようで、髪は豺のようで、鬣(たてがみ)は野豕(猪)のようで、尾は牛のようで、体は馬くらいの大きさで、黒白の斑点模様があります。剣戟刀箭を使っても傷つけることができません。泥を噛むように鉄を噛むため、車軸を覆う鉄も全て食べられてしまいました。動きも素早いので敵う者がいません。誰も制すことができず、騒ぎになっています。」
楚王が重耳に問いました「公子は中原で生まれ育ったので博聞多識なはずだ。この獣の名も知っているのではないか?」
重耳は趙衰を顧みました。すると趙衰が進み出てこう言いました「臣が知っています。この獣は『貘』といいます。天地の金気を受けて生まれ、頭は小さく脚は短く、銅鉄を好んで食べ、小便をした場所には五金(多数の金属)が現れます。それらは全て消化して水(液体)になったものです。骨は堅くて髓がなく、槌を作ることができます。皮をとって褥(布団)を作れば、瘟(疫病)を避けて湿を除くことができます。」
楚王が問いました「制するにはどうすればいいのだ?」
趙衰が言いました「皮も肉も鉄で固められていますが、鼻の孔だけは空洞になっているので、純鋼の物で刺すことができます。火で炙ればすぐに死ぬはずです。金は元々火を恐れるからです。」
言い終わると魏犨が大きな声で言いました「臣に兵器は要りません。生け捕りにして駕前に献上しましょう。」
魏犨は車から飛び降りると飛ぶように走り去りました。
楚王が重耳に言いました「寡人と公子も共に観に行こう。」
二人も車を駆けさせて前に進みました。
 
魏犨は西北の角から包囲の中に入りました。獣を見つけるとすぐに襲いかかり、数回殴打します。しかし獣は全く恐れず、大きな一声を上げました。その声は牛の鳴き声のように響き渡ります。獣は体を起こして直立し、舌で口を一舐めしてから、魏犨の腰にある鎏金鋥帯(金と水銀の合金でできた光り輝く帯金)を舐めまわしました。
魏犨が怒って言いました「孽畜(畜生)め、無礼は赦さん!」
魏犨が五尺ほどの高さに飛び跳ねると、獣はその場で一回転して再び座り直しました。魏犨はますます怒って再び飛び跳ねました。跳ねた勢いといつもの勇力を発揮して獣の上にまたがり、両腕で首を抱きかかえます。獣が力を奮って跳ねまわったため、魏犨もそれとともに上下しましたが、常に腕は放しません。長い間暴れまわった獣はしだいに力がなくなってきました。しかし魏犨の凶猛な力にはまだ余裕があります。首を抱きかかえた両腕を更にきつく締めたため、ついに獣の息が止まり、全く動かなくなりました。
魏犨は飛び下りて銅筋鉄骨のような二つの腕をほぐすと、獣の象鼻をつかみ、犬か羊を牽くように二君の前に持っていきました。まさに虎将の様相です。
趙衰が軍士に命じて火を焚かせ、鼻の先をいぶしました。火気が体内に入った獣は柔らかい塊になります。魏犨はやっと手を放し、腰から宝剣を抜いて斬りつけました。しかし剣から火花が散るだけで、獣は毛も損ないません。
趙衰が言いました「この獣を殺して皮を取るには、火で囲んで炙るしかありません。」
楚王はその言に従います。
鉄のような獣の皮や肉も、四方から火で炙られてしだいに柔らかくなりました。こうして皮と肉が切り裂かれます。
楚王が言いました「公子に従う諸傑は文武を兼ね備えている。我が国は万に一つも及ばない。」
この時、楚の将・成得臣が傍にいました。成得臣は楚王の言葉を聞いて不満になり、「我が王は晋臣の武を褒めていますが、臣と較べさせてください」と言いました。
しかし楚王は「晋の君臣は客である。汝は敬意を払え」と応えました。
 
この日の狩猟が終わって大きな酒宴が開かれました。
楚王が重耳に問いました「公子がもし晋国に帰ることができたら、どうやって寡人に報いるつもりだ?」
重耳が言いました「楚君にとって、子女や玉帛は既にあり余っています。羽(鳥羽)・毛(獣皮)・歯象牙・革(犀皮)は楚で採れる物です。どうして君王に報いることができるでしょう。」
楚王が笑って言いました「そうであったとしても、必ず報いるとしたらどう報いるつもりか聞いてみたい。」
重耳が言いました「もし君王の霊(福)によって晋に帰国できたら、歓好を共にして百姓を安定させることを望みます。もしそれができないようなら、兵車を率いて君王と平原広沢の間で対峙し、君王を三舍避けましょう。」
一日に行軍する距離は通常三十里で、これを一舍といいます。三舍は九十里になります。重耳は「帰国後も楚との友好を願うが、もし戦争になったら、晋は楚の恩に報いるため、速戦を避けて自ら三舍撤退する」と約束しました。
 
酒宴が終わってから成得臣が怒って楚王に言いました「王は晋の公子をとても厚く遇しています。しかし今日の重耳の言は不遜ではありませんか。後日、公子が晋に帰ったら、必ず楚の恩に背きます。臣に公子を殺させてください。」
楚王が言いました「晋の公子は賢人であり、その従者も皆、国器(国政を行う器)だ。これは天が公子を助けているのであろう。楚が天に逆らうわけにはいかない。」
成得臣が言いました「王が重耳を殺さないのなら、狐偃、趙衰等の数人を拘留しましょう。虎に翼を与えるべきではありません。」
楚王が言いました「彼等を留めたとしても用いることはできず、いたずらに怨みを買うだけだ。寡人は公子に徳を施しているのに、怨みによって徳と換えるのは良計ではない。」
楚王はますます晋公子を厚遇しました。
 
 
話は晋に移ります。
周襄王十五年、晋恵公十四年、恵公が病にかかり、視朝(朝廷で群臣に会って政治を行うこと)ができなくなりました。
恵公の太子・圉は人質として久しく秦国にいます。
圉の母は梁国の人です。梁君は無道で民力を考慮することなく、日々、築鑿(土木工事。宮殿や城壁の建築)を行っていたため、万民の怨嗟を招きました。やがて、苛役から逃れるために多くの梁人が秦に逃げるようになります。
秦穆公は梁の民心が離れたと判断し、百里奚に命じて梁を襲撃させました。梁君は乱民に殺され、梁国は滅亡します。
梁の滅亡を知った太子・圉が嘆息して言いました「秦は私の外家(母の実家)を滅ぼした。これは私を軽視しているからだ。」
太子・圉は秦を怨むようになりました。
恵公が病に倒れたという情報が秦に入ると、太子・圉はこう考えました「私は一人で国外に居るが、外には哀憐の交がなく、内には腹心の援もない。万一君父に不測の事が起きたら、諸大夫は他の公子を立てるだろう。私は秦で客死することになる。これでは草木と同じではないか。逃げ帰って君父を看病し、国人の心を安定させるべきだ。」
その夜、太子・圉が寝室で妻の懐嬴に話しました「今、私が帰らなかったら、晋国は私のものではなくなる。しかし逃げ帰ったら夫婦の情を棄てることになる。汝が私と一緒に晋国に帰れば、公私ともに満足させることができる。」
懐嬴が泣いて言いました「子(あなた)は一国の太子でありながら、ここで拘束の辱めを受けています。帰りたいと思うのは当然でしょう。しかし寡君は婢子(私)に巾櫛(顔を洗ったり髪を梳かす道具)を持って子につかえさせました。これは子の心を固めるためです。もし君命に背いて子と一緒に晋に帰ったら、妾の罪が大きくなってしまいます。子は自分がやるべき事を選んでください。妾に説明する必要はありません。妾は従うことができませんが、子の言を他人に漏らすこともありません。」
太子・圉は単独で晋に逃げ帰りました。
 
 
 
*『東周列国志』第三十五回後編に続きます。