第三十五回 晋重耳が列国を周游し、秦懐嬴が公子と重婚する(後編)

*今回は『東周列国志』第三十五回後編です。
 
秦穆公は子圉が別れも告げずに去ったと知り、罵って言いました「義に背く賊め!天が汝を守ることはない!」
穆公が諸大夫に言いました「夷吾の父子は共に寡人を裏切った。寡人は報復しなければならない。」
穆公は重耳を晋の国君に立てなかったことを後悔し、人を送って重耳を探させました。重耳の足取りを追い、数ヶ月前から楚に滞在していると知ります。
そこで公孫枝に楚王を聘問させ、重耳を秦に迎え入れてから晋に帰国させることにしました。
 
秦の使者が楚に来ると、重耳が偽って楚王に言いました「亡人は君王の命を聞くだけです。秦に行くつもりはありません。」
しかし楚王はこう言いました「楚と晋は遠く離れている。公子が晋に入るとしたら、数国を通らなければならない。しかし秦と晋は隣接しているから、朝出発すれば夕(夜)には到着する。それに、秦君は賢人で、晋君とも憎しみあっている。これは公子にとって天賛(天佑)の出会いだ。公子は行くべきだ。」
重耳は拝謝して従いました。楚王は大量な金帛・車馬を贈って重耳一行の物資を充実させます。
 
重耳は数カ月の旅の末、やっと秦の国境に着きました。途中で複数の国を通りましたが、全て秦か楚に属しており、しかも公孫枝が同行しているため、平安な旅になりました。
 
秦穆公は重耳が到着したと聞き、喜んで郊外で出迎えました。賓館を与えて厚い礼を尽くします。
秦夫人・穆姫は重耳を敬愛して子圉を嫌っていたため、懐嬴を重耳に嫁がせて婚姻関係を結びたいと考えました。これを穆公に話すと、穆公は夫人から懐嬴に伝えさせました。
懐嬴が言いました「妾は公子・圉のために既に身体を失いました。再び嫁いでもいいのでしょうか。」
穆姫が言いました「子圉は帰ってきません。重耳は賢人で多くの助けがあるので、必ず晋国を得ることができます。晋国を得たら必ず汝を夫人にします。そうなれば秦と晋は代々の婚姻関係を結ぶことができます。」
懐嬴は暫く黙って考えてからこう言いました「もしもその通りなら、妾が一身を惜しんで両国の好を妨害することはありません。」
穆公は公孫枝を通じて重耳に婚姻の話しを伝えました。
 
子圉は重耳と叔姪(叔父と甥)の関係にあります。懐嬴は嫡親姪婦(血がつながった甥の妻)にあたるので、重耳は倫理上の問題があると考えて辞退しようとしました。
しかし趙衰が言いました「懐嬴は美しくて賢才もあり、秦君と夫人に愛されています。秦女を受け入れなければ秦と好歓を結ぶことはできません。『人に愛されたいのなら先に人を愛せ。人を従わせたいのなら先に人に従え(欲人愛己,必先愛人。欲人従己,必先従人)』といいます。秦と好歓を結ぶことなく秦の力を借りるのは不可能です。公子は辞退するべきではありません。」
重耳が言いました「同姓の婚姻でも避けるべきであるのに、我が子のような存在ならなおさらではないか。」
臼季が言いました「古の同姓とは徳を同じくしたのであり、族が同じだったわけではありません。昔、黄帝炎帝はどちらも熊国君の少典の子でしたが、黄帝は姫水で産まれ、炎帝は姜水で産まれ、それぞれ異なる徳をもったため、黄帝は姫姓を名乗り、炎帝は姜姓を名乗ったのです。その後、姫姓と姜姓の族は代々婚姻を繰り返しました。黄帝には二十五人の子がおり、十四人が姓を与えられました。そのうち姫姓と己姓は二人ずついましたが、これは徳が同じだったからです。徳が同じなら姓も同じになり、その場合は族が遠くでも婚姻をしてはなりません。しかし徳が異なれば姓も異なるので、族が近くでも男女が避ける必要はありません。堯は帝嚳の子であり、黄帝の五代後の孫です。舜は黄帝の八代後の孫です。よって堯の娘は舜の祖姑(曾祖父や祖父の姉妹)にあたります。しかし堯は娘を舜に嫁がせ、舜は辞退しませんでした。古人の婚姻の道とはこのようなものだったのです。徳について論じるとしたら、子圉の徳と公子の徳が同じだといえますか。親(親族の関係)について論じるとしたら、秦女の親は祖姑と較べものになりません(血縁関係では、祖姑の方が甥の妻より近親ですが、舜は妻にしました)。そもそも、棄てられた者を収めるのです。愛されている者を奪うのではありません。何を気にするのですか。」
重耳は狐偃にも意見を求めました。すると狐偃が逆に問いました「公子が晋に帰ろうとしているのは、子圉に仕えたいからですか?それともその地位を奪って代わりたいと思うからですか?」
重耳が答えないため、狐偃が言いました「晋の統系(宗族の系統。国君の地位)はもうすぐ圉のものになります。もしも彼に仕えたいのなら秦女は国母ですが、もしも取って代わりたいのなら仇讎の妻となります。何を考える必要があるのですか。」
重耳はまだ悩んでいます。
趙衰が言いました「これから国を奪おうとしているのに、その妻を気にする必要がありますか。大事を成す者が小節を惜しんでいたら、後悔しても取り返しがつかないことになります。」
重耳はやっと決意しました。
公孫枝が穆公に復命し、重耳は吉日を選んで幣礼を贈りました。公館で婚礼が挙げられます。懐嬴の美貌は斉姜にも勝っており、しかも美しい宗女四人が媵として選ばれたため、重耳は長い亡命生活の辛労を忘れるほど喜びました。
 
秦穆公は元々晋の公子の品位を敬っており、しかも甥舅(婿と岳父)の関係が重なったため、ますます情誼を厚くしました。三日に一宴、五日に一饗(宴の一種)を開きます。
秦の世子・罃も重耳に敬事し、頻繁に饋問(礼物を持って挨拶に行くこと)しました。
趙衰や狐偃等も秦の臣・蹇叔、百里奚、公孫枝等と深い交わりを結び、共に帰国の策を練ります(原文「共躊躇復国之事」。ここでの「躊躇」は恐らく「籌措」の意味。考える、策謀すること)
公子が新婚で、晋国にも付け入る隙がないため、軽率に動くことはできませんが、昔から「運が至って時が来たら、鉄の木にも花が咲く(運到時来,鉄樹花開)」といいます。天は公子・重耳を産み、晋君の地位と伯主(覇者)の名声を定めました。機会は自然に訪れるはずです。
 
 
太子・圉は秦から逃げ帰って父の晋恵公に会いました。恵公が喜んで言いました「わしは病にかかって久しく、後を託す者がいないことを心配していた。今、吾子(汝)が樊籠(鳥籠)から逃れて儲位(後継ぎの地位)に戻ったから、やっと安心できた。」
 
秋九月、恵公の病が重くなりました。
恵公が呂省と郤芮の二人に子圉を託してこう言いました「群公子は心配ないが、重耳だけは警戒する必要がある。」
呂・郤の二人は頓首して命を受けました。
その夜、恵公が死に、太子・圉が喪を主宰して即位しました。これを懐公といいます。
 
懐公は重耳が国外で変事を成すことを恐れ、政令を出しました「晋の臣で重耳に従って出亡(亡命)している者は、罪を親族に及ぼす。三か月以内に呼び戻せ。もしも期日通りに帰国したら、旧職に復させて罪を咎めない。しかし期日を過ぎても到らなかったら、禄籍から除名し、丹書(赤字で書かれた犯罪者の記録)に死を註す。父子兄弟でありながら座して傍観するだけで呼び戻そうとしない者も、併せて死刑に処す。」
老国舅・狐突の二人の子も重耳に従って秦にいました。狐毛と狐偃です。
郤芮が個人的に書を送り、子を呼び戻すように狐突を説得しました。しかし狐突は再三拒否します。
郤芮が懐公に言いました「二狐には将相の才がありますが、今は重耳に従っています。これは虎が翼を得たようなものです。ところが突は二子を呼び戻そうとしません。彼の考えは予測できないので、主公が自ら話しをするべきです。」
懐公はすぐに人を送って狐突を招きました。
狐突は家人に別れを告げて懐公に会いに行きます。
狐突が問いました「老臣は病のため家にいました。何のための宣召でしょうか?」
懐公が問いました「毛偃が外にいるが、老国舅は家信を送って呼び戻したか?」
狐突は「ありません」と答えます。
懐公が問いました「寡人は『期日を過ぎても帰って来ない者は、罪が親党に及ぶ』と命じた。老国舅は聞いたことがないのか?」
狐突が言いました「臣の二子が重耳に委質(忠誠を誓うこと)したのは一日のことではありません。忠臣が主に仕えたら、死んでも二心を抱かないものです。二子が重耳に忠を尽くすのは、朝廷の諸臣が国君に忠を尽くすのと同じです。たとえ二子が逃げ戻ったとしても、臣はその不忠を譴責し、家廟で戮す(殺す)でしょう。呼び戻すことなど考えられません。」
激怒した懐公は二人の力士に命じ、白刃を狐突の首の上で交わらせました。
懐公が言いました「二子が来たら汝を死から免れさせよう!」
狐突の前に簡(竹簡・木簡)が置かれます。郤芮が狐突の手をとると、狐突は大きな声で「わしの手を持つな!わしは自分で書く!」と言い、「子には二人の父がなく、臣には二人の君がない(子無二父,臣無二君)」と大書しました。
ますます怒った懐公が言いました「汝は死を恐れないのか!」
狐突が言いました「子でありながら不孝となり、臣でありながら不忠となることを、老臣は恐れています。死ぬのは臣子の常事(常にある事)です。何を恐れるというのですか。」
狐突は首を前に出して刑を受ける姿を示しました。
懐公は市曹(市場の人が集まる場所。処刑場)で狐突を処刑するように命じました。
 
太卜・郭偃が狐突の死体を見て、嘆息して言いました「国君は位を継いだばかりなので、まだ徳が匹夫(庶人)に至っていない。それなのに老臣を誅戮してしまった。敗亡は近いだろう。」
郭偃は病と称して家に籠ります。
 
狐氏の家臣が急いで秦国に奔り、毛偃に報告しました。
父の死を知った毛偃はどうするか、続きは次回です。