第四十回 先軫が子玉を激し、晋楚が城濮で戦う(後編)

*今回は『東周列国志』第四十回後編です。
 
晋文公が諸将を集めて計を問いました。
先軫が言いました「元々楚を誘い出して戦威を挫くことが目的でした。しかも楚は斉を攻め、宋を包囲してから今に至っているので、その師は疲労しています。楚と戦うべきです。敵を失ってはなりません。」
狐偃が言いました「主公はかつて楚君の面前で『後日、中原で兵を治めることになったら、貴君から三舍避けさせてください』と言いました。今、すぐに楚と戦ったら信がないことになります。主公は原人に対して信を失いませんでした。楚君に対しても信を失っていいはずがありません。楚を避けるべきです。」
諸将が不満そうに言いました「国君(晋君)が臣下(楚の令尹)を避けるのは甚だしい恥辱です。いけませ(不可,不可)!」
狐偃が言いました「子玉は剛狠ですが、楚君の恩恵を忘れてはなりません。我々は楚を避けるのであって、子玉を避けるのではありません。」
諸将が言いました「もし楚兵が追撃してきたらどうするのだ?」
狐偃が言いました「我々が退いてから楚も退くようなら、再び宋を包囲することはないはずです。我々が退いたのに楚が兵を進めるのなら、臣下が国君に迫ることになるので、曲(非)は彼にあります。また、我々が避けたのに楚が迫るようなら、人々は怒心を持ちます。彼が驕って我々が怒れば、勝てないはずがありません。」
文公は「子犯(狐偃)の言う通りだ」と言うと、「三軍ともに撤退せよ!」と命じました。
 
晋軍が三十里(一舎)退いた時、軍吏が文公に報告しました「既に一舍の地を撤退しました。」
しかし文公は「まだだ」と応えました。
更に三十里撤退しても駐留せず、併せて九十里撤退して城濮の地に至った時、やっと陣を構えて兵馬を休ませました。九十里は三舍の距離になります。
 
同じ頃、斉孝公も上卿・国懿仲の子・国帰父を大将に、崔夭を副将に任命して兵を発しました。秦穆公も次子の小子憖を大将に、白乙丙を副将に任命して出征させます。二国の大軍が晋を援けるために城濮に営寨を構えました。包囲を解かれた宋でも、成公が司馬・公孫固を晋陣に送って拝謝させました。公孫固は晋陣に留まって戦を援けます。
 
楚軍は晋軍が退却したと聞いて喜びました。しかし鬥勃がこう言いました「晋侯は国君でありながら臣下を避けました。我々にとっては栄誉なことです。これを機に兵を還しましょう。功はありませんが、罪から逃れることはできます。」
しかし成得臣は怒ってこう言いました「わしは既に兵と将を増やすように求めた。一戦もせずにどうして復命できるか!晋軍は撤退して臆病になっている。速やかに追撃するべきだ!」
成得臣は「速やかに前進せよ(速進)!」と命じました。九十里進んだ所で晋軍と遭遇します。
成得臣は地形を調べ、山や沢といった険阻な場所を利用して陣を構えました。
晋の諸将が先軫に言いました「楚が険阻な地に陣を構えたら攻撃が困難になる。速く兵を出して戦うべきだ。」
先軫はこう答えました「険阻な地形を利用するのは守りを固めるためだ。しかし子玉が遠くから来たのは、守るためではなく戦うためだ。険阻な地に陣を構えてもうまく使うことはできない。」
 
文公も楚との戦いを心配していました。
狐偃が言いました「今日、既に営塁を構えて対峙したので、必ず戦わなければなりません。戦って勝てば諸侯の伯(覇者)となれます。しかしもし勝てなくても、我が国は外に河黄河があり、内に山があるので、充分守ることができます。楚には手が出せません。」
それでも文公は躊躇していました。
その夜、夢を見ました。夢の中の文公はまだ楚で亡命生活を送っています。文公が楚王と手搏(格闘技)をして遊び、文公の力が尽きて仰向けに倒れました。楚王がその上に伏せて頭を打ち破り、脳をすすります。驚いて目が覚めた文公は、同じ帳に寝ていた狐偃を呼び起こして夢の内容を話し、こう言いました「夢の中で楚と戦ったが勝てず、わしは脳を飲まれた。これは吉兆ではないだろう。」
すると狐偃は祝福してこう言いました「これは大吉の兆です。主公は必ず勝ちます。」
文公が「吉兆はどこにあるのだ?」と問うと、狐偃が言いました「主公が仰向けで地に倒れたのは、天に照らされるためです。楚王がその身の上に伏したのは、地に伏して罪を請うためです。脳は柔らかいものです。主公が柔らかい脳を楚に与えたのは、楚を懐柔するという意味です。これでなぜ勝てないのでしょうか。」
文公は納得してやっと戦いの決心をしました。
 
空が明け始めた頃、軍吏が報告しました「楚国の使者が戦書を届けて来ました。」
文公が開いて見るとこう書かれています「貴君の士と戯れさせていただきたい。貴君は軾(馬車の前にある横木)に身を寄せてそれを観よ。得臣も一目見るつもりだ。」
狐偃が言いました「戦とは危事です。それを『戯(遊び)』と称しているのは、彼が戦を軽んじているからです。彼は必ず失敗します。」
文公も欒枝に答書を準備させました。その内容はこうです「寡人は楚君の恩恵を忘れず、謹んで三舍を退き、大夫との対峙を避けた。しかし大夫がどうしても兵を観たいというのなら、命に従うだけだ。詰朝(日が明けてから。翌朝)相見しよう。」
 
楚の使者が去ると、文公は先軫に命じて再び兵車を整えさせました。全部で七百乗、精兵五万余に登ります。これは斉・秦の兵を含まない数です。
文公が有莘(古国)の墟(跡地。土丘)に登って全軍を一望すると、将兵は年齢の秩序を守っており、進退にも節(規則)があって整然としていました。文公が嘆息して言いました「これは郤縠の遺教だ。これで敵と戦えば問題ない。」
文公は人を派遣して山木を伐らせ、戦具を補強しました。
 
先軫が兵将を分けました。狐毛と狐偃が上軍を率い、秦国の副将・白乙丙と共に楚の左師・鬥宜申と対峙します。欒枝と胥臣が下軍を率い、斉国の副将・崔夭と共に楚の右師・鬥勃と対峙します。それぞれに計策が授けられました。
文公自身は郤溱、祁瞞と中軍を形成し、成得臣と対峙しました。荀林父と士会にそれぞれ五千人を率いて左右両翼とさせ、中軍に呼応するように命じます。
また、国帰父と小子憖にそれぞれの国の兵を率いて間道から楚軍の背後に回らせました。楚軍の退路に埋伏し、楚軍が敗北したら大寨に攻め入る計画です。
この時、魏犨も胸の傷が治っていたため、先鋒を買って出ました。しかし先軫がこう言いました「老将軍は他の場所で用いるつもりだ。有莘から南に進んだ場所に空桑という地があり、そこは楚の連谷と隣接している。老将軍は一支の兵を率いてそこに伏せ、楚の敗兵の帰路を絶って楚将を捕えてほしい。」
魏犨は喜んで出陣しました。
趙衰、孫伯糾、羊舌突、茅茷等の文武諸官が有莘山の上で文公を守って戦を見守ります。
舟之僑には南河で船を整えさせました。楚軍を破ってから輜重を奪って運ぶためです。期日までに輸送の準備を終えるように命じました。
 
翌日黎明、晋軍が有莘の北に、楚軍が南に陣を構えました。それぞれの三軍が列を成します。成得臣が軍令を出しました「左右二軍が先進し、中軍がそれに続け。」
 
晋の下軍の大夫・欒枝は楚の右師が陳・蔡の兵を前隊にしたと知り、喜んで言いました「元帥が秘かにこう言った『陳・蔡は戦いに怯えているから容易に動かせる。』まず陳・蔡を破れば、右師は戦わずに潰れるだろう。」
欒枝は白乙丙を出陣させました。
陳の轅選と蔡の公子印は鬥勃の前で功を立てようと思い、争って車を進めます。しかし両軍がぶつかる前に晋兵が突然後退しました。二将が追撃しようとした時、晋陣の門旗が開いた場所で砲声が響きました。胥臣が一陣の大車を率いて突進してきます。車を牽く馬が全て虎の皮を被っていたため、それを見た楚の馬は本物の虎が来たと思い、驚いて飛び跳ねました。手綱を握る者は制御ができなくなり車を返します。退却する陳・蔡の兵は後隊の鬥勃軍に衝突しました。
胥臣と白乙丙は混乱に乗じて突撃し、胥臣が斧を揮って公子印を車の下に斬り落としました。白乙丙が射た矢も鬥勃の頰に刺さります。鬥勃は矢が刺さったまま逃走し、楚の右師が総崩れになりました。数え切れないほどの死者が頭を並べます。
 
欒枝は軍卒を派遣して陳・蔡の兵に化けさせ、陳・蔡の旗号を持って楚の中軍にこう報告させました「右師が既に勝利しました。速やかに兵を進めてください。共に大功を成しましょう。」
成得臣が軾に身を乗り出して眺めると、晋軍が北に奔る様子が見えました。砂塵が天を覆っています。成得臣は喜んで「晋の下軍は本当に破れたぞ!」と言い、左師に命じて全力で進ませました。
 
鬥宜申(楚の左師)は正面の陣に大旆が掲げられているのを見て主将だと判断し、士気を奮い立たせて突撃しました。狐偃(晋の上軍)が迎え討って数合戦いましたが、陣の後ろが乱れているのを見たため、車を返して後退します。大旆(狐毛が指揮しています)も後ろに退きました。鬥宜申は晋軍が崩壊したと思い、鄭・許の二将を率いて追撃しました。
すると突然、鼓声が地を震わし、先軫と郤溱が精兵を率いて側面を襲いました。楚軍は前後に分断されます。退却していた狐毛と狐偃も向きを変えて戦い、楚軍を挟撃しました。驚いた鄭・許の兵は真っ先に壊滅します。宜申も抵抗する力が尽きて命がけで逃走しました。しかし斉将・崔夭が行く手を遮って襲ってきます。宜申は車馬器械を棄てて歩卒の中にまぎれこみ、山を登ってなんとか遁走しました。
 
晋の下軍(欒枝)が敗走したのは擬態でした。空を覆った砂塵は、欒枝が有莘山で伐った木を車につけて駆けさせたために起きたものです。木が引きずられて砂塵が舞い上がると、楚の左軍(左師)が功を貪るために攻撃を開始しました。それに合わせて狐毛が偽の大旆を退かせ、上軍が崩壊する姿を見せました。狐偃の敗走も楚軍を誘い出すための罠です。
これらは全て先軫が計画したことでした。先軫は祁瞞に命じて大将旗を中軍に立てさせておき、楚軍が挑発しても決して出撃せず中軍を守るように指示しました。
狐偃が敗走して楚軍を誘うと、先軫は中軍の精兵を率いて陣の後ろから回り込み、楚の左師の横を襲いました。先軫と二狐が楚軍を挟撃して完勝を収めます。全て先軫が定めた計の通りに進みました。
 
楚の元帥・成得臣は自分の勇に頼って戦いを求めましたが、楚王から再三警告されているため慎重に行動しました。しかし左右二軍が既に晋軍を破って追撃を始めたという報告が入ると、中軍に戦鼓を敲かせ、小将軍・成大心を出撃させました。
晋の中軍では祁瞞が先軫の命を守って固く陣門を守っています。楚の挑発に応えようという様子は全くありません。
ところが楚の中軍が二回目の戦鼓を敲き、成大心が画戟を持って陣前で武威を示すと、祁瞞は我慢ができなくなり、間諜を出して探らせました。間諜が報告しました「十五歳の孩子(子供)です。」
祁瞞は「童子に何ができるか!簡単に捕えて中軍の一功としよう!」と言うと、「戦鼓を敲け(擂鼓)!」と怒鳴りました。陣門が開き、祁瞞が刀を振り回して出陣します。小将軍が迎え討って二十余合戦いましたが、勝負がつきません。
鬥越椒は門旗の下にいましたが、小将軍が勝てないのを見て車を駆けさせました。弓に矢を置いて狙いを定め、一矢を放つと祁瞞の盔纓(兜の装飾)に中ります。驚いた祁瞞は本陣に帰ろうとしましたが、大軍の動揺を恐れたため、陣の周りを回って逃走しました。鬥越椒が大声で言いました「敗将を追う必要はない!中軍に攻め入って先軫を捕えよ!」
 
晋・楚の勝負はどうなるか、続きは次回です。