第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(二)

*今回は『東周列国志』第四十九回その二です。
 
話は宋に移ります。
宋襄公夫人・王姫は周襄王の姉で、宋成公・王臣の母、昭公・杵臼の祖母にあたります。
昭公は世子(太子)だった頃から公子・卬、公孫・孔叔、公孫・鐘離の三人と田猟(狩猟)や遊戯で親しみました。即位してからは三人の言だけを聞き、六卿に政治を任せず、祖母にも朝見せず、公族を疎遠にし、民事を疎かにして、日々狩猟を楽しみました。
司馬・楽豫は宋国が必ず乱れると判断し、その官を公子・卬に譲りました。
司城・公孫寿も禍が及ぶことを恐れ、告老致政します。昭公はその子・蕩意諸に司城の官を継がせました。
 
襄夫人・王姫は老いても淫を好みました。
昭公の庶弟である公子・鮑は婦人にも勝る美艶をもっていたため、襄夫人は心中で気に入り、酒で酔わせて無理やり関係をもちました。公子・鮑を国君に立てる約束をします。
この後、襄夫人は昭公を廃して公子・鮑を擁立することを考えるようになりました。
昭公は穆公と襄公の一族が権勢を握っていることを嫌い、公子・卬等と謀って二族を駆逐しようとしました。しかし王姫が秘かに二族に伝えたため乱が起こります。公子・卬と公孫・鐘離の二人は朝門で包囲されて殺されました。司城・蕩意諸は恐れて魯に奔ります。
公子・鮑は以前から六卿に敬事していました。乱が起きると国内の諸卿と協力して二族と講和し、公子・卬と公孫・鐘離を殺した罪を追及しないことを約束します。また、蕩意諸を魯から呼び戻して位を元に戻しました。
 
公子・鮑は斉の公子・商人が施しを厚くして人心を買い、斉の国君の位を奪ったと知り、それを真似し始めました。家財をばらまいて貧民を救済します。
昭公七年、宋国を飢饉が襲いました。公子・鮑は倉稟(食糧庫)の粟穀物を全て出して貧者を救います。また、老人を敬い、賢人を尊重し、国内で七十歳以上の者には毎月粟帛を与え、飲食に珍味を加えました。人を送って慰問もします。
一才一芸の者がいたら全て門下に収め、糈(糧食)を厚くしてもてなしました。
公卿や大夫の家にも毎月饋送(食糧を届けること)し、宗族間で吉凶(婚礼、出産や葬儀等)の出費が必要になると親疏に関係なく財を散じて援助しました。
昭公八年も宋国は飢饉に襲われました。公子・鮑の倉廩が既に空になっていたため、襄夫人が宮中の藏から食糧物資を出し尽して施しを援けます。国中が公子・鮑の仁を称え、親疏貴賎を問わず、人人は公子・鮑が国君になることを願うようになりました。
公子・鮑は国人が自分を支持するようになったと知り、秘かに襄夫人に告げて昭公弑殺を謀りました。
襄夫人が言いました「杵臼は孟諸の藪で狩りをしようとしているそうです。駕(車)が都を出た時を狙って、私が公子・須に命じて門を閉じさせます。子(あなた)は国人を率いて攻めなさい。失敗するはずがありません。」
公子・鮑は同意しました。
 
司城・蕩意諸は賢名が知られていたため、公子・鮑はかねてから尊敬して礼をもって接してきました。
しかし蕩意諸は襄夫人の陰謀を知って昭公にこう言いました「主公は狩りに出てはなりません。もしも狩りに行ったら、恐らく戻ることができなくなります。」
昭公が言いました「もし反逆する者がいるのなら、たとえ国の中にいても逃れることはできないだろう。」
昭公は右師・華元と左師・公孫友に都を守らせ、府庫の宝物を全て車に積んでから、左右の近臣を連れて孟諸に進みました。冬十一月望(十五日)の事です。
 
昭公が城を出ると、すぐに襄夫人が華元と公孫友を宮中に留め、公子・須に命じて城門を閉じさせました。
公子・鮑は司馬・華耦を使って軍中に号令を伝えさせます「襄夫人の命が発せられた。『今日、公子・鮑を国君に擁立する』とのことだ。我等は無道の昏君を除き、共に有道の主を奉じよう!衆議(汝等の考え)は如何だ!」
軍士達は皆、跳び上がって喜び、「命に従います!」と答えました。
国人も全て喜んで従います。
そこで華耦が軍民を率いて城を発ち、昭公を追撃しました。
 
昭公は道中で異変を聞きました。蕩意諸が昭公に他国へ出奔して今後の事を図るように勧めましたが、昭公はこう言いました「上は祖母から下は国人に及ぶまで、誰もが寡人を仇としている。このような私をどの諸侯が受け入れるというのだ。他国で死ぬくらいなら、故郷で死ぬことを選ぶ。」
昭公は車を止めて狩りに従った従者に食事をとらせました。従者達が満腹になると、昭公はこう言いました「罪は寡人の一身にある。汝等には関係ないことだ。汝等は数年にわたってわしに従ってきたが、何かを贈ったこともなかった。今、国中の宝玉がここにある。汝等に分賜するから、それぞれ逃げて生を求めよ。寡人と共に死ぬ必要はない。」
左右の近臣が泣いて言いました「主公は前に進んでください。もし追兵が来たら、我々が命をかけて一戦します。」
昭公が言いました「いたずらにその身を殺すのは無益だ。寡人はここで死ぬ。汝等は寡人を想うな。」
暫くして華耦の衆が到着しました。華耦は昭公を包囲して襄夫人の命を伝えます「無道の昏君を誅すだけだ。衆人が関わる事ではない。」
昭公は急いで左右の者を去らせました。大半の者が去りましたが、蕩意諸は剣を持って昭公の側に留まります。
華耦は再び襄夫人の命を伝え、蕩意諸を招きました。蕩意諸は嘆息してこう言いました「人の臣でありながら難を避けるようでは、生きていても死に及ばない。」
華耦が戈を持って昭公に迫りましたが、蕩意諸が自分の身体を使って庇い、剣で応戦します。
しかし軍民が一斉に襲いかかり、まず蕩意諸を殺してから昭公を殺しました。昭公の近臣で逃げなかった者も全て殺戮されます。
 
華耦が軍を率いて帰還し、襄夫人に報告しました。
右師・華元、左師・公孫友等が群臣と共に上奏しました「公子・鮑は仁厚で民心を得ているので、大位を継ぐべきです。」
こうして公子・鮑が国君になりました。これを文公といいます。
 
華耦は朝賀を終えて家に帰ってから、突然、心疼(心臓病)を患って死んでしまいました。
文公は蕩意諸の忠を称えて弟・蕩虺を司馬に任命しました。華耦の代わりです。また、同母弟の公子・須を司城に任命しました。蕩意諸の代わりです。
 
晋の趙盾は宋で弑君の乱が起きたと聞き、荀林父を将に任命して衛、陳、鄭と共に宋を討伐することにしました。
しかし宋の右師・華元が和を請うために晋軍を訪ね、宋の国人が公子・鮑の奉戴を願っていることを説明したうえで、数車に乗せた金帛を贈りました。犒軍(軍を慰問すること)の礼という名目の賄賂です。
荀林父はこれを受け取って宋の講和に同意しようとしました。
鄭穆公が言いました「我々が鳴鐘撃鼓(出陣の合図。兵を動員したという意味)し、宋の地で将軍に従っているのは、無君(宋の国君が弑殺された事)を討つためです。もし和を許したら、乱賊が志を得ることになります。」
荀林父が言いました「斉と宋は同等です。我々は既に斉を許しました。なぜ宋だけを誅す必要があるのですか。しかも国人が願っているのですから、それを利用して安定させるのは間違いではないでしょう。」
荀林父は華元と盟を結び、文公の位を定めて帰還しました。
鄭穆公が兵を還してから言いました「晋は賂(賄賂)を貪っているだけで、有名無実だ(覇者という名があるだけで実はない)。再び諸侯の伯(覇者)になることはできないだろう。最近、楚王が新たに即位した。今後、征伐の事があったら、晋を棄てて楚に従った方が安泰だろう。」
こうして鄭は楚に人を送って関係を結びました。晋はこれに対して何も手を打ちませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第四十九回その三に続きます。