第四十九回 公子鮑が国を買い、斉懿公が変に遭う(四)

*今回は『東周列国志』第四十九回その四です。
 
話は魯に移ります。
魯文公の名は興といい、僖公の嫡夫人・声姜の子です。周襄王二十六年に即位しました。
文公は斉昭公の娘・姜氏を夫人とし、二子が産まれました。一人を悪、一人を視といいます。また、秦女・敬嬴という嬖妾がおり、二子が産まれました。一人を倭、一人を叔肹といいます。
四子の中で倭が年長でしたが、悪が嫡夫人の子だったため、文公は悪を世子(太子)に立てました。
 
当時、魯国では三桓が政治を行っていました。孟孫氏は公孫敖(慶父の子)の代で、穀と難という子がいました。
叔孫氏は公孫茲(叔牙の子)の代で、叔仲彭生と叔孫得臣という子ができました。文公は彭生を世子太傅に任命しました。
季孫氏は季無佚の代で、季友の子です。無佚には行父という子ができました。これを季文子といいます。
また、魯荘公(僖公の父。文公の祖父)には公子・遂という庶子がいました。仲遂ともいい、東門に住んでいたため東門遂ともいいました。僖公の時代から三桓と共に政事を行っています。
輩数(親戚間の世代)を見ると、公孫敖と仲遂は再従兄弟(「再従兄弟」は曾祖父が同じ関係ですが、公孫敖と仲遂は祖父が同じ関係のはずです。どちらの祖父も桓公です)で、季孫行父は一つ下の輩(世代)になります。
公孫敖が仲遂の罪を得て(下述)国外で客死したため、孟孫氏は権力を失い、仲孫氏(仲孫氏は孟孫氏と同じで慶父の子孫の家系なので、恐らくここは「仲遂」のあやまり)、叔孫氏、季孫氏の三家が政治を行うようになりました。
 
公孫敖が仲遂から得た罪について語ります。
公孫敖は莒女・戴己を内子(妻)にしました。これが穀の母です。戴己の妹・声己が難の母です。
戴己が病で死ぬと、淫の強い公孫敖は再び莒国に使者を送って己氏の娘を招こうとしました。しかし莒人は「声己がいるので室(正妻)を継がせるべきです」と答えました。
そこで公孫敖は「私の弟(同世代で年下の者も弟と呼びます)である仲遂はまだ妻を娶っていません。遂のために納聘(婚約のため男の家から女の家に礼物を送ること)を受け入れてください」と伝えました。莒人はこれに同意します。
魯文公七年、公孫敖が君命を奉じて莒を聘問し、併せて仲遂のために莒女を迎えました。
一行が鄢陵に来た時、公孫敖が城壁に登って己氏の美色を眺め見ました。その夜、公孫敖は己氏と同宿しました。己氏を自分の妻にして家に連れて帰ります。
妻を奪われた仲遂は激怒して文公に訴え、兵を率いて撃つ許しを請いました。しかし叔仲彭生が諫めて言いました「いけません。『国内の兵は乱、国外の兵は寇(兵在内為乱,在外為寇)』といいます。幸いにも寇(敵の侵入)がないのに、乱の道を開いてはなりません。」
そこで文公は公孫敖を召し、己氏を莒に還らせて仲遂の怒りを鎮めさせるように命じました。公孫敖と仲遂は以前の関係を取り戻します。
 
ところが公孫敖は己氏を一心に思い続けていました。
翌年、周襄王が死んだため、公孫敖は魯侯の命を奉じて襄王の喪に参加することになりました。しかし公孫敖は京師に向かわず、弔幣(弔問の礼物)を持って莒国に向かい、己氏と夫婦になりました。
魯文公はその罪を追求せず、公孫敖の子・穀に孟氏の祀を主宰させることにしました。
 
その後、公孫敖が国に帰りたくなったため、人を送って穀に伝えました。孟孫穀は仲遂に話して許しを請います。仲遂が言いました「汝の父が帰りたいのなら、三つの事を守れ。入朝せず、国政に関与せず、己氏を連れて来なければ、帰国を許そう。」
穀は人を送って公孫敖に伝えました。
公孫敖は帰国の願いが強かったため、全て同意しました。
魯に帰った公孫敖は三年の間、門を閉ざして外に出ませんでした。
しかしある日、公孫敖が突然、家中の宝貨金帛をまとめて再び莒国に去りました。孟孫穀は父を想って病になり、翌年、死んでしまいます。
その子・仲孫蔑はまだ幼かったため、孟孫穀の弟・孟孫難が卿の位を継ぎました。
暫くして己氏も死んだため、公孫敖はまた魯に帰りたいと思うようになりました。そこで全ての家財を文公と仲遂に献上し、子の孟孫難を使って許しを請います。
文公が許可したため公孫敖は帰国しようとしましたが、斉まで来た時、病にかかり、堂阜で死んでしまいました。孟孫難は公孫敖の死体を魯に帰らせて喪を行うことを強く請い、許されて魯に埋葬しました。
 
孟孫難は罪人(公孫敖)の子という立場におり、宗祀の主の地位も仲蔑が成長するまでの暫定的なものだったため、政事には積極的に参与しませんでした。
季孫行父も叔父行(叔父の世代)にあたる仲遂と彭生、得臣に遠慮し、政事を専断しようとはしませんでした。彭生は仁厚な性格で、師傅(太子の教育官。政治的な実権は乏しい官です)の任についていたため、兵権を掌握している彭生の弟・得臣が、仲遂と一緒に政治を行うようになりました。
 
敬嬴は文公の寵に頼り、自分の子が後嗣になれないことに不満を抱きました。そこで重賂を仲遂に送って交わりを結び、子の倭を託してこう言いました「後日、倭が国君の位を得ることができたら、魯国を子(あなた)と共に治めましょう。」
仲遂は子を託された事を感謝し、公子・倭を擁立するためにこう考えました「叔仲彭生は世子・悪の傅だから共謀するはずがない。しかし叔孫得臣は賄賂を貪っているから、利によって動かすことができる。」
仲遂はしばしば敬嬴から下賜された物を得臣に分け与えてこう言いました「これは嬴氏夫人が子に贈るように私に命じたのだ。」
また、公子・倭にも頻繁に得臣の門を訪問させました。公子・倭が謙恭な態度で教えを請うたため、得臣の心も公子・倭に傾いていきます。
 
周匡王四年、魯文公十八年の春、文公が死に、世子・悪が喪を主宰して即位しました。
各国が使者を送って弔問します。
斉でも恵公・元が大位を継いだところでした。恵公は商人(懿公)の暴政を改めたいと思っていたため、魯に使者を送って文公の葬礼に参加させました。
仲遂が叔孫得臣に言いました「斉と魯は代々の友好があり、桓(斉)・僖(魯)二公の関係は兄弟のようだった。しかし孝公(斉)の時に怨みを結び、それは商人の代にも及んで仇敵となってしまった。今、公子・元が新たに即位したが、我が国はまだ祝賀していない。それなのに相手が先に人を送って葬礼に参加させた。これは斉に修好の美意があるからだ。謝辞を述べに行かなければならない。この機に乗じて斉と結び、公子・倭の援けにしよう。」
叔孫得臣が言いました「子が行くのなら、私も同行しよう。」
こうして二人は斉に向かいました。
 
二人は斉で何を話し、どういう結果が生まれるのか、続きは次回です。