第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(二)

*今回は『東周列国志』第五十回その二です。
 
周匡王五年は魯宣公元年にあたります。
正旦(元旦)、朝賀が終わると仲遂が上奏しました「主公には内主(正妻)がいないので、臣がかつて斉侯と婚媾(結婚)の約束をしました。事を滞らせてはなりません。」
宣公が問いました「誰か寡人のために斉に行く者はいないか?」
仲遂が言いました「約束は臣がしました。臣が斉に行くことを希望します。」
こうして仲遂が斉に入り、婚姻を求めて幣礼を納めました。
二月、仲遂が夫人・姜氏と共に魯に帰ります。
仲遂が宣公に密奏しました「斉は甥舅(岳父と婿の関係)になりましたが、将来の好悪は測り知れません。また、国に大故(国君の死)があったら必ず会盟に参加しなければなりません。そこで始めて諸侯に認められるのです。臣は以前、斉侯と歃血によって盟を結び、毎年、朝聘を欠かさないことを約束しました。斉の力を借りて主公の地位を安定させるためです。主公は重賂を惜しむことなく、斉に会を請うべきです。もし斉が賂を受け入れて会に同意したら、斉に対して恭謹な態度で仕えましょう。そうすれば両国は共に親しみ、唇歯の関係を固め、主公の位も泰山のように安定できます。」
宣公は納得し、婚姻の謝礼を述べるという名目で季孫行父を斉に送りました。宣公が斉恵公に送った書にはこう書かれています「寡君は貴君の霊寵のおかげで宗廟を守ることになりました。しかし、諸侯に列することができず、貴君の羞となることを恐れています。貴君がもし寡君を恵顧し、会好(会見。会盟)の機会を与えるなら、ささやかですが晋文公が先君に与えた済西の田を上国に譲りたいと思います。どうか受け入れてください。」
喜んだ斉恵公は魯君と夏五月に平州の地で会見することを約束しました。
 
その日、魯宣公が先に到着しました。斉侯も到着すると、甥舅の情を述べてから、国君として互いに礼を行います。仲遂が済西の土田の籍を献上し、斉侯は辞退することなく受け取りました。
会が終わり、宣公は斉侯に別れを告げて帰国しました。
仲遂が言いました「これで今日から私も枕を高くして寝ることができる。」
この後、魯は斉に対して朝見や聘問を繰り返し、君臣が毎日のように斉を訪れました。斉の命令には必ず従い、斉の役には必ず協力するようになります。
斉恵公は晩年に至って魯侯の従順な姿勢に感謝し、済西の田を返還しました。
 
 
話は楚に移ります。
楚荘王・旅は即位してから三年の間、号令を出すことなく、日々田猟(狩猟)に耽りました。宮中にいる時は日夜、婦人と酒を飲んで楽しみます。朝門には「敢えて諫言する者は死刑に処す(有敢諫者死無赦)」という標札を掲げました。
大夫・申無畏が謁見した時、荘王は右に鄭姫を抱え、左に蔡女を抱え、鐘鼓の間に座っていました。
荘王が問いました「大夫が来たのは酒を飲むためか?音楽を聞くためか?それとも何か言いたいことがあるからか?」
申無畏が言いました「臣は酒を飲みたいのでも音楽を聞きたいのでもありません。臣が郊外に行った時、ある者が隠語(謎かけ)を臣に教えました。しかし臣には分からなかったので、大王に聞いてもらおうと思って来たのです。」
荘王が言いました「大夫にも分からなかった隠語とはどのようなものだ?寡人に話してみよ。」
申無畏が言いました「一羽の大鳥がいます。身体は五色で彩られ、楚の高阜(丘)に止まって三年になります。その大鳥は飛ぶこともなく、鳴くこともありません。この鳥とは何の鳥でしょうか?」
荘王は自分を風刺していると気づき、笑って言いました「寡人は知っているぞ。それは普通の鳥ではない。三年も飛ぶことがないが、一度飛んだら天を衝くだろう。三年も鳴くことがないが、一度鳴いたらきっと人々を驚かせるだろう。子(汝)は待っておれ。」
申無畏は再拝して退出しました。
 
数日後、荘王の淫楽が変わらないため、大夫・蘇従が荘王に会いに行きました。
蘇従が大哭を始めたため、荘王が問いました「蘇子はなぜそのようにひどく哀しんでいるのだ?」
蘇従が言いました「臣は自分の身が死んで楚国が亡びようとしていることを哭すのです。」
荘王が問いました「子はなぜ死ぬのだ?楚国はなぜ亡ぶのだ?」
蘇従が言いました「臣は王に諫言を進めに来ましたが、王はそれを聞かず、臣を殺すでしょう。臣が死んだら楚国には今後諫言する者がいなくなり、王はますます好き勝手に振る舞うようになります。その結果、楚の政治は堕落し、楚は滅亡を待つことになります。」
荘王が顔色を変えて言いました「寡人は『敢えて諫言する者は死刑に処す』と命じた。諫言すれば死ぬと知りながら寡人に逆らうとは、愚というものではないか!」
蘇従が言いました「臣の愚は王の甚だしい愚に及びません。」
荘王がますます怒って言いました「寡人の愚が甚だしいとはどういうことだ!」
蘇従が言いました「大王は万乗の尊位におり、千里の税を享受し、士馬は精強で諸侯が畏服し、四時(四季)の貢献も宮庭に絶えることがありません。これは万世の利です。しかし今は酒色に耽り、音楽に溺れ、朝政を顧みず、賢才と親しまず、外では大国が攻め、内では小国が背いています。目前には歓楽がありますが、日後には憂患が待っているのです。一時の歓楽によって万世の利を棄てるのですから、その愚は甚だしいものです。臣の愚は自分の身を殺すだけです。しかも大王が臣を殺したら、後世は臣を忠臣と呼んで龍逢や比干と肩を並べさせるでしょう。その結果、臣は愚ではなくなります。しかし大王の愚は、匹夫(庶民)の地位を求めても得られなくなるほどの愚です。臣の言はこれで終わりです。大王の佩剣をお貸しください。臣は大王の前で頸を斬り、大王の令に信を持たせましょう!」
荘王はすぐに立ち上がってこう言いました「大夫よ、待て。大夫の言は忠言である。寡人は子に従おう。」
荘王は鐘鼓の懸(置き台)を撤去し、鄭姫と蔡女を遠ざけ、樊姫を夫人に立てて宮政を任せました。荘王が言いました「寡人は狩猟を好んだが、樊姫はわしを諫めて従わず、鳥獣の肉も食べなくなった。わしの賢内助(賢妻)である。」
朝廷では蔿賈、潘、屈蕩に政治を委ねて令尹・鬥越椒の権力を分担させました。早朝晏罷(朝早くから朝廷を開き、遅い時間にやっと解散すこと)し、次々に号令を発布します。
鄭の公子・帰生に宋を討たせて大棘で戦い、宋の右師・華元を捕えました。
蔿賈に鄭を援けさせて晋師と北林で戦い、晋将・解揚を捕えました。解揚は年を越えて釈放されます。
この後、楚は日々強盛となり、荘王は中原の覇権を争う志を大きくしました。
 
 
晋の上卿・趙盾は楚が日に日に強横になるのを見て、秦と結んで楚を防ぐことを考えました。
そこで趙穿が進言しました「秦には崇という属国があります。秦に附いて最も久しいので、臣が偏師(一隊)を得て崇国を攻めれば、秦は必ず援けにきます。それを利用して講和すれば、我々が上風を占めることができます(上に立つことができます)。」
趙盾はこれに同意し、霊公に報告して車三百乗を動員しました。趙穿が将になって崇を攻撃します。
趙朔が趙盾に言いました「秦と晋の仇は深いのに、今回またその属国を侵したら、秦はますます怒るでしょう。我が国と和を議するはずがありません。」
しかし趙盾はこう言いました「私は既に出兵に同意してしまった。」
趙朔はこの事を韓厥に話しました。すると韓厥はわずかに冷笑し、趙朔の耳元でこう言いました「尊公(趙盾)の今回の挙は穿の趙宗(趙氏の宗主)としての地位を固めたいからでしょう。秦と和すためではありません。」
趙朔は黙って退出しました。
秦は晋が崇を侵したと聞いても救援の兵を送らず、別に兵を起こして晋の焦を包囲しました。趙穿が兵を還して焦を援けに行ったため、秦軍は撤退します。
こうして趙穿も兵政に関与するようになりました。暫くして臾駢が病死したため、趙穿がこれに代わりました。
 
 
 
*『東周列国志』第五十回その三に続きます。