第五十回 東門遂が子倭を立て、趙宣子が強諫する(三)

*今回は『東周列国志』第五十回その三です。
 
当時、晋霊公は既に成長していましたが、荒淫暴虐で、民に重税を課し、広く土木を興し(宮殿等の建築を行い)、遊戯を好んで政治を疎かにしました。
霊公には寵任する大夫がいました。名を屠岸賈といい、屠撃の子、屠岸夷の孫にあたります。
屠岸賈は阿諛によって霊公の歓心を得たため、進言することは全て聞き入れられました。
霊公は屠岸賈に命じて絳州城内に花園を造らせました。奇花異草を集めて園内で育てます。多数ある花の中でも桃花が最も盛んで、春になって花開くと錦繍のように輝きました。そこから桃園と命名されます。園内には三層の高台を築き、その上に一座の楼を建てました。絳霄楼といいます。棟梁には絵や彫刻がほどこされ、丹楹刻桷(「丹楹」は赤く塗った柱。「刻桷」は彫刻がほどこされた横木。豪華な建物を形容する言葉です)で飾られ、四週は朱欄曲檻(複雑な形をした赤い欄干)が囲み、欄干に寄り添って四方を眺めれば目前に市井が広がります。霊公はその光景が気に入ったため、頻繁に楼に登って遊ぶようになりました。時には弓弾で鳥を撃ち、屠岸賈と酒を賭けて勝負をします。
 
ある日、優人を招いて台上で百戯を披露させました。園外にも百姓(民)が集まって見物します。すると霊公が屠岸賈に言いました「鳥を撃つのは人を撃つのに及ばないだろう。寡人と卿とで試してみようではないか。目に中てたら勝ちだ。肩臂(肩や腕)に中てたら罰(酒)を免じ、完全に外したら大斗(酒器)で罰することにしよう。」
霊公は弾を右に放ち、屠岸賈は左に放ちました。台上で「弾を見よ!」と叫ぶと、弓が月のように引かれ、弾が流星のように飛びます。人ごみの中で一人が耳の半分を失い、一人が左胛(肩)に命中しました。
百性は恐れ驚いて逃げ奔り、ひしめき合いながら「また弾が来るぞ!」と叫びました。逃げ回る群衆を見た霊公は激怒し、左右の近臣で弓弾ができる者に一斉に弾を放つように命じます。雨のように弾丸が降りそそぎ、百姓は逃げ隠れする暇もなく、頭を撃たれ、額を負傷し、眼球が飛び出し、門牙が落とされ、泣き叫ぶ声が響きました。爹(父)を呼ぶ者も娘(母)を呼ぶ者もいます。頭を抱えて鼠のように奔り、人にぶつかって転倒する者もいます。慌てふためく人々の様子は耳も目も覆いたくなるほど悲惨なものでしたが、台上の霊公は弓を投げ捨てると大笑して屠岸賈に言いました「寡人は台に登って何回も遊玩してきたが、今日ほど楽しかったことはない。」
この後、百姓は台上に人がいるのを見ると桃園の前を歩くのを止めました。市中ではこういう諺が流行るようになります「台を見てはならない。弾が飛んでくる。門を出た時は楽しく笑っていたのに、家に帰る時には悲しんで泣くことになる(莫看台,飛丸来。出門笑且忻,帰家哭且哀)。」
 
この頃、周人が猛犬を献上しました。その名を霊獒といい、身長は三尺もあります。色は紅炭(赤黒い)で、人意を理解しました。霊公の近臣に過ちがあると、霊公は獒に近臣を襲わせます。獒は近臣の頭に噛みつき、死ぬまで離れませんでした。
一人の奴(奴隷)がこの犬を専門に飼育し、毎日羊肉数斤を餌として与えました。犬はこの奴の指示をよく聞くようになります。この者は獒奴と呼ばれ、中大夫の俸を得ることになりました。
霊公は外朝を廃し、諸大夫を内寝に招いて政治を行いました。朝会でも出遊でも獒奴が細い鎖で犬を牽いて霊公の左右に従っているため、見た者は皆慄然としました。
当時、列国は晋から離心し、万民が怨嗟の声を上げていました。趙盾等が頻繁に諫言し、賢人を礼遇して佞臣を遠ざけ、政事に励んで民と親しむように勧めましたが、霊公は耳に詰め物でもしているかのように全く聞く耳を持たず、逆に趙盾等を憎むようになりました。
 
ある日、朝会が終わって諸大夫が解散してから、趙盾と士会だけが寝門に残って国事を議論しました。互いに現状を怨んで嘆きます。そこに二人の内侍が一つの竹籠を担いで閨(小門)から出て来ました。
趙盾が言いました「宮中に竹籠が出入りするのはおかしい。何か理由があるはずだ。」
趙盾は遠くから内侍を呼びとめます。しかし内侍は頭を下げて通りすぎようとしました。
趙盾が問いました「竹籠の中にあるのは何だ?」
内侍が言いました「あなたは相国です。見たいのならご自由にしてください。私からは言えません。」
趙盾はますます不思議に思い、士会と一緒に見に行きました。すると一本の人の手がわずかに籠から外に出ています。
二人の大夫が竹籠を持って詳しく調べると、中には分解された死体が入っていました。
驚いた趙盾が何があったか聞いても内侍は話そうとしません。趙盾が言いました「汝が話したくないのなら、先に汝を斬るだけだ!」
内侍はやっとこう言いました「この者は宰夫(料理人)です。主公が熊蹯(熊の掌。調理に時間がかかります)を煮るように命じましたが、速く酒のつまみにしたいと思ったため、何回も催促しました。宰夫は仕方なく献上しました。しかし主公が一口食べてみるとまだしっかり火が通っていませんでした。主公は怒って銅斗で殴り殺し、数段に斬り刻んでから、野外に棄てて来るように命じたのです。主公は期限を設けて戻るように命じました。速く帰って報告しなければ私達も罪を得ることになります。」
趙盾は内侍に籠を運び出させてから士会にこう言いました「主上の無道は人命を草菅(野草)のように視ている。国家の危亡は旦夕(朝夕。目前)に迫っている。私と子()で共に苦諫しようではないか。」
士会が言いました「二人で諫言してもしも従わなかったら、後に続く者がいなくなってしまいます。まず会()に入諫させてください。もし主公が聞かないようなら、子が続いてください。」
この時、霊公はまだ中堂にいました。士会が中堂に入ると、霊公は諫言に来たと気付き、迎え入れてこう言いました「大夫よ、何も言うな。寡人は自分の過ちを既に知った。今から改めよう。」
士会が稽首して言いました「人は誰でも過ちを犯します。しかし過ちを犯しても改めることができるのなら社稷の福となります。臣等にとってこれ以上の欣幸(喜び)はありません。」
言い終わると退出して趙盾に話しました。
趙盾が言いました「主公が過ちを悔いたのなら、旦晩(遅かれ早かれ)行動を変えるだろう。」
 
ところが翌日、霊公は朝会を開かず、車を手配して桃園に遊びに行きました。
趙盾が言いました「主公のこのような挙動は過ちを改めた人の姿か?今日は私が言わなければならない。」
趙盾は先に桃園の門外に行き、霊公が到着すると進み出て謁見しました。
霊公がいぶかしがって言いました「寡人は卿を召していないが、卿はなぜここにいるのだ?」
趙盾が稽首再拝して言いました「微臣は死罪に値しますが、上奏しなければならないことがあるのでここに来ました。主公の寬容な採納を願います。臣は『道がある国君は人を楽しませることを楽しみとし、道がない国君は自分の身を楽しませることを楽しみとする(有道之君,以楽楽人,無道之君,以楽楽身)』と聞いています。一身の楽しみというのは、宮室の嬖倖(寵妾や寵臣)や田猟遊楽といったものに過ぎず、今まで殺人を楽しみとした者はいませんでした。ところが今の主公は、犬を放って人を噛ませ、弾を撃って人を傷つけ、小さな過ちを理由に膳夫を斬り刻みました。これらの事は有道の国君が行うことではありませんが、主公は行っています。人命とは至重であるのに、このように濫殺したら、内では百姓が叛し、外では諸侯が離れ、桀・紂の滅亡の禍が君身に及ぶことになります。今日、臣が言わなかったら、他に言う者はいないでしょう。臣は坐して君国が危亡に臨む姿を見るのに忍びないので、敢えて隠さず直言いたします。主公は輦(車)を返して入朝し、以前の非を改め、荒遊(遊び耽ること)、嗜殺(殺人を好むこと)を止めてください。晋国の危難を再び安定に戻すことができるのなら、臣は死んでも恨みません。」
霊公は恥じ入って袖で顔を隠し、こう言いました「卿はとりあえず帰れ。今日だけは寡人の遊玩を許してくれ。今度から卿の言に従おう。」
しかし趙盾は自分の身体で園門を塞ぎ、霊公を中に入れませんでした。屠岸賈が横から言いました「相国の諫言は好意によるものですが、車駕は既にここに到着しました。何もせずに帰ったら人に笑われるでしょう。相国は方便を図ってください。もし政治の事があるのなら、主公が明日の早朝(朝開かれる朝廷の会)に参加してから、朝堂で議しては如何ですか?」
霊公が続けて言いました「明日の早朝には必ず卿を召す。」
趙盾はやむなく門の前から離れ、霊公を園内に入れました。しかし屠岸賈を凝視して「亡国敗家は全てこの輩から始まった」と言い、恨みを収めませんでした。
 
 
 
*『東周列国志』第五十回その四に続きます。