第五十六回 蕭夫人が客を笑い、逢丑父が君を逃がす(中編)

*今回は『東周列国志』第五十六回中編です。
 
当時、魯では卿の東門仲遂も叔孫得臣も死んでおり、季孫行父が正卿として政治を行っていました。斉で笑い者になって帰国してから、怨みに報いることを誓います。
しかし郤克が晋侯に斉討伐を上奏したところ、太傅・士会の意見と合わなかったため晋侯に拒否されてしまいました。それを知った季孫行父は心中に焦りを覚えます。そこで宣公に上奏して楚から兵を借りる許可を求めました。
ところが楚でも名君と称される荘王・旅が病死し、わずか十歳の世子・審が即位したばかりだったため、喪中の楚は出兵を辞退しました。楚の新王は共王といいます。
季孫行父が憤懣を抱いている時、晋国から来た者がこう報告しました「郤克が日夜、斉討伐の利を説いており、斉を討たなければ伯(覇権)を図ることはできないと言っています。晋侯はこれに惑わされ、士会は郤克が意志を変えることがないと判断したので、告老(引退)して政権を譲りました。今、郤克が中軍元帥として晋国の事を主持しています。数日もせずに師を興して斉に報いるはずです。」
季孫行父は大喜びして東門仲遂の子・公孫帰父に晋を聘問させました。一つは郤克の礼(郤克の魯聘問)に応えるため、二つは斉討伐の日を決めるためです。
 
魯宣公は東門仲遂のおかげで国を得ることができたため、その子・帰父を寵任し、群臣とは異なる待遇を与えていました。当時の魯は孟孫、叔孫、季孫三家(三桓)の子孫が繁栄しており、宣公は自分の子孫が三家に凌駕されることになると思って憂いていました。そこで帰父が晋に向かう日になると、その手を握って秘かに言いました「三桓は日々盛んになり、公室は日々衰弱している。これは子(汝)も知っていることだ。今回、公孫が晋に行ったら、秘かに晋の君臣に実情を訴えてくれ。もし彼等の兵力を借りてわしのために三家を駆逐できたら、毎年、幣帛を納めて晋の徳に報い、永遠に貳志(二心)を抱くことはない。卿はよく注意せよ。この事を漏らしてはならない。」
帰父は命を受けて重賂を晋に贈る準備をしました。
 
晋の屠岸賈は諛佞によって再び景公の寵を受け、司寇の官に就いていました。そこで公孫帰父は屠岸賈に賄賂を贈って三家を駆逐する相談をします。
屠岸賈は趙氏の罪を得たため、欒氏・郤氏の二族と結ぶと決めて親密に往来していました。帰父の言を聴いた屠岸賈は早速、欒書に伝えます。欒書はこう言いました「元帥(郤克)は季孫氏と同じ仇を持っているから、この謀に協力するとは限らない。私が試してみよう。」
欒書は機会を探して郤克に話しました。
すると郤克は「その者は魯国を乱そうとしているのだ。聴く必要はない」と言って一通の密書を書き、夜を通して魯に送って季孫行父に情報を伝えました。
季孫行父が激怒して言いました「当年、公子・悪と公子・視を弑殺したのは全て東門遂が主謀したことだ。わしは国家の安靖を願ったからその事を忍んで彼を庇護した。今、その子がわしを駆逐しようとしているが、これは虎を養って患を残すのと同じだ。」
季孫行父は郤克の密書を叔孫僑如に見せました。叔孫僑如が言いました「主公が朝廷に現れなくなって既に一月が経ちました。疾病を理由としていますが託詞(口実)でしょう。我々は共に疾を問う(見舞いに行く)という理由で主公を訪問し、榻前(床の前)で謝罪して主公の様子を見ましょう。」
季孫行父は仲孫蔑にも人を送って誘いました。しかし仲孫蔑はこう言いました「君臣の間に是非を問いただすという道理はありません(臣下が国君に是非を問い質してはなりません)。蔑(私)は行きません。」
季孫行父は司寇・臧孫許を同行させ、三人で宮門を訪れて宣公の病状を問いました。しかし宣公が接見を拒否したため、問候(挨拶の言葉)だけを残して引き返しました。
 
翌日、宣公が死んでしまいました。周定王十六年のことです。
季孫行父等は世子・黒肱を擁立しました。年は十三歳で、成公といいます。成公はまだ幼いため、全ての事が季氏によって決定されました。
季孫行父が諸大夫を朝堂に集めて言いました「君が幼く国が弱いので、政刑を大いに明らかにしなければならない。当初、嫡子を殺して庶子を立て、斉に媚びて晋との友好を失ったのは、全て東門遂の責任である。仲遂には誤国の大罪があるので、追治(後になって刑を行うこと。子孫を裁くこと)するべきだ。」
諸大夫はただ「はい、はい(唯唯)」と言って命に従いました。
季孫行父は司寇・臧孫許に命じて東門氏の族を駆逐させます。
公孫帰父は晋から魯に帰るところでしたが、国境に着く前に宣公の死と季氏が先人の罪を裁いたことを知り、斉国に出奔しました。族人もこれに従います。
後の儒者は、仲遂が弑逆して宣公を立て、自分自身には禍が及ばなかったものの子孫が放逐されたこの事件に対して、「悪を成した者が益を得ることはない」と評価しました。
 
 
魯成公が即位して二年目、斉頃公は魯と晋が共に斉を討伐しようとしていると知り、一方では危急の際に楚の援軍を求めるため、友好を結ぶ使者を楚に送り、一方では先手を打って車徒を整え、自ら兵を率いて魯を攻撃しました。斉軍は平陰から進んで龍邑に至ります。
斉侯の嬖人(寵臣)・盧蒲就魁が軽率に進軍したため、北門の軍士に捕えられました。斉頃公は部下を車に乗せて龍邑城壁を守る兵にこう伝えさせました「盧蒲将軍を返せばすぐに退師(撤退)する。」
しかし龍人はこれを信じず、盧蒲就魁を殺して城楼の上で死体を磔(死体を分断する酷刑)にしました。
激怒した頃公は三軍に命じて四面から襲わせ、三日間、夜も休まず攻撃しました。城が落ちると頃公は城北の一角で軍民問わず皆殺しにし、盧蒲就魁の恨みを晴らしました。
 
斉軍が更に深く進攻しようとした時、哨馬が衛の状況を報告しました。衛国の大将・孫良夫が兵を率いて斉境に入っています。
斉頃公が言いました「衛が我が国の虛を窺って我が界(国境)を侵しに来た。戈を返して迎え撃つべきだ。」
頃公は一部の兵を龍邑に留めて守らせ、自ら軍を率いて南に戻りました。
 
斉軍が新築界口に至った時、衛の前隊副将・石稷も到着しました。両軍がそれぞれ営塁を築きます。
石稷が中軍を訪ねて孫良夫に言いました「我々が君命を受けて斉を侵したのは、その虛に乗じたからです。しかし今、斉師は既に戻っており、その君が自ら指揮しています。敵を軽んじてはなりません。兵を退いて帰路を譲り、晋・魯を待ってから力を合わせて戦うのが万全の策です。」
孫良夫が言いました「元々斉君による一笑の仇に報いるために来たのだ。今、仇人が目前にいるのに、なぜ避けなければならない。」
孫良夫は石稷の諫言を聴かず、その夜、中軍を率いて斉寨を襲いました。
しかし斉人は衛軍の襲来を心配して備えを設けていました。
孫良夫が営門に殺到しましたが、営内には誰もいません。車を返して戻ろうとすると、左から国佐、右から高固が現れ、二人の大将に包囲されました。更に斉侯が自ら大軍を率いて現れ、「跛夫!頭顱(頭蓋骨)を置いていけ!」と叫びます。
孫良夫は命がけで対抗しましたが、敵うはずがありません。まさに危急に陥った時、寧相と向禽が率いる二隊の車馬が迎えに来ました。二将は孫良夫を助け出して北に奔ります。衛軍は大敗しました。
斉侯は二将(国佐と高固)を招いてから衛軍を追撃します。
 
衛将・石稷の兵も到着し、孫良夫を迎え入れて「元帥は前に進むことだけを考えてください。私が後ろを断ちます」と言いました。
孫良夫は軍を率いて急行します。しかし一里も進まずに前方で砂塵が舞い上がり、雷のように車の音が響きました。
孫良夫が嘆いて言いました「斉には更に伏兵があった。わしの命もここまでだ。」
ところが、前方の車馬が孫良夫に接近すると、一人の将が車上で鞠躬(お辞儀)して言いました「小将は元帥が兵を交えたことを知らなかったため、救援が遅くなりました。伏して赦しを請います。」
孫良夫が問いました「子(汝)は誰だ?」
将が言いました「某(私)は新築を守る大夫で、仲叔於奚といいます。本境の衆を総動員し、百余乗を率いてここに来ました。一戦するには充分足りるので、元帥が憂いる必要はありません。」
孫良夫はやっと安心し、仲叔於奚に言いました「石将軍が後ろにいる。子は助けに行け。」
仲叔於奚は一声を上げて応じると、車に指示して去っていきました。
 
斉兵は石稷が追撃を断つために後ろに残っているのを見て、攻撃を開始しようとしました。その時、北路の空が車塵で覆われました。探りを入れて仲叔於奚が兵を率いて迫っていることを知ります。
斉頃公は自軍が衛地にいるので、兵力が続かないことを心配して金(鉦)を鳴らしました。斉軍は衛の輜重を奪って引き上げます。
石稷と仲叔於奚も斉軍を追撃しませんでした。
後に衛軍が晋と共に斉を破って帰国してから、衛侯は仲叔於奚が孫良夫を援けた功績を嘉して邑を与えようとしました。しかし仲叔於奚は辞退してこう言いました「邑は受け取りたくありません。『曲縣』と『繁纓』を下賜していただき、縉紳(士大夫。官員)の中で寵(栄誉)を輝かせることができればそれで充分です。」
『周礼』によると、天子の楽(音楽)は四面に楽器を懸け、「宮縣」といいました。諸侯の楽は三面に楽器を懸けて南方だけ空けます。これを「曲縣」、または「軒縣」といいました。大夫は楽器を左右に懸けるだけです。「繁纓」というのは諸侯の馬に使う装飾です。「曲縣」と「繁纓」は諸侯の制度にあたりますが、仲叔於奚は自分の功績を誇ってこの二つを請いました。
衛侯は笑って許可します。
後に孔子が『春秋』を編纂してこの出来事を論じ、「名器(名号・名称と車服・器物)は貴賎を分ける物なので、妄りに与えてはならない。衛侯は褒賞の秩序を失った」と評しました。これらは後の事です。
 
 
 
*『東周列国志』第五十六回後編に続きます。