第五十六回 蕭夫人が客を笑い、逢丑父が君を逃がす(後編)

*今回は『東周列国志』第五十六回後編です。
 
孫良夫は敗軍をまとめて新築の城内に入り、数日休憩しました。諸将が帰還の指示を請います。しかし孫良夫はこう言いました「元々斉に報いるために来たのに、逆に敗れてしまった。どの面目があって我が主に会えるというのだ。晋国に師を乞い、斉君を生け捕りにしなければ、わしの胸中の気を晴らすことはできない。」
孫良夫は石稷等を新築に留め、自ら兵を借りるために晋に行きました。
ちょうどこの時、魯の司寇・臧宣叔(臧孫許)も晋に出兵を請いました。
二人は郤克を通して晋景公に謁見します。内では郤克が、外からは衛・魯が出兵を勧めたため、晋景公も従わざるを得ません。郤克は斉の強盛を心配して車八百乗を求めました。晋侯はこれを許可します。
郤克が中軍の将に、解張が御者に、鄭邱緩が車右に、士燮が上軍の将に、欒書が下軍の将に、韓厥が司馬に任命されました。周定王十八年夏六月、晋軍が絳州城を出て東路を進みます。
 
臧孫許は先に帰って晋の出兵を報告しました。季孫行父も叔孫僑如と共に軍を率いて晋軍に合流し、一緒に新築に入ります。
孫良夫は曹の公子・首とも合流を約束しました。
各軍は新築に集結してから隊伍を成して前進しました。前後三十余里にわたって車の音が絶えませんでした。
 
斉頃公はあらかじめ人を魯の国境に送って様子を窺っていたため、臧司寇が晋兵を請いに行った事を知っていました。
頃公が言いました「もしも晋師の入境を待っていたら百姓を震撼させることになる。兵を率いて境上で迎え撃つべきだ。」
頃公は車徒を大閲し、五百乗を選んで出撃しました。三日三晩で五百余里を進み、鞍地に至って陣を構えます。
前哨が報告しました「晋軍が既に靡笄山の下に駐軍しました。」
頃公は使者を送って戦いを挑みました。郤克は翌日の決戦を約束します。
 
斉の大将・高固が頃公に言いました「斉と晋は今まで兵を交えたことがないので、晋人の勇怯を知りません。臣に探らせてください。」
高固は単車を御して晋の営塁に向かい、戦いを挑みました。晋の末将が車に乗って営門を出ます。しかし高固が巨石を取って投げつけると、末将の頭に命中して車上に倒れました。御人が驚いて逃走します(車を棄てて逃げたようです)。高固は高く跳躍して晋の車上に飛び移り、足で晋囚(捕虜。倒れた末将)を強く蹴り上げ、手で轡索をつかみ、斉の営塁に駆けて帰りました。
高固は営の周りを一周して「有り余った勇を売ってやろう!」と叫びます。
斉軍の将兵は皆、歓喜の笑い声を上げました。
晋軍が高固を追撃しようとした時には既に去っていました。
高固が頃公に言いました「晋師は多勢ですが戦ができる者は少数です。畏れる必要はありません。」
 
翌日、斉頃公が自ら甲冑を着て出撃しました。邴夏が車を御し、逢丑父が車右になります。
両軍は鞍で陣を構えました。
国佐が右軍を率いて魯軍にあたり、高固が左軍を率いて衛・曹軍にあたりましたが、それぞれ対峙するだけで戦いを始めず、中軍の消息を待っています。
斉侯は自分の勇に自信があり、晋には人がいないと思っているため、錦袍繍甲を身にまとい、金輿に乗り、軍士に弓を持って控えさせ、「わしの馬足が至る所に万矢を放て」と命じると、戦鼓が響くのと同時に晋陣に直進しました。蝗のように矢が飛んで晋兵を倒していきます。
解張は手と肘に続けて二矢が刺さり、血が車輪まで流れました。しかし痛みを堪えて手綱を握り続けます。郤克も進軍の戦鼓を敲いていましたが、左脅(脇の下)に矢が刺さって負傷し、血が屨まで流れました。
戦鼓の音が鈍くなったため、解張が言いました「師(軍)の耳目は中軍の旗鼓にあり、三軍はこれによって進退を決めています。傷はまだ死に及ぶほどではありません。力を尽くして戦いに臨むべきです!」
鄭邱緩もこう言いました「張侯の言う通りです!死生は命(天命)があるのみです(生も死も天命です)!」
郤克は枹(ばち)を握りしめて戦鼓を連打し、解張も馬を駆けさせて矢の下を進みました。鄭邱緩は左手で笠を持って郤克を守り、右手で戈を揮って敵を倒します。
郤克の左右も一斉に戦鼓を敲き、鼓声が天を震わせました。
(戦鼓の勢いが衰えないため)晋兵は「本陣が既に勝利した」と言い、先を争って進撃しました。まるで連なる山々が海に崩れ落ちるような勢いで迫ったため、斉軍は支えることができず、大敗して逃走を始めました。
韓厥が郤克の傷が重いのを見て言いました「元帥は暫く休んでください。某(私)が力を尽くして賊を追います!」
言い終わると自分の兵を率いて車を駆けさせ、斉軍を追撃しました。斉軍は崩壊四散します。
 
斉頃公は華不注山に沿って走りました。
韓厥が遠くに金輿を見つけて疾駆します。
逢丑父が御者の邴夏に言いました「将軍は急いで包囲を破って救兵を求めてください。某(私)が将軍の代わりに轡を執ります。」
邴夏は車を降りて去りました。
追撃する晋兵はますます増えていきます。
頃公は華不注山の周りを逃走して三周しました。
逢丑父が頃公に言いました「事は急を要します!主公は速く錦袍繡甲を脱いで臣に着せてください。臣が主公のふりをし、主公が臣の衣を着て横で轡を執れば、晋人の目を誤らせることができます。もしも不測があっても、臣が主公の代わりに死ぬので、主公は逃れられます。」
頃公は言われた通りにしました。
 
頃公と逢丑父が入れ替わった時、華泉に迫っていました。韓厥の車が頃公の馬首に至ります。
韓厥は錦袍繡甲を見て斉侯だと判断し、馬をつなぐ縄を握ったまま再拝稽首して言いました「寡君が魯・衛の請いを辞退できなかったため、群臣を送って上国に罪を問うことになりました。臣・厥はかたじけなくも戎行に従っているので、君侯を御して敝邑に臨むことを願います(斉侯を捕虜にして晋に連れて行くという意味です)。」
すると逢丑父が「喉が渇いて答えられない」と言い、瓢を斉侯に渡して「丑父よ、わしのために飲物を取って来い」と命じました。
斉侯は車を降りて華泉に行き、水を汲んで戻ってきます。しかし逢丑父は水が濁っていると言って遠くまで清水を汲みに行かせました。斉侯は山の左に沿って遁走しました。
暫く進むと斉将・鄭周父が副車を御して到着し、「邴夏は既に晋の軍中に陥りました。晋の勢いは浩大です。この路だけは兵が少ないので、主公は急いでお乗りください」と言って轡を斉侯に渡しました。斉侯は車に乗って脱出します。
 
韓厥は人を送って晋陣に「既に斉侯を得た」と伝えました。
郤克が大喜びします。
しかし韓厥が逢丑父を献上すると、郤克は「これは斉侯ではない!」と言いました。郤克は使者として斉に行ったため斉侯の顔を知っていますが、韓厥は知りません。騙されたと知った韓厥は怒って逢丑父に「汝は誰だ!」と問いました。
逢丑父が言いました「某(私)は車右の将軍・逢丑父だ。我が君のことを知りたいのなら、先ほど華泉に飲物を取りに行った者がそれだ。」
郤克も怒って言いました「軍法では『三軍を欺いた者の罪は死に値する(欺三軍者,罪応死)』と決まっている。汝は斉侯のふりをして我が軍を欺いた。活きていられると思うか。」
郤克は左右に怒鳴って「丑父を縛って斬れ!」と命じます。
すると逢丑父が大声で言いました「晋軍は我が一言を聞け!今後、国君に代わって患を受ける者はいなくなるだろう。丑父は国君を患から逃れさせ、今、戮(処刑)されることになった!」
それを聞いた郤克は縄を解かせてこう言いました「人は自分の君のために忠を尽くすものだ。わしがそれを殺したら不祥になる。」
逢丑父は後車に載せられました。
後人は華不注山を金輿山と改名しました。斉侯の金輿がここに留まったためです。
 
頃公は危機から脱して本営に帰りましたが、逢丑父に命を助けられた恩を想い、再び軽車に乗って晋軍に駆け入りました。逢丑父を探して三回往復します。
国佐と高固の二将は中軍が既に敗れたと聞いて斉侯を失うことを心配し、それぞれ軍を率いて斉侯を援けに来ました。ちょうどその時、斉侯が晋軍の中から出てきたため、驚いて言いました「主公はなぜ千乗の尊位を軽んじて自ら虎穴を探るのですか。」
頃公が言いました「逢丑父が寡人に代わって敵中に落ちた。その生死がわからないから寡人は不安で座ってもいられない。だから探しに行ったのだ。」
言い終わる前に哨馬が報告しました「晋兵が五路に分かれて殺到して来ました!」
国佐が言いました「軍気は既に挫けています。主公は久しくここに留まるべきではありません。今は国に帰って守りを堅め、楚の援軍が来るのを待ちましょう。」
斉侯は同意して大軍を引き上げさせ、臨淄に戻りました。
郤克は晋の大軍と魯、衛、曹三国の軍を率いて長駆し、関隘を通るたびに火を放って破壊しました。連合軍は斉を滅ぼすことを目標にして国都に至ります。
 
斉国はどのようにして敵に応じるのか、続きは次回です。