戦国時代91 東周赧王(二十九) 楚都・郢陥落 前278~274年

今回は東周赧王三十七年から四十一年です。
 
赧王三十七年
278年 癸未
 
[] 秦の大良造白起が楚を攻撃して都の郢を攻略しました。夷陵(楚王の陵墓)が焼かれます。
楚頃襄王の軍は四散し、再戦できる状態ではなかったため、国都の東に敗走して陳城(旧陳国)を守りました。この後、陳が楚都になります。
秦は郢を南郡にしました。
 
以上は『史記秦本紀』『楚世家』『資治通鑑』の記述です。
『六国年表』には「白起が楚を撃って郢を攻略し、更に東の竟陵に至って南郡にした」とあります。
 
史記秦本紀』と『資治通鑑』はこの年に「秦が白起を武安君に封じた」としていますが。『六国年表』は翌年に書いています。
資治通鑑』胡三省注によると、武安というのは「軍士を養って戦えば必ず勝ち、百姓を安集(安定)させることができる」という意味です。

秦による楚遠征の地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] この頃、楚の屈原が国を憂いて自殺したといわれています。
屈原は中国古代を代表する詩人で、『離騒』『天問』等の詩が残されています。
史記』に『屈原列伝(巻八十四)』があるので、別の場所で抜粋して紹介します。
[] 『史記秦本紀』によると、周君(恐らく西周武公)が秦に来ました。
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦王が楚王と襄陵で会しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が漳水の流れを武平の西に変えました。
 
 
 
翌年は東周赧王三十八年です。
 
赧王三十八年
277年 甲申
 
[] 秦の武安君白起が楚の巫と黔中を平定し、黔中郡を置きました。
これは『資治通鑑』の記述です。『史記秦本紀』は「蜀守(張若)が楚を攻めて巫郡と江南を占領し、黔中郡を置いた」と書いています。
また、黔中攻略に関しては東周赧王三十五年(前280年)にも記述がありました。
 
[] 魏昭王が在位十九年で死に、子の圉が立ちました。これを安釐王といいます。
 
[] 『史記趙世家』によると、この年、大疫(疫病)が趙を襲いました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が公子丹を太子に立てました。
 
 
 
翌年は東周赧王三十九年です。
 
赧王三十九年
276年 乙酉
 
[] 秦の武安君白起が魏を攻めて二城を攻略しました。
 
[] 楚王が東地(楚の東境。淮水、汝水一帯)の兵を集めて十余万を得ました。
その兵を西に向けて江南(黔中郡。前年参照)の十五邑を取り返します。
以上は『史記秦本紀』と『資治通鑑』を元にしています。『楚世家』は「江南」を「江旁(長江周辺)」としており、「秦が取った十五邑を奪還して郡とし、秦に対抗した」と書いています。
 
[] 魏安釐王が弟(昭王の少子)の無忌を信陵君に封じました。
信陵君は斉の孟嘗君、趙の平原君、楚の春申君と共に「戦国四君」「戦国四公子」とよばれています。広く人材を集め、食客を厚遇しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の楼昌が将になって魏の幾(『正義』によると一説では斉の邑。『廉頗列伝』では「斉の幾」となっています。魏と斉の国境にあったようです)を攻撃しましたが、攻略できませんでした。
十二月、廉頗が将になって幾を攻め、占領しました。
 
 
 
翌年は東周赧王四十年です。
 
赧王四十年
275年 丙戌
 
[] 秦の相国である穰侯魏冉が魏を攻めました。
資治通鑑』にはありませんが、『史記魏世家』には「秦が魏の二城を攻略した」と書かれています。
 
韓の暴鳶(または「暴」)が援軍を率いて魏に向かいました。
資治通鑑』胡三省注によると、暴姓は周の卿士に暴公という人物がおり、その子孫のようです。
 
穰侯は韓軍を大破して四万を斬首しました。暴鳶は開封に逃げ帰ります。
魏は八城(八城は『資治通鑑』の記述。『史記秦本紀』では三県)を秦に譲って講和しました。
 
しかし穰侯が再び魏を攻撃して魏将芒卯を撃退し、北宅(宅陽)に入りました。
秦軍が魏都大梁を包囲したため、魏は温を割譲して講和しました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の廉頗が将になって魏の房子を攻略し、城を築いて兵を還しました。
また安陽を攻めて占領しました。
 
 
 
翌年は東周赧王四十一年です。
 
赧王四十一年
274年 丁亥
 
[] 魏が斉と合従しました。
秦の穰侯魏冉が魏を攻めて四城を取り、四万を斬首しました。
資治通鑑目録』(年表)は四城を三県としていますが、恐らく誤りです(「三県」は前年の『史記・秦本紀』の記述です)
 
[] 『史記秦本紀』によると、秦の客卿胡傷(または「胡陽」)が魏の巻、蔡陽、長社を攻めて攻略しました。
また、魏将芒卯(または「孟卯」)を攻めて華陽で破り、十五万を斬首しました。
魏は南陽を秦に譲って講和しました。
 
『秦本紀』の注(正義)には、「当時、韓と趙が華陽で兵を集めて秦を攻撃していた」とあります。
『趙世家』には「趙が魏と共に秦を攻めたが、秦将白起が華陽で趙軍を破り、趙の一将軍を得た」とあり、『趙世家』の注(正義)には「魏、韓、趙が華陽で兵を集めて西の秦を攻めた」という解説があります。
『魏世家』を見ると、華陽の戦いがあったのは翌年としていますが、秦が戦った相手は「魏、韓、趙」です。
『六国年表』も翌年に「白起が魏の華陽軍を撃ち、芒卯を走らせ、三晋の将を得て十五万を斬首した」と書いており、『白起列伝(巻七十三)』も『六国年表』とほぼ同じ内容です。
これらを見ると、秦と戦ったのは魏韓のようです。
 
ところが、『史記韓世家』と『資治通観』は翌年に「趙と魏が韓の華陽を攻めたため、秦が韓のために出兵した」と書いています(翌年参照)。秦韓は連合していたことになります。
 
秦の将も記述が一致しません。『秦本紀』は胡傷、『趙世家』『六国年表』『白起列伝』は白起です。『魏世家』『韓世家』には秦将の名がありません。
資治通鑑』は白起と胡陽(胡傷)の二人としています(翌年参照)
 
[] 魯湣公(または「緡公」「文公」)が死に、子の頃公(または「讐」)が立ちました。
史記魯周公世家』によると湣公の在位年数は二十三年です。
『六国年表』は湣公の死を翌年(東周赧王四十二年273年)の事としています。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙の将燕周が斉の昌城と高唐を攻めて攻略しました。
 
 
 
次回に続きます。