戦国時代 田単

田単が斉の相になりました。
資治通鑑』が田単の故事を書いているのでここで紹介します。元の話は『戦国策・斉策六』に見られます。
 
ある日、田単が淄水を渡った時、一人の老人に出会いました。老人は淄水を渡ったばかりで、寒さに震えて動くこともできません。田単は老人を憐れみ、自分の裘(皮衣)を脱いで老人に着せました。
それを知った斉襄王は田単を憎んでこう言いました「田単が人に施しを行っているのは、わしの国を奪おうとしているからだ。速く手を打たなければ、後に変事を招くことになる。」
言い終わった襄王が左右を確認したところ、誰もいませんでしたが、殿岩(国君が休憩する場所)の下に貫珠の者(珠玉を細工する者。または真珠を採集する者)がいるのを見つけました。
襄王が貫珠の者を招いて問いました「汝はわしの言を聞いたか?」
貫珠の者が「聞きました」と答えたため、襄王が「汝はどうするべきだと思う?」と問いました。
貫珠の者はこう言いました「王は彼の善を自分の善とするべきです。王が単(田単)の善を表彰して『寡人が民の飢餓を憂いたので、単が民を収養して食事を与えた。寡人が民の寒冷を憂いたので、単が裘を解いて民に着せた。寡人は百姓の労を憂いており、単もまたそれを憂いている。彼は寡人の意に則っている』と発表し、単に善行がある度に王が嘉すれば、単の善行は王の善行になります。」
王は納得して「善し」と言い、田単に牛や酒を下賜しました。
数日後、貫珠の者が王に言いました「王は朝会の日に田単を招き、庭で揖礼を行ってから自らの口で労うべきです。その後、百姓の中で飢寒の者を集めて收穀(収養)する命令を出してください。」
襄王は貫珠の者が進言したとおりにし、群臣の前で田単を労ってから、人を閭里に送って飢寒の民を探させました。
それを聞いた大夫は互いに「田単が人を愛すのは、王の教えだったのか」と噂し合いました。
 
田単が貂勃を襄王に推挙しました。
斉王には九人の幸臣(寵臣)がおり、九人とも安平君田単を陥れようとしていたため、襄王にこう言いました「燕が斉を討伐した時、楚王が将軍(淖歯?)に一万人を率いて斉を助けさせました。今、斉国は既に定まり、社稷も安んじています。使者を送って楚王に感謝の意を伝えるべきです。」
斉王が「左右(近臣)で誰がふさわしいか?」と問うと、九人は声をそろえて言いました「貂勃がふさわしいでしょう。」
こうして貂勃が使者として楚に行くことになりました。
楚王は貂勃を受け入れて礼遇し、数カ月にわたって引き留めました。
 
すると九人がまた斉王に言いました「一人の身で万乗(大国)に引き留められているのは、彼が権勢に頼っているからではありませんか(貂勃は田単に重んじられているから、楚王も引き留めて礼遇しているのでしょう)。そもそも、安平君と王の関係は、君臣でありながら上下の違いがありません。彼の志は不善(謀反)を欲しており、内は百姓を慰撫し、外は戎翟を懐柔し、礼をもって天下の賢士を遇しています。彼の志が事を成そうとしているのは間違いありません。王はよく考えるべきです。」
 
後日、斉王が「相単を呼んで来い」と命じました(「単」と呼び捨てにするのは尊重していないことを表します。下述します)
斉王の態度を見て恐れた田単は、冠を脱ぎ、徒跣肉袒(靴を履かず上半身を裸にすること。謝罪の意思を示します)して王の前に進みました。退席する時には斉王に死罪を請います。
五日後、斉王が言いました「子()が寡人に対して罪を犯したことはない。子はただ子の臣礼を行え。わしはわしの王礼を行うだけだ。」
 
貂勃が楚から帰ると、斉王が酒宴を開きました。
酒がまわった時、斉王が言いました「相単を呼べ。」
すると貂勃は席を離れて稽首し、こう問いました「上においては、王と周文王とではどちらが優れていますか?」
王が答えました「わしは及ばない。」
貂勃が言いました「その通りです。臣も王が及ばないことを知っています。それでは、下においては王と斉桓公のどちらが優れていますか?」
王はやはり「わしは及ばない」と答えました。
貂勃が言いました「その通りです。臣も王が及ばないことを知っています。しかし周文王は呂尚を得て太公とし、斉桓公は管夷吾(管中)を得て仲父としました。今、王は安平君を『単』と呼び捨てにしましたが、これは亡国の言ではありませんか。天地が開闢して民人が生活を始めてから、人臣として功を立てた者の中で安平君に勝る者はいません。かつて王が王の社稷を守ることができなかったため、燕人が師を興して斉を襲い、王は城陽の山中に逃走しました(襄王は湣王に従って莒に奔りました。莒は城陽にあります)。安平君は人心が安定していない即墨で三里の城と五里の郭(外城)を拠点とし、敝卒(疲弊した兵)七千人を率いて司馬(燕の騎劫)を捕え、千里の斉領を取り戻しました。これは安平君の功績です。もしあの時、城陽(斉王)を棄てて自ら王を称えたとしても、天下で反対する者はいなかったでしょう。しかし彼は道(道理)を計り、義に帰したので、そうしませんでした。だから棧道木閣(山谷等に木を組んで作った道)を築いて王と后を城陽の山中で迎え、王は国に帰り、百姓に臨むことができたのです(原文「子臨百姓」。「子」は恐らく誤字)。今は国が定まり、民も安んじました。ところが王は『単』と呼び捨てにしています。これは嬰児でも間違いだとわかることです。王はすぐに九子を殺して安平君に謝罪するべきです。そうしなければ、国の危機となるでしょう。」
反省した斉王は九子を殺してその家族を追放し、安平君に夜邑(または「掖邑」)一万戸を加封しました。
 
田単が狄を攻撃することにしました。
田単は出征前に魯仲連に会いに行きます。『資治通鑑』胡三省注によると、魯は国名から生まれた氏です。
魯仲連が言いました「将軍が狄を攻めても降すことはできないでしょう。」
田単は「臣は即墨の破亡余卒(敗残兵)を率いて万乗(大国)の燕を破り、斉の墟(失地)を恢復した。狄を攻めて降せないはずがない」と言うと、車に乗って別れも告げずに去りました。
 
しかし狄を攻撃して三カ月経っても攻略できません。
斉の小児が風刺してこう歌いました「大冠(武冠)は箕(ちりとり)のようで、脩剣(長剣)が首にかかる(敗戦の責任を負って処刑されることになる)。狄を攻めても下すことができず、枯骨を重ねて丘を造る(大冠若箕,脩剣拄頤,攻狄不能下,塁枯骨成丘)。」
田単は恐れて魯仲連を訪問し、こう言いました「先生は単(私)が狄を下せないと言いました。その理由を教えてください。」
魯仲連が言いました「将軍が即墨にいた時は、座ったら蕢(草の籠)を編み、立ったら鍤(農具)を持ち、士卒のためにこう歌っていました『逃げてはならない。宗廟が亡ぶ。まだ希望はある。どこに帰すかはわからない(「無可往矣,宗廟亡矣。今日尚矣,帰於何党矣」。最後の「帰於何党矣」は恐らく「生きるか死ぬかはまだわからない」「尽力すれば負けると決まったわけではない」という意味)。』あの時、将軍には死の心(命を棄てる気持ち)があり、士卒には生の気(命を惜しむ心)がありませんでした。だからあなたの言を聞いた者は皆、涙をぬぐって臂(腕)を振るい、戦いを望んで燕を破ることができたのです。しかし今の将軍は、東に夜邑の奉(収入)があり、西に淄上の娯(遊楽)があり、黄金を腰に帯びて淄水と澠水の間を行き来しているので、生の楽(生きる楽しみ。生を楽しむ心)が生まれて死の心(決死の心)を失っています。だから勝てないのです。」
田単が言いました「単の決心は先生の志によるものです(先生のおかげで決心できました)。」
 
翌日、田単は自ら城下に臨んで矢石の下に立ち、枹をもって戦鼓を叩きました。
その結果、ついに狄人が投降しました。