第五十九回 胥童を寵して晋国が乱し、岸賈を誅して趙氏が復す(後編)

*今回は『東周列国志』第五十九回後編です。
 
晋厲公の葬事が終わると欒書が諸大夫を集めて新君について相談しました。
荀偃が言いました「三郤が死んだ時、胥童が孫周の擁立を理由に讒言しました。これは讖(予言)というものでしょう。霊公が桃園で死に(この後の原文は「而襄遂絶後」です。「襄公の子孫が絶たれた」という意味だと思われますが、孫周は襄公の子孫なので意味が通じません。文公の子孫が絶たれたというのなら理解できます。「襄公の子である霊公は殺されたが、今回、厲公の死によって文公の子孫が家系を途絶えさせ、逆に襄公の子孫はまだ続いている」という意味になります)。天意がある場所に迎えに行くべきです。」
群臣は喜んで賛同しました。
欒書は荀罃を京師に送り、孫周を晋君として迎え入れました。
この時、孫周はまだ十四歳でしたが、生まれつき聡明鋭敏で、抜きんでた志略(抱負)を持っていました。
荀罃が迎えに来ると国内の事情を詳しく聞き、即日、単襄公に別れを告げて荀罃と共に晋に向かいました。
一行が清原という場所まで来た時、欒書、荀偃、士、韓厥といった卿大夫が集まって出迎えました。
そこで孫周が言いました「寡人は他国に寄居しており(羈旅他邦)、故郷に還ることも期待していなかった。国君になるというのはなおさらだ。しかし尊貴な国君の位に即くからには、自ら命令を出すものである。名目だけ奉じて実際には令に従わないというのなら、国君などいないほうがいい。卿等が寡人の命を用いるかどうかは今日にかかっている。もしそのつもりがないのなら、卿等が他の者に仕えることを許そう。孤は空名の上に擁立されて州蒲(厲公)の続きとなるつもりはない。」
欒書等は戦慄して再拝し、「群臣は賢君を得て仕えることを願っています。命に従います」と言いました。
退席してから欒書が諸臣に言いました「新君は旧君と比べ物にならない。注意して仕えるべきだ。」
 
孫周は絳城に入って太廟を朝し、晋侯の位を継ぎました。これを悼公といいます。
即位した翌日、自ら夷羊五、清沸魋等が国君に迎合して悪に導いた罪を譴責し、左右の近臣に命じて朝門で処刑させました。その一族は全て境外に追放されます。
また、厲公の死の罪を問い、程滑を市で磔にしました。
欒書は恐れて夜も眠れず、翌日、告老致政(引退して政権を還すこと)して自分の代わりに韓厥を推挙しましたが、やがて驚憂によって病を患って死にました。
 
悼公はかねてから韓厥の賢才を聞いていたため、中軍元帥に任命して欒書の位に代わらせました。
韓厥は恩を謝す機会を利用して、個人的にこう言いました「臣等は皆、先世(先人)の功によって国君の左右に侍る機会を得ています。しかし先世の功において趙氏より大きい者はいません。趙衰は文公を補佐し、趙盾は襄公を補佐し、共に輸忠竭悃(忠を尽くして尽力すること)によって威を立てて伯(覇業)を定めました。ところが不幸にも霊公が失政し、寵信奸臣の屠岸賈が趙盾を謀殺しようとしました。その結果、趙盾は出奔してなんとか禍から逃れ、霊公は兵変に遭って桃園で弑殺されました。景公が位を継いでからも、また屠岸賈を寵用しました。岸賈は趙盾が既に死んだのをいいことに、偽って趙氏の弑逆の罪を訴え、後になって罪を裁いて趙宗を滅ぼしてしまいました。臣民はこれを憤怨し、今に至るまで不平を抱いています。しかし天の幸によって趙氏の遺孤・趙武がまだ生きています。主公は今日、功を賞して罪を罰し、晋の政治を大いに修め、既に夷羊五等の罰を正しました。併せて趙氏の功を認めるべきです。」
悼公が言いました「その事は寡人も先人から聞いている。今、趙氏はどこにいる?」
韓厥が言いました「当時、岸賈が趙氏の孤児を探しており、とても緊迫していました。趙氏の門客に公孫杵臼と程嬰という者がおり、杵臼が偽の遣孤を抱いて甘んじて誅戮に就いたので、趙武を逃がすことができたのです。程嬰が趙武を盂山に隠して既に十五年が経ちます。」
悼公が言いました「卿が寡人のために召してくれ。」
韓厥が言いました「岸賈がまだ朝中にいます。主公はこの事を必ず秘密にしておいてください。」
悼公は「わかっている」と応えました。
 
韓厥は悼公の前を辞すと宮門を出て自ら車を御し、趙武を迎えに盂山に行きました。
程嬰が御者になって山を下ります。
かつて程嬰は故絳の城を出ました。今日は新絳の城に入ります。全く異なる城郭を見て感傷が止みませんでした。
 
韓厥が趙武を内宮に入れて悼公に朝見させました。悼公は趙武を宮中に隠し、病と称します。
翌日、韓厥が百官を率いて入宮し、悼公の容態を伺いました。屠岸賈もその中にいます。
悼公が言いました「卿等は寡人の疾(病)を知っているか?功労簿に書かれた一件の事が不明なので、心中が不快なのだ。」
諸大夫が叩首して問いました「功労簿上のどの一件が不明なのでしょうか?」
悼公が言いました「趙衰と趙盾は二世にわたって国家に対して功績を立てた。なぜその宗祀を絶つようなことができたのだ?」
衆人が声をそろえて言いました「趙氏が族を滅ぼしたのは既に十五年も前の事です。今、主公がその功を追念したとしても、立てるべき人がいません。」
すると悼公は趙武を呼び出して諸将を一人一人拝させました。
諸将が問いました「この小郎君は誰ですか?」
韓厥が言いました「これは孤児の趙武だ。かつて誅殺した趙孤(趙氏の孤児)は門客・程嬰の子だ。」
この時、屠岸賈は魂が体から抜け、癡酔(心を奪われて深く酔うこと)したように地に拝伏し、一言も話せなくなりました。
悼公が言いました「これは全て岸賈がやったことだ。今日、岸賈を族滅しなければ、地下にいる趙氏の冤魂を慰めることができない。」
悼公は左右に怒鳴って「岸賈を縛って連れ出し、斬首せよ!」と命じ、同時に韓厥と趙武に指示を出して屠岸賈の邸宅を包囲させました。韓厥と趙武が兵を率いて老若を問わず皆殺しにします。
趙武は屠岸賈の首を請い、趙朔の墓を祭りました。国人が皆喝采して喜びました。
 
屠岸賈を誅滅した悼公は趙武を朝堂に招き、冠を加えて司寇に任命しました。屠岸賈の職の代わりです。またかつての趙氏の田禄を全て還しました。
悼公は程嬰の義を聞いて軍正に任命しようとしました。しかし程嬰はこう言いました「始めに私が死ななかったのは趙氏の孤児がまだ立っていなかったからです。今、既に官を復して仇に報いることができました。富貴を貪って公孫杵臼一人を死なせておくわけにはいきません。私は地下の杵臼に伝えに行きます。」
程嬰は自刎して死にました。
趙武は死体を撫でて痛哭し、晋侯に殯殮(死者の服を換えて棺に入れること。埋葬の準備)を厚くする許しを請いました。程嬰は公孫杵臼と共に雲中山に埋葬され、その地は二義塚とよばれるようになりました。
趙武は三年間、斉縗(喪服)を着て(三年の喪に服して)程嬰の徳に報いました。
 
悼公は趙武に趙氏を継がせたので、宋に逃げた趙勝も呼び戻して再び邯鄲を与えました。
また、群臣の位を正し、賢者を尊び、能力がある者を用いました。前功を記録し、小罪を赦し、多数の百官がそろってそれぞれの職責を全うします。
特に有名な官員では、韓厥が中軍元帥に、士が副に、荀罃が上軍元帥に、荀偃が副に、欒黶が下軍元帥に、士魴が副に、趙武が新軍元帥に、魏相が副に、祁奚が中軍尉に、羊舌職が副に、魏絳が中軍司馬に、張老が候奄になり、韓無忌が公族大夫を掌握し、士渥濁が太傅に、賈辛が司空に、欒糾が親軍戎御に、荀賓が車右将軍に、程鄭が賛僕に、鐸遏寇が輿尉に、籍偃が輿司馬に任命されました。
百官が備わり、国政が大いに修められます。
蠲逋(未払いの租税を免除すること)・薄斂(税を軽くすること)し、貧困の者を援けて労役を省き、功臣の子孫で廃された者を復興させ、能力があるのに仕官の道が閉ざされている者を抜擢し、鰥寡(身寄りがない者)を援けて恩恵を与えたため、百姓が喜びました。
それを聞いた宋・魯といった諸国も次々に来朝しました。ただ鄭成公だけは楚王が鄭のために目を負傷したため、楚を想って晋に仕えませんでした。
 
 
楚共王は晋厲公が弑殺されたと聞いて喜色を浮かべ、恨みに報いようとしました。しかし新君が跡を継いでから、善を賞して悪を罰し、賢人を用いて政治を図り、朝廷が清粛して内外が帰心し、覇業が復興しようとしていると知ったため、喜びが愁いに変わりました。
共王は中原を攪乱して晋の覇業を妨害しようと思い、群臣を集めて商議しました。
令尹・嬰斉が無策だったため、公子・壬夫が言いました「中国(中原)では宋だけが爵位が尊く(五爵の筆頭の公爵です)国も大きく、しかもその領地は晋と呉の間にあります。晋伯(晋の覇業)を攪乱するのなら、宋から始めるべきです。今、宋の大夫・魚石、向為人、鱗朱、向帯、魚府の五人は右師・華元と対立し、楚に出奔しています。彼等に兵力を貸して宋を討たせ、宋邑を得たらそこに封じれば、敵を使って敵を攻める計となります。晋がもし宋を援けなかったら諸侯を失うことになります。もし宋を援けるとしたら必ず魚石を攻める必要があります。我々は座してその成敗を観ているだけで一策となります。」
共王はこの計を採用し、壬夫を大将に任命しました。魚石等が嚮導(先導)となり、大軍を率いて宋を攻撃します。
 
この勝負はどうなるのか、続きは次回です。