第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(中篇)

*今回は『東周列国志』第六十二回中編です。
 
晋と諸侯の大軍が急襲すると、斉兵には対抗する力がなく、大半が死傷しました。析帰父は晋兵に捕えられそうになりましたが、なんとか単身で脱出して平陰の城内に逃げ帰り、霊公に報告しました「晋兵が三路から塹を埋めて進撃してきました。その勢いに抵抗するのは困難です。」
霊公は初めて恐れを抱き、巫山に登って敵軍を眺めました。すると、山沢の険要な場所には全て旗幟が翻っており、車馬が駆けまわっています。
霊公は驚いて「諸侯の師はこれほど多いのか!とりあえず逃げるしかない」と言い、諸将に問いました「誰が後殿しんがりとなる者はいないか?」
夙沙衛が言いました「小臣が一軍を率いて後を絶ち、主公に害が及ばないようにお守りします。」
霊公が喜ぶと、突然、二人の将が前に出て言いました「堂堂とした斉国に一人の勇力の士もいないというのでしょうか。寺人(宦官)に師の殿しんがりをさせたら、諸侯の笑い者になるでしょう。臣等二人は夙沙衛に先行(霊公と先に撤退すること)を譲りたいと思います。」
二将は殖綽と郭最といい、共に万夫不当の勇をもっていました。
霊公が言いました「将軍が殿となるのなら、寡人には後顧の憂がなくなる。」
夙沙衛は斉侯が自分を用いなかったため、満面に羞慙(恥じ入った様子)を浮かべてさがり、やむなく斉侯に従って先に撤退しました。
 
二十余里進んで石門山に至りました。険阻な隘路で両側に大石が連なり、その間に一筋の小道が通っています。
夙沙衛は殖綽と郭最を恨んでいたため、二人に失敗させるため、斉軍が通り過ぎてから隨行していた馬三十余頭を殺して路を塞ぎました。また、数乗の大車を横に並べて城壁のような障害を作り、山口を完全に封鎖しました。
 
殖綽と郭最は兵を指揮して後ろを守り、ゆっくり撤退しました。
やがて石門の隘口に来ると、死んだ馬が縦横に転がっており、大車が道を塞いでいました。車馬を駆けることができません。二人は互いに「夙沙衛が心中で恨みを抱いてわざとこうしたのだ」と言い、小道を開けるために急いで軍士を集めて死んだ馬を運ばせました。前には車の壁があるので、一頭ずつ持ち上げて後ろに運び、空いた場所に捨てなければなりません。軍士が多くても道が狭いため、力があっても役に立たず、どれだけの時間を要するかも判断できません。
すると背後で砂塵が舞い上がり、早くも晋の驍将州綽の一軍が到着しました。
殖綽が車の向きを返して迎撃しようとします。
しかし州綽が射た一矢が飛んできて殖綽の左肩に刺さりました。
郭最が弓を構えて助けようとすると、殖綽が手を振って制止します。州綽も殖綽の動きを見て手を止めました。
殖綽が慌てることなく矢を抜いて問いました「そこに来た将は誰だ?殖綽の肩を射るとは、好漢に数えることができるだろう!姓名を教えよ!」
州綽が言いました「わしは晋国の将州綽だ!」
殖綽が言いました「小将は他でもない。斉国の将殖綽だ!将軍はこういう言葉を聞いたことがないか。『莫相謔,怕二綽(「莫相謔」は「互いに冗談をいうな、ふざけるな」という意味で、「怕二綽」は「州綽と殖綽を恐れる」という意味ですが、理解困難です。「悪ふざけをしていたら二綽が来る」という意味かもしれません)。』わしと将軍は共に勇力によって名を知られている。好漢は好漢を惜しむものだ。なぜ互いに戕賊(相手を害すこと)する必要があるのだ。」
州綽が言いました「汝の言う通りだが、それぞれに主がいるからこうするしかない。将軍がもしも身を束ねて帰順するのなら、小将が力を尽くして将軍の命を守ろう。」
殖綽が「騙すことはないか?」と問うと、州綽が言いました「将軍が信用できないのなら誓いを立てよう。将軍の命を守れなかったら共に死ぬことを願う。」
殖綽が言いました「郭最の性命も将軍に委ねた。」
言い終わると二人とも一緒に縛られました。隨行していた士卒も全て投降します。
 
州綽は殖綽と郭最の二将を中軍に連れて行き、中行偃に献上して「彼等の驍勇は用いるべきです」と進言しました。
中行偃は二人を暫く中軍に捕えておき、帰国してから処分を決めることにしました。
 
晋と諸侯の大軍は平陰を出発します。途中で通過する城郭を攻めることなく、直接、臨淄の外郭(外城)に至りました。魯、衛、邾、莒の兵もそろいます。
范鞅がまず雍門を攻めました。雍門は蘆荻が多かったため、火を点けて城門を焼きます。
州綽が申池の竹木を焼き、各軍も一斉に火攻めを開始しました。四郭が全て焼け崩れます。
各軍は臨淄の城下に迫り、四面を包囲しました。喚声が地を震わせ、矢が城楼に至ります。城中の百姓が慌てて混乱に陥りました。
霊公も非常に恐懼し、秘かに左右の近臣に車を準備させました。東門を開いて逃げるつもりです。それを知った高厚が急いで霊公の前まで走り、佩剣を抜いて轡索(馬をつなぐ縄)を切ると泣いてこう言いました「諸軍には勢いがありますが、深入りしたら後虞(後憂)ができます。暫くしたら帰るはずです。しかし主公が一度去ったら都城を守ることはできません。あと十日留まってください。もし(我が軍の)力が尽きて勢いが果てたら、それから走っても遅くはありません。」
霊公は逃走を中止しました。高厚が軍民と協力して城を固守します。
 
各軍の兵が斉を包囲して六日目、鄭国の飛報が到着しました。大夫公孫舍之と公孫夏が連名で封をしており、中には緊急の機密が記されています。鄭簡公が開いてみると、こう書かれていました「臣舍之、臣夏が命を奉じて子孔と国を守っていましたが、図らずも子孔に謀叛の心があり、秘かに楚と通じました。子孔は楚兵を招いて鄭を攻めさ、自ら内応するつもりです。今、楚兵は既に魚陵に駐軍しており、旦夕にも鄭に至ります。危急の事なので、星夜を通して旆(旗)を返し、社稷を救うことを願います。」
 
驚いた鄭簡公は書を持って晋の軍中に入り、晋平公に見せました。
平公は中行偃を招いて意見を聞きます。中行偃が言いました「我が兵は攻戦することなく臨淄に至り、鋭気に乗じて一鼓にして降すつもりでした。しかし今、斉の守備はまだ損なわれず、鄭国にも楚の警(危険に関する報告)があります。もし鄭国を失ったら咎は晋にあります。一時兵を還して鄭を救うべきです。今回、斉を破ることができませんでしたが、斉侯は既に胆を潰しているでしょう。敢えてまた魯国を侵犯することはないはずです。」
平公は納得して斉の包囲を解きました。鄭簡公は先に別れを告げて帰国します。
 
諸侯が祝阿に至りました。平公は楚軍の動きを憂いていたため、諸侯と酒を飲んでも楽しめません。
そこで師曠が言いました「臣に声(音楽)によって卜わせてください。」
師曠は律管(管楽器)を吹いて『南風(南方の歌。楚を表します)』を歌い、その後、『北風(北方の歌。中原を表します)』を歌いました。『北風』は音が調和して安定しており、美しい歌でしたが、『南風』は声が揚がらず、粛殺の声(秋冬の寒冷の気を含む音)が多くありました。
師曠が言いました「『南風』は振るわず、その声(音)は死に近かったので、(楚は)功を成せないだけでなく、自ら禍を招くでしょう。三日もせずに好音(朗報)が至ります。」
 
師曠は字を子野といい、晋国で最も聡明な士でした。幼い頃から音楽を好みましたが、専心できないことを苦にして嘆き、こう言いました「技に精通できないのは多心だからだ。心が専一にならないのは多くを視てしまうからだ。」
師曠は音楽に専念するため、艾葉を焼いてその煙で自分の目を燻り、盲目になりました。その結果、気候の盈虚(満たされているか欠けているか)を察し、陰陽の消長を明らかにし、天時も人事も審験(観察考察)して誤ることがなく、風角鳥鳴(自然現象)を通じて目で見たように吉凶を判断できるようになりました。
音楽を掌る太師の官に就き、晋侯に深く信任されたため、行軍の際には必ず従いました。
 
師曠の言を聞いた晋平公は駐軍して待機し、人を送って遠く離れた鄭楚の状況を探らせました。
すると三日も経たずに探者(偵察に出た者)が鄭の大夫公孫蠆と共に戻り、「楚師は既に去りました」と報告しました。
晋平公が驚いて詳しく聞くと、公孫蠆が言いました「楚は子庚が子囊に代わって令尹になってから、先世の仇を討つために鄭国討伐を謀りました。そこで公子嘉が秘かに楚と通じ、楚兵が至る日になったら敵を迎え撃つと偽って城を出て、楚兵と合流する約束をしていました。しかし公孫舍之と公孫夏の二人が子嘉の謀を察知したため、甲(兵)を集めて城を守り、城の出入を厳しく取り締まりました。そのおかげで子嘉は城を出られなくなりました。子庚は潁水を渡っても内応の消息がないため、魚歯山の下に駐軍しました。ちょうどその時、数日にわたって大雨雪が降り、営中の水が一尺余の深さになりました。軍人は皆、高阜(高い丘)を選んで雨を避けましたが、寒さが厳しく、死者が過半数に登り、士卒が怨詈(怨みの声)を上げたため、子庚はやむなく班師しました。寡君は子嘉の罪を討って既に誅戮しました。軍師を煩わせることを恐れたので、下臣蠆を連夜走らせて、報告させたのです。」
平公は喜んで「子野は真に音楽に精通している」と言い、楚の鄭攻撃が失敗に終わったことを諸侯に報せました。各国はそれぞれ本国に還ります。
これは周霊王十七年冬十二月の事です。
晋軍が西に帰って黄河を渡った時には十八年の春になっていました。
 
帰国の途中、中行偃の頭に突然一つの瘍疽(できもの)ができました。我慢できないほどの強い痛みが襲ったため、著雍の地に逗留します。そこで二カ月を過ごしましたが(または「そこで二月を迎え」。原文「延至二月」)、瘍がつぶれて眼球が飛び出し、死んでしまいました。首が落ちた夢と梗陽の巫者の予言が当たったことになります。
殖綽と郭最は中行偃の変事に乗じて械(刑具)を破壊し、脱出して斉国に逃げ帰りました。
が中行偃の子呉と共に喪(霊柩)を迎えて国に入ります。
晋侯は呉に大夫の位を継がせ、范を中軍元帥に、呉を副将にしました。呉は荀を氏にしたため荀呉と称します。
 
 
 
*『東周列国志』第六十二回後編に続きます。

第六十二回 諸侯が斉国を囲み、晋臣が欒盈を逐う(後篇)