第六十三回 老祁奚が羊舌を救い、小范鞅が魏舒を取る(後編)

*今回は『東周列国志』第六十三回後編です。
 
周霊王二十二年、呉王諸樊が晋に婚姻を求めました。晋平公は娘を呉に嫁がせることにします。
それを知った斉荘公が崔杼と謀って言いました「寡人は欒盈を帰国させると約束したが、まだその機会を得ていない。曲沃の守臣は欒盈と厚い交りがあると聞いた。媵を送るという名目で(媵は新婦に従って嫁ぐ女性。晋女が呉に嫁ぐので、それに従わせるために斉女を媵として送ることにしました)欒盈を曲沃に送って晋を襲おうと思うが、どうだろうか?」
崔杼は斉侯を恨んでおり、心中で弑殺を企んでいたため、斉侯が晋の怨みを招くことを望んでいました。晋侯の討伐を受けたら罪を斉君に着せて弑殺し、晋に媚びるつもりです。
今回、荘公が欒盈を帰国させようとしているのは、まさに崔杼の計に中っています。そこでこう答えました「曲沃の人が欒氏に協力したとしても、晋を害すことはできないでしょう。主公が自ら一軍を率いて後続となる必要があります。もし欒盈が曲沃から晋に入ったら、主公は衛を討つと宣言して濮陽から北上してください。両路から挟撃すれば晋が支えることはできません。」
荘公は深く納得し、この計を欒盈に告げました。
欒盈はとても喜びましたが、家臣辛兪が諫めて言いました「兪が主に従うのは忠を尽くすためです。主も晋君に忠であることを願います。」
しかし欒盈はこう言いました「晋君がわしを臣とみなしていないのに、どうしろというのだ。」
辛兪が言いました「昔、紂が文王を羑里に捕えましたが、文王は天下を三分して殷商王朝に仕えました(原文「文王三分天下以服事殷」。西周文王は天下の三分の二を擁したのに殷紂に臣事しました。恐らくこの事を指します)。晋君は欒氏の勲功を念じず、我が主(欒盈)を廃して駆逐し、国外で餬口をしのがせています。誰がこれを憐れまないでしょう。しかし一度不忠を行ったら、天地の間で許容されることがなくなります。」
欒盈は諫言を聴こうとしません。
辛兪が泣いて言いました「我が主が必ず行くのなら、兪は死をもってお送りします。」
辛兪は佩刀を抜いて自刎しました。
 
斉荘公は宗女の姜氏を媵に選び、大夫析帰父に命じて晋まで送らせました。同時に、多数の温車を準備し、欒盈とその宗族を乗せて曲沃に送り出します。州綽と邢蒯が従おうとしましたが、荘公は二人が晋に帰ることを恐れて殖綽と郭最に代えさせました。荘公は二人に「欒将軍に仕えるのは寡人に仕えるのと同じだ」と命じます。
 
一行が曲沃まで来ると、欒盈等は服を着替えて入城し、夜になって大夫胥午の門を叩きました。
胥午は誰が来たのかと不思議に思って門を開けます。するとそこに欒盈がいたため、驚いて問いました「小恩主はなぜここにいるのですか?」
欒盈が言いました「密室で話をさせてくれ。」
胥午は欒盈を迎え入れて深室の中に入ります。
欒盈が胥午の手を取って話をしようとしましたが、言葉が出ず、涙が流れました。
胥午が言いました「小恩主に何か事があるのなら、共に商議しましょう。悲泣する必要はありません。」
欒盈が泣くのをやめて言いました「わしは范趙諸大夫に陥れられたため、宗祀を守ることができなくなった。しかし斉侯がわしの無罪を憐れんだので、わしをここまで送ってくれた。斉兵ももうすぐ到着する。子(汝)が曲沃の甲(兵)を興して共に絳を襲うなら、斉兵が外から攻め、我等が内から攻めて絳に入ることができる。その後、諸家の中でわしを仇としている者を倒して甘心(満足)し、晋侯を奉じて斉と和を結ぼう。欒氏の復興はこの一挙にかかっている。」
胥午が言いました「晋の勢いは強く、范、趙、智、荀の諸家も睦んでいます。僥倖(幸運)は得られないでしょう。いたずらに自分を害することになったらどうしますか。」
欒盈が言いました「わしには力士の督戎がおり、一人で一軍に匹敵する。その上、殖綽と郭最は斉国の雄であり、欒楽と欒魴も力が強くて射術を得意としている。晋は強いが恐れる必要はない。それに、かつてわしは魏絳の佐として下軍にいた。その孫の舒が協力を求めた時には、いつも助けてきた。彼はわしの意に感じて恩に報いたいと思っている。もし魏氏を得て内助にすることができたら、事は十中八九成功したと考えていい。万一事を起こして成功できなくても、死んで恨むことはない。」
胥午が言いました「明日になるのを待って人心を探ってから行動しましょう。」
欒盈等は深室に隠れて待機しました。
 
翌日、胥午は夢で共太子(申生。晋献公の子)を見たと言って祠を祭りました。餕餘(祭祀で使った食事の残り)で官属をもてなします。宴席の壁の後ろに欒盈を隠しておきました。
三觴(三杯の酒を飲むこと)して音楽の演奏が始まると、胥午が音楽を止めるように命じて言いました「共太子の冤を想うと、我々は楽(音楽)を聞いてはいられない。」
皆が嘆息しました。
胥午が続けました「臣子(臣は欒氏、子は共太子)は一例(同等)だ。欒氏は代々大功を立ててきたのに、同朝の讒言にあって放逐された。共太子と違いがないだろう。」
皆が言いました「この事は国中が不平に思っています。孺子(子供。跡継ぎ。欒盈)は国に帰れるのでしょうか?」
胥午が言いました「もし孺子が今日、この場にいたら、汝等はどう対処するつもりだ?」
皆が言いました「もし孺子を得て主にすることができるのなら、孺子のために尽力したいと思っています。たとえ死んでも後悔しません。」
その場にいた者達の多くが泣き始めました。
すると胥午が言いました「諸君が悲しむことはない。欒孺子はここにいる。」
欒盈が屏の後から速足で出て来て諸臣に拝礼しました。諸臣も共に拝礼を返します。
欒盈は晋に帰る意志を述べ、「再び絳州の城中に入ることができたら、死んでも瞑目できる」と言いました。
衆人は踴躍して従軍を願い、この日は愉快に酒を飲んで解散しました。
 
翌日、欒盈が一通の密信を書いて曲沃の賈人(商人)に託し、絳州の魏舒に届けさせました。
魏舒は范氏と趙氏の欒氏に対する処置が行き過ぎだと思っていたため、密信を得るとすぐに返事を書きました「某(私)は甲を準備して(原文は「裹甲」。恐らく「甲を隠す」か「甲を準備する」という意味。甲は甲冑と兵の二つの意味があります)待ち、曲沃の兵が到着したら迎え入れます。」
返書を見た欒盈は大喜びしました。
胥午が曲沃の兵を集め、合計二百二十乗が欒盈に統率されることになりました。欒氏の族人で戦える者は全て従い、老弱の者は曲沃に留まります。
督戎が先鋒に、殖綽と欒楽が右に、郭最と欒魴が左になり、黄昏に出発して絳都に向かいました。曲沃から絳までは六十余里しかないため、一夜で到着します。郭(外城)を破壊して進入し、南門まで至った時も、絳人はまだ気がつきませんでした。まさに「疾雷は耳を覆う暇がない(疾雷不及掩耳)」という速度です。
閉じられた城門には全く守りが置かれていなかったため、一つの時辰(二時間)を費やすことなく、督戎が城門を破って欒氏の兵を入城させました。それは無人の境に入るような状態でした。
 
この時、范は家におり、朝饔(朝食)を終えたばかりでした。そこに突然、楽王鮒が息を乱して現れ、「欒氏が既に南門に入りました」と報告しました。
驚いた范はすぐに子の范鞅を呼び、兵を集めて対抗させます。
楽王鮒が言いました「事は急を要します。主公を奉じて固宮に走るべきです。あそこなら堅守できます。」
固宮というのは晋文公が呂郤に宮殿を焼かれてから公宮の東隅に立てた別宮です。不測の事態に備えて建てられたため、広さは十余里もあり、中には宮室台観が建ち、大量な粟(食糧)が蓄えられており、国中の壮甲三千人が選ばれて順番に守っていました。外には溝塹(堀)が掘られ、牆(壁)の高さは数仞もあり、極めて堅固だったので固宮といいます。
は国内の内応者を恐れました。すると楽王鮒が言いました「諸大夫は皆、欒氏の怨家です。心配なのは魏氏だけです。速やかに君命を使って招けばまだ間に合うでしょう。」
は納得して范鞅を派遣しました。君命を奉じて魏舒を招かせます。また一方では僕人を催促して車を準備させました。
楽王鮒が言いました「事(こちらの動き)を知られてはなりません。形跡を隠すべきです。」
この時、平公は外家の喪に服していました。范と楽王鮒は甲冑の上に墨縗(喪服)を着て、絰(喪中につける帯)で頭を覆い、婦人の姿をして直接、宮中に入りました。
二人は欒氏の変を平公に報告し、平公を御して固宮に入ります。
 
魏舒の家は城の北隅にありました。范鞅が軺車を疾駆させると、車徒が既に門外に並んでおり、魏舒が軍服を着て車に乗っているのが見えました。南に向かって欒盈を迎えに行くつもりです。
范鞅は車を降りると小走りで進み出て言いました「欒氏が逆を成しました。主公は既に固宮におり、鞅の父と諸大臣が主公の周りに集まっています。鞅を使って吾子(あなた)を迎えさせました。」
魏舒が答える前に范鞅が飛び跳ねて車に乗り、右手で剣を持ち、左手で魏舒の帯を引きました。魏舒は恐れて何も言いません。
范鞅が怒鳴って「速く行け!」と命じました
輿人が「どこに行くのですか?」と問うと、范鞅は厳しい口調で「東の固宮に行け!」と命じます。
車徒は向きを東に変えて固宮に向かいました。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。

第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(一)