第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(二)

*今回は『東周列国志』第六十四回その二です。
 
翌日、斐豹は甲冑を内に着て外に練袍を加え、堅く縛りつけました。頭には韋弁(礼冠)を被り、足には麻屨を履き、腰には利刃(鋭利な刀)を隠し、手には重さ五十二斤の銅鎚を持っています。
斐豹が范に別れを告げて言いました「小人が今回出発してから、督戎を殺せたら凱旋して戻って来ます。もし殺せなかったら督戎の手によって死にます。決して両存することはありません。」
が言いました「わしも自ら汝が尽力する様子を見に行こう。」
はすぐに車を準備するように命じ、斐豹を驂乗(同乗)させて一緒に南関に行きました。
 
趙武と荀呉が迎え入れて督戎の英雄ぶりを語り、続けて二将を斬ったことを報告しました。
が言いました「今日は斐豹が単身で敵に赴く。晋侯の福分(福。運)を見るだけだ。」
言い終わる前に関の下で督戎が大喝して戦いを挑みました。
斐豹が関の上から問いました「督君は斐大を覚えているか?」
斐豹は督戎の上の世代なので自分を斐大と称しました。かつての双方の呼び方です。
督戎が問いました「斐大!汝は今でも死生を賭けることができるか?」
斐豹が言いました「他の者が汝を恐れても、この斐豹が汝を恐れることはない!汝は兵車を後ろに退けよ!わしと汝の二人だけで地下(ここでは地上の意味)で勝負を競おう。双手で双手に対し、兵器で兵器に対しよう。汝が死ななかったらわしが活き、わしが死んだら汝が活きれば、英名を後世に伝えることもできるだろう!」
督戎は「それはわしの意にもかなっている」と応えて軍士を退けさせました。
 
関門が開き、斐豹が一人で現れました。両者は関の下で交戦しましたが、二十余合に至っても勝負がつきません。
斐豹が偽って言いました「突然の内急(尿意)だ。暫く手を休めてくれ。」
もちろん督戎が斐豹を逃がすはずがなく、手を休めようとはしません。
斐豹は先に西側の空地を見つけていました。一帯に短牆(低い壁)があります。督戎に一瞬の隙ができた時、西に向かって逃走しました。
督戎が後を追って大喝しました「どこに行くつもりだ!」
等は関の上で見守っています。督戎が斐豹を追撃し始めたため、慌てて手に汗を握りました。
しかしこれは斐豹の計でした。短牆に迫ると跳び越えて中に入ります。督戎も斐豹が壁の中に入ったのを見て壁を越えました。督戎は斐豹が前にいると思っていますが、斐豹は一本の大樹の下に隠れて督戎が壁を越えるのを待っていました。督戎の不意をついて五十二斤の銅鎚を後ろから叩きつけます。督戎は頭が割れて地に倒れました。同時に督戎の右脚が飛び跳ねて斐豹の胸を蹴り、兕甲の一片を潰しました。
斐豹は急いで腰の間から利刃を抜き、首級を落として再び壁を跳び越えます。
関の上から斐豹が見えました。壁の中から出て来た斐豹は血で濡れた頭を手にしています。范等は勝利を知って関門を大きく開きました。
解肅と牟剛が兵を率いて出陣し、欒軍が大敗しました。半数が死に、半数が投降し、逃げ去った者は十分の一二もいませんでした。
は天を仰いで酒を地に撒き、「これは晋侯の福だ」と言いました。
自ら酒を注いで斐豹に与えます。
その後、斐豹を連れて晋侯に会いに行きました。晋侯は兵車一乗を下賜し、第一の功績として記録しました。
 
欒盈は大隊の車馬を率いて北関を攻撃していました。督戎の捷報をたて続けに聞いたため、部下に向かってこう言いました「わしに二人の督戎がいたら、固宮を破れないはずがないのだが。」
殖綽は郭最の足を踏み、郭最は目配せをして応じました。二人とも頭を下げて何も言いません。
しかし欒楽と欒魴は功を立てたいと思っていたため、矢石を避けずに攻撃しました。
韓無忌と韓起は前関(南関)が連敗しているため、軽率に出撃せず、厳しく守りを固めました。
 
三日目、欒盈が敗軍の報を受けます。「督戎が殺され、全軍が壊滅しました」と聞くと、驚いて手足の力が抜けました。
やっと殖綽と郭最を招いて商議しましたが、二人は笑ってこう言いました「督戎でも利を失ったのです。我曹(我々)ではどうしようもありません。」
欒盈は涙が止まりませんでした。
欒楽が言いました「我等の死生は今夜にかかっています。将士を全て北門に集め、三更(夜十一時から一時)が過ぎたら全員を車に乗せ、火を放って関を焼けば、あるいは進入できるかもしれません。」
欒盈はこれに従いました。
 
晋侯は督戎の死を喜び、酒宴を開いて慶賀しました。
韓無忌と韓起も觴(酒)を献上して祝います。宴は二更(夜九時から十一時)まで続いて解散しました。
韓無忌と韓起が北関に戻って点視(視察。確認)を終えた時、突然、車の音が轟きました。欒氏の軍馬が集結し、関と同じ高さの車から火矢を浴びせます。蝗のように飛ぶ無数の火矢が関門を焼きました。
火の勢いは凶猛で、関内の軍士は生死もおぼつきません。
欒楽が先に進み、欒魴が後に続き、勢いに乗じて外関を占領しました。
韓無忌等は内関に退いて守り、急いで人を送って中軍に援軍を求めました。
 
は魏舒を南関に派遣し、荀呉が率いる一隊の軍馬と交代させました。荀呉が北関に向かって二韓(韓無忌と韓起)を援けます。
は晋侯と共に台に登って北を眺めました(既に夜が明けて翌日になっています)。欒氏の兵が外関に駐留していますが、全く声を立てません(攻撃を止めており、動きがありません)
は「必ず計がある」と言い、内関に注意して防ぐように伝令を送りました。
 
関を守って黄昏になりました。
欒氏の兵が再び車に乗って門を火攻めにします。
しかし関では皮の帳を準備していました。帳は牛皮でできており、水を染み込ませてあります。皮を開いて防げば火が通ることはありません。
一夜の混乱の後、両軍は暫く休憩しました。
 
は「賊が逼迫している。もし久しく退かなかったら、斉が再び乗じて来るだろう。これは国の危機となる」と言い、子の范鞅に斐豹の一隊を率いさせて南関から北門に送りました。外から欒氏を攻撃するためです。関を守る二韓と攻撃の時間を約束しました。
荀呉にも牟剛の一隊を率いて(南関の)内関から出撃させました。外関に殺到して腹背を挟撃し、欒氏が両面を顧みる余裕を奪うためです。
趙武と魏舒には関外に兵を移させ、南に逃げる道を塞ぐように命じました。
準備が終わると范は晋侯と共に台に登って戦況を見守りました。
范鞅が出発する時、范に請いました「鞅は年少で声望が軽いので、中軍の旗鼓を借りたいです。」
は同意しました。
范鞅は剣を持って車に乗り、旗を建てて出発します。
南関を出たばかりの時に部下に言いました「今日の戦いは、進むことはあっても退くことはない!もしも兵が敗れたら私が先に自剄しよう。諸君だけを死なせつるもりはない!」
将兵は皆、士気を上げて勇躍しました。
 
 
 
*『東周列国志』第六十四回その三に続きます。