第六十四回 曲沃城で欒盈が滅び、且于門で杞梁が死ぬ(四)

*今回は『東周列国志』第六十四回その四です。
 
斉荘公は晋との戦いで功を立てることができませんでしたが、雄心はまだ死んでいません。斉の国境まで来ても国に入ろうとせず、こう言いました「平陰の役で莒人はその郷から斉を襲おうとした。この仇に報いなければならない。」
荘公は国境に駐留すると、車乗を大蒐(閲兵)し、州綽、賈挙等にそれぞれ堅車五乗を下賜して「五乗の賓」と名付けました。
賈挙が臨淄の人華周と杞梁の勇を称えたため、荘公はすぐに二人を招きました。二人が荘公に謁見すると、荘公は二人に一車を下賜して従軍を命じました。
しかし華周はそれを辞退して杞梁に言いました「主公が『五乗の賓』を立てたのは勇を認めたからだ。今回、君と私の二人を招いたのも、勇を認めたからだ。しかし彼等は一人が五乗を有しているのに、我々は二人で一乗しかない。これは我々を用いるのではなく、辱めようとしているからだ。辞退して他の地に向かおう。」
杞梁が言いました「梁(私)の家には老母がいる。母の命を伺ってから行動しよう。」
杞梁は家に帰って母に相談しました。
すると母はこう言いました「汝が生きている間は義がなく、死んでからも名がないようなら、『五乗の賓』に加えられたとしても人々に笑われるでしょう。汝は努力しなさい。君命から逃げてはいけません。」
杞梁は母の言葉を華周に伝えました。
華周が言いました「婦人でも君命を忘れないのだから、我々が忘れてはならない。」
二人は一緒に車に乗って荘公に従いました。
 
荘公は兵を数日休ませてから、王孫揮に大軍を統率して国境で待機させ、「五乗の賓」と精鋭三千だけを率いて出撃しました。枚(兵や馬の声を消すため、口に入れる板)をくわえ、戦鼓を隠して莒国を急襲します。
華周と杞梁が前隊になることを願うと、荘公が問いました「汝等はどれだけの甲乗を必要とするか?」
華周と杞梁が言いました「臣等二人はこの身だけで主公に謁見したので、この身だけで進みたいと思います。主公に下賜された一車があれば、我々が乗るには充分です。」
荘公は二人の勇を試したいと思っていたため、笑って許可しました。
華周と杞梁は順に御者を務める約束をしました。出発する時に「もう一人を得て戎右にできれば一隊に当たることができる」と言うと、小卒が進み出て「小人が二人の将軍に同行したいと思います。乗せていただけないでしょうか?」と問いました。
華周が姓名を問いました。
小卒は「某(私)は本国の人で隰侯重といいます。二将軍の義勇を慕い、喜んで従いたいと思います」と答えました。
三人は一乗の兵車に乗り、一旗と一鼓を立てて風のように駆けていきました。
 
三人は莒の郊外に至って一晩露宿しました。
翌朝、斉軍が迫っていると知った莒の黎比公が自ら甲士三百人を率いて郊外を巡視し、華周と杞梁の車に遭遇しました。
黎比公が調べようとすると、華周と杞梁が目を見開き、怒鳴って言いました「我等二人は斉の将だ!誰か我々と戦おうという者はいないか!」
黎比公は驚きましたが、単車の後ろに続く斉兵がいないと知り、甲士に命じて何重にも包囲させました。
華周と杞梁が隰侯重に言いました「汝は我等のために休まず戦鼓を打て!」
二人はそれぞれ長戟を持って車から跳び下り、左右を突いて立ちはだかる者を全て倒していきました。三百の甲士の半数が殺傷されます。
黎比公が二人に言いました「寡人は二将軍の勇を知った。死戦の必要はない。莒国を分けて将軍と共に治めようと思う。」
華周と杞梁が声をそろえて言いました「国を去って敵に帰すのは非忠だ。命を受けながらそれを棄てるのは非信だ。深く進入して多くを殺すのは、将がやるべき事である。莒国の利に関しては、臣が知ったことではない!」
言い終わると再び戟を奮って戦いました。
黎比公は敵わないと知り、大敗して兵を還します。
 
そこに斉荘公の大隊が到着しました。二将が単独で戦って勝利を得たと知り、二人を呼び戻すために人を送ってこう伝えました「寡人は二将軍の勇を知った。これ以上戦う必要はない。斉国を分けて将軍と共に治めようと思う。」
しかし華周と杞梁は声をそろえてこう言いました「主公は『五乗の賓』を立てたのに我々には与えなかった。これは我々の勇を軽視していたからだ。今また利によって我々を誘ったが、それは我々の行為を汚すことだ。深く進入して殺すのは将がやるべき事である。斉国の利に関しては、臣が知ることではない。」
二人は使者に揖礼して去ると、車を棄てて徒歩で且于門に迫りました。
 
黎比公は狭い道に溝を掘って炭を焼かせました。炭の火が燃え上がり、二人は前に進めなくなります。
すると隰侯重が言いました「古の士とは、後世に名を立てることができるのなら生を棄てたといいます。私が溝を越えさせましょう。」
隰侯重は楯を持つと炭の上に伏して二子に上を走らせました。
華周と杞梁が溝を越えて振り返った時には、隰侯重は既に焼け焦げていました。
二人は隰侯重を向いて号哭します。
杞梁が涙を収めても華周がまだ泣いていたため、杞梁が問いました「汝は死を恐れるのか?なぜ長く哭しているのだ?」
華周が言いました「私が死を恐れることはない。彼の勇は我々と同じだ。それなのに我々より先に死んだから哀れんだのだ。」
黎比公は二将が火溝を越えたのを見て、急いで矢術を得意とする百人を集め、門の左右に隠しました。二人が接近すると一斉に矢が放たれます。
華周と杞梁が一直線に前進して門を奪った時、百矢が共に発せられましたが、二将は矢を冒して突入し、二十七人を殺しました。城を守る軍士が城壁の上に並び、皆で矢を浴びせます。
杞梁が重傷を負って先に死に、華周も数十の矢が刺さって力尽きましたが、捕えられた時にはまだ息が残っていました。
黎比公は華周を車に乗せて城内に還りました。
 
斉荘公は使者の回答を聞いて華周と杞梁が死ぬつもりだと知り、大隊を率いて前進しました。
しかし、且于門に至って三人が既に戦死したと聞き、激怒して城を攻めようとしました。
すると黎比公の使者が斉軍を訪れて謝罪し、こう伝えました「寡君は単車を見つけましたが、大国(貴国)が送った者とは知らず、誤って罪を犯してしまいました。そもそも大国の死者は三人ですが、敝邑で殺された者は百余人に上ります。彼等は自ら死を求めたのであり、敝邑が敢えて兵を加えたのではありません。寡君は貴君の威を恐れているので、下臣(私)に百拝謝罪させました。毎年、斉に朝すことを願っています。二心はありません。」
荘公は怒気が盛んなため、講和を拒否しました。
黎比公は再び和を求める使者を送り、重傷の華周と杞梁の死体を返して金帛で犒軍することを伝えました。
荘公はそれでも許そうとしませんでしたが、王孫揮の急報が届いて考えが変わりました。その内容はこうです「晋侯が宋、魯、衛、鄭各国の君と夷儀で会し、斉国を撃つ謀をしています。主公は速やかに班師(撤兵)してください。」
荘公は莒との講和に同意しました。
 
莒黎比公は大量の金帛を献上し、温車に華周を乗せ、輦に杞梁の死体を乗せて斉軍に送り返しました。
隰侯重の死体は炭の中で既に灰燼と化していたため、回収できませんでした。
 
荘公は即日兵を還し、杞梁の殯(死体を棺に入れて埋葬の時まで待機する儀式。葬礼の一つ)を斉郊の外で行うように命じました。
荘公が斉郊に入ると、杞梁の妻孟姜が夫の死体を迎えに来ました。荘公は車を止めて人を送り、孟姜に弔辞を伝えます。
すると孟姜は使者に再拝してこう言いました「もし梁に罪があるのなら、敢えて国君の弔辞をいただく必要はありません。もし罪がないのなら、先人の敝廬(家)があります。郊は弔を行う場所ではないので、下妾(私)は辞退させていただきます。」
荘公は恥じ入って「寡人の過失だ」と言い、杞梁の家で葬儀を行って弔問しました。
 
孟姜は夫の棺を城外に運び、埋葬する前に三日間露宿しました。棺を撫でて慟哭し、涙が枯れて血が出始めます。すると誠心がこもった哀慟に感じて斉の城壁が突然数尺崩れました。
後世、秦人の范杞梁が長城建築に駆り出されて命を落とし、妻の孟姜女が寒衣を城下に送った時に夫の死を聞いて痛哭したため、長城が倒壊したという話が伝えられましたが、斉将杞梁の事が誤って伝聞されたようです。
 
華周は斉に還りましたが、傷が重かったため間もなく死亡しました。その妻の哀慟も常人の倍となるものでした。
孟子』はこう言っています「華周と杞梁の妻は善くその夫のために哭し、国俗を変えることができた。」
 
これらの事は周霊王二十二年に起きました。
この年、大水(洪水)があり、穀水と洛水がぶつかって黄河も氾濫しました。平地を水が浸し、その深さは一尺余にもなります。晋侯は斉討伐を中止しました。
 
斉の右卿崔杼は荘公の淫乱を憎んでおり、晋師の討伐を待って大事を行おうとしていました。既に左卿慶封とも相談し、成功したら斉国を分けて統治すると約束しています。しかし洪水のために晋の出兵が中止されたと知り、心中、憂鬱になりました。
荘公には賈豎という近侍がおり、かつて小さな事が原因で百回鞭で打たれました。崔杼は賈豎が荘公を怨んでいると知り、厚い賄賂を贈って仲間に誘います。荘公の一挙一動が賈豎から報告されるようになりました。
 
崔杼が何をするのか、続きは次回です。

第六十五回 崔慶が斉光を弑殺し、甯喜が衛衎を入れる(前編)