第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(三)

*今回は『東周列国志』第七十一回その三です。
 
周景王十九年、呉王夷昧が在位四年で病にかかりました。危篤に陥ると父や兄の命を改めて宣言して国君の位を弟の季札に譲ろうとします。
しかし季札は辞退してこう言いました「私は位を受けるつもりがないことを明らかにしてきました。かつて先君が命を下した時も札(私)は従いませんでした。富貴は私にとって秋風が吹いていくのと同じです。全く興味がありません。」
季札は延陵に逃げ帰りました。
そこで群臣は夷昧の子州于を王に奉じました。州于は僚に改名します。これを王僚といいます。
 
諸樊の子は名を光といい、用兵を得意としたため王僚に用いられて将になりました。
長岸で楚と戦い、楚の司馬を勤める公子魴を殺します。
楚人は公子光を懼れ、州来に築城して呉に備えました。
 
当時、費無極が讒佞によって楚王の寵信を得ていました。
蔡平公廬が嫡子朱を世子に立てましたが、庶子の東国が嫡子の地位を奪おうとし、費無極に賄賂を贈りました。費無極はまず朝呉を讒言して鄭に駆逐します。
やがて蔡平公が死んで世子朱が即位すると、費無極は楚王の命と偽って蔡人に国君朱を放逐させました。こうして東国が蔡の国君に立ちました。
平王が費無極に問いました「蔡人はなぜ朱を逐ったのだ?」
費無極が言いました「朱は楚に叛しようとしました。蔡人はそれを願わなかったので追放したのです。」
平王はそれ以上問いませんでした。
 
費無極は心中で太子建を憎んでいたため、父子を離間させたいと思っていました。しかし善い計が思い浮かびません。
ある日、費無極が平王に上奏しました「太子は既に成長しました。なぜ婚娶(結婚)の手配をしないのでしょうか。婚姻を求めるとしたら秦に勝る国はありません。秦は強国であり、しかも楚と和睦しています。両強が婚姻関係を結べば、楚の勢いをますます拡大できます。」
平王は同意し、費無極を秦国に送って聘問させました。世子のための求婚が主な目的です。
秦哀公が群臣を招いて意見を聞くと、群臣は皆こう言いました「かつて秦は晋と世々代々婚姻を結んできました。しかし今、晋との友好が絶たれて久しくなります。楚の勢いは盛んなので、同意しないわけにはいきません。」
秦哀公は大夫を楚に派遣して聘問に応え、長妹孟嬴を嫁がせることを伝えました。
『東周列国志』によると、当時(明清時代)の小説で孟嬴は無祥公主とよばれていました。しかし公主の号は漢代に始まったので、春秋時代にこのような号はなかったようです。
 
平王は再び費無極に命じ、金珠彩幣を持って秦に行かせました。新婦を迎えるためです。
費無極は秦の使者と共に秦に入り、聘礼(新郎側が新婦の家に贈る礼物)を納めました。
喜んだ哀公は公子蒲に命じて孟嬴を楚まで送らせました。百輌の車に資財を載せ、従う媵妾(新婦に従って嫁ぐ妾)は十余人を数えます。
孟嬴は兄である秦伯に別れを告げて出発しました。
 
道中、費無極は孟嬴の絶世の美色を知りました。また、媵女にも儀容が端正な者が一人いました。秘かに来歴を訪ねて斉女だと知ります。幼い頃に父が秦に仕えたため、斉女も宮中に入り、孟嬴の侍妾となりました。
詳細を知った費無極は館駅に宿泊した時、秘かに斉女を招いて言いました「汝は貴人の容貌をもっているので、汝を持ち上げて太子の正妃にしてやろうと思う。汝がわしの計を洩らさないようなら、汝の将来は富貴が尽きないであろう。」
斉女は頭を下げたまま何も言いませんでした。
 
費無極は一日先に宮中に入り、平王に報告して言いました「秦女が到着しました。三舍(九十里)ほど離れた場所にいます。」
平王が問いました「卿は秦女を見たか?その容貌はどうだ?」
費無極は平王が酒色の徒だと知っていたので、わざと秦女の美を誇張して邪心を動かそうと思っていました。ちょうど平王が先に質問したため、費無極はこう答えました「臣が見てきた女子は大勢いますが、孟嬴ほど美しい者は見たことがありません。楚国の後宮に匹敵する者がいないだけではなく、古来伝えられている絶色の妲己や驪姫ですら、いたずらにその名を残しているだけで、恐らく孟嬴には万に一つも及ばないでしょう。」
平王は秦女の美を聞いて興奮し、顔を赤くして暫く言葉が出ませんでした。
やがて、ゆっくり嘆息して言いました「寡人は自ら王を称したが、そのような絶色に会えなかった。誠に一生を空虚に過ごしたようなものだ。」
すると費無極が左右の人払いをして秘かにこう言いました「王が秦女の美を慕っているのなら、なぜ自ら取らないのですか?」
平王が言いました「我が子の婦人とするために招いたのだ。人倫に背くことになるだろう。」
費無極が言いました「害はありません。秦女は確かに太子に嫁ぐためにきました。しかしまだ東宮に入ってはいません。王が宮中に迎え入れても、誰も異議を唱えません。」
平王が言いました「群臣の口は制することができるが、どうやって太子の口を塞ぐのだ?」
費無極が言いました「従媵の中に斉女がおり、その才貌も普通ではありません。秦女の代わりになれます。まず秦女を王宮に進め、その後、斉女を東宮に進めて、機関(からくり。陰謀)を洩らさないように言い聞かせれば、双方の秘密を隠して百美を全うできます。」
喜んだ平王は費無極に命じて秘密裏に行動させました。
 
費無極が秦の公子蒲に言いました「楚国の婚礼は他国と異り、まず入宮して舅姑に会ってから成婚することになっています。」
公子蒲は「命に従います」と答えました。
費無極は軿車に命じて孟嬴と妾媵を全て王宮に入れさせてから、孟嬴を留めて斉女を東宮に送りました。宮中の侍妾を秦の妾媵に化けさせ、斉女を孟嬴の姿にし、太子建に迎え入れさせて東宮で婚礼を挙げます。満朝の文武百官も太子も、費無極の詐術を知りませんでした。
孟嬴が「斉女はどこですか?」と問うと、費無極は「既に太子に下賜されました」と答えました。
 
平王は太子に秦女の事を知られないため、太子が入宮することを禁止し、母子が会うことも許しませんでした。
平王は朝夕とも秦女と共に後宮で宴を楽しみ、国政を顧みなくなります。
しかし宮外では論議の声が揚がり、多くの人が秦女の婚姻を疑い始めました。
費無極は太子が陰謀を知って禍変を生むのではないかと恐れ、平王にこう言いました「晋が久しく天下に霸を称えることができたのは、その地が中原に近いからです。かつて霊王が陳と蔡の城を大修築し、中華を鎮めました。これは霸を争う基礎です。今、二国を再び封じたため、楚は南方に退いて守ることになりました。これでは我が国の業を隆盛させることができません。太子を派遣して城父を守らせ、北方と交通するべきです。(太子が北方を制して)王が南方の事に専念すれば、坐して天下を画策することができます。」
平王は躊躇して何も言いません。そこで費無極が耳元で言いました「秦との婚姻の事は、久しく時が経てば必ず洩れてしまいます。太子を遠ざけることができるのなら、二つの利を同時に得られるのではありませんか?」
平王は大いに悟って太子建に城父の鎮守を命じました。奮揚を城父の司馬に命じて「太子に仕えるのは寡人に仕えるのと同じだ」と諭します。
伍奢が費無極の讒謀を知って諫言しようとしました。しかし費無極がそれを察知したため、平王に進言して伍奢も城父に送らせました。伍奢は太子の補佐を命じられます。
 
太子が出発してから、平王は秦女孟嬴を夫人に立てました。太子の母蔡姫は後宮から出して鄖(恐らく「」の誤り)に帰らせます。
太子はこの時になって初めて秦女が父によって入れ換えられたと知りましたが、既にどうしようもありません。
 
 
 
*『東周列国志』第七十一回その四に続きます。