第七十一回 晏平仲が三士を殺し、楚平王が世子を逐う(四)

*今回は『東周列国志』第七十一回その四です。
 
孟嬴は平王の寵愛を受けましたが、平王が年老いていたため心中不満でした。
平王も自分が相応しい相手ではないことを知っていたため、不満そうにしている孟嬴に理由を問いませんでした。
年を越えて孟嬴が一子を生みました。平王は珍宝のように溺愛し、珍と名付けます。
珍が満一歳になってから、平王が始めて孟嬴に問いました「卿が入宮してから、愁嘆が多く歓笑が少ないのはなぜだ?」
孟嬴が言いました「妾(私)は兄の命を受けて君王に仕えに来ました。妾は秦と楚が対等の国で、青春(年齢)も匹敵すると思っていました。しかし宮庭に入ってから王の春秋(年)が鼎盛(盛ん。ここでは年をとっていること)なことを知りました。妾は王を怨むのではありません。自分が生まれた時が及ばなかったことを(平王の年に自分が遠く及ばないことを)嘆いているのです。」
平王が笑っていいました「これは今生の事ではない。宿世の姻契(前世から決められた婚縁)だ。卿は寡人に嫁ぐのが遅かったが、后(王の正妻)になるのは何年も早くなった。」
孟嬴は平王の言を不思議に思い、宮人に問い質しました(孟嬴は自分が太子に嫁ぐはずだったことを知らなかったようです)。宮人は隠し通すことができず、いきさつを全て話しました。
孟嬴は悲しくなって涙を流します。
平王は孟嬴の意を察し、百計を弄して媚び始めました。孟嬴が生んだ珍を世子に立てる約束もします。孟嬴はやっと少し落ち着きました。
 
費無極は常に太子建の存在を憂慮していました。後日、太子が即位したら禍が自分に及びます。そこで機会を見つけて平王にこう言いました「世子と伍奢に謀叛の心があると聞きました。彼等は秘かに人を送って斉晋二国と通じ、協力を約束しているようです。王は警戒するべきです。」
平王が言いました「我が子は柔順だ。なぜそのような事があるのか。」
費無極が言いました「太子は秦女の件で久しく怨望を抱き、城父で甲冑や兵器を整えています。また、太子は『穆王は大事を行ったから(成王を殺して即位したから)、楚国を享受して子孫を繁栄させることができたた』とも言っており、それに倣うつもりです。王が行動を起こさないようなら、臣が先に辞すことをお許しください。他国に逃げて誅戮から免れるつもりです。」
平王は元々太子建を廃して少子珍を立てようと思っていたため、費無極の言葉に気持ちが動き、信じていなかったことも信じるようになりました。そこで令を伝えて太子建を廃しようとします。
すると費無極が言いました「世子は外で兵権を握っています。もし令を伝えて廃したら謀反を誘うことになります。太師伍奢は謀主なので、王はまず伍奢を招き、それから兵を送って世子を捕えるべきです。そうすれば王の禍患を除くことができます。」
平王は納得して人を送り、伍奢を招きました。
 
伍奢が来ると平王が問いました「建に叛心があることを汝は知っているか?」
伍奢は剛直な性格だったため、こう答えました「王が自分の子の婦人を納れたのは既に過ちです。そのうえ、細人(小人)の話を聞いて骨肉の親情を疑い、なぜ平気でいられるのですか。」
平王はこの言を恥と思い、左右の近臣を叱咤して伍奢を捕えさせました。
費無極が言いました「奢は王が夫人を納れたことを誹謗しました。その怨望は明らかです。太子が奢の囚(逮捕)を知ったら必ず動きます。斉晋の衆には対抗できません。」
平王が言いました「人を送って世子を殺そうと思う。誰を送るべきだ?」
費無極が言いました「他の者を送ったら太子は必ず抵抗して戦います。秘かに司馬の奮揚に命じ、太子を襲って殺させるべきです。」
平王は使者を送って奮揚にこう命じました「太子を殺せば上賞を受けることができる。太子を放したら死刑に値する。」
 
太子暗殺の命令を受けた奮揚はすぐに心腹を送って太子に伝え、「速く逃げてください。一刻も遅れてはなりません」と教えました。
この時、太子建と斉女の間に子が生まれていました。名を勝といいます。奮揚の報告に驚いた太子建は妻子を連れて連夜、宋国に出奔しました。
奮揚は太子が既に去ったと確認してから、城父の人に自分を縛らせて郢都に送らせました。
 
奮揚が平王に言いました「世子は逃げました。」
平王が激怒して言いました「言(命令)は余の口から出て汝の耳に入った。誰が建に告げたのだ!」
奮揚が言いました「臣が世子に告げました。君王はかつて臣にこう命じました『建に仕えるのは寡人に仕えるのと同じだ。』臣は謹んでこの言を守り、二心を持てませんでした。だから世子に伝えたのです。後に罪が我が身に及ぶことを想いましたが、後悔しても間に合いませんでした。」
平王が言いました「汝は勝手に太子を逃がしたのに、また寡人に会いに来た。死を畏れないのか?」
奮揚が言いました「王の後命(新たな命)を奉じることができず、更に死を畏れて来なかったら、二つの罪を犯したことになります。また、世子には叛形(謀反の形跡)がなく、殺しても名分がありません。君王の子を生かすことができるのなら、臣は死を幸とします。」
平王は太子に同情して慚愧の色を浮かべました。
久しくして平王が言いました「奮揚は命に逆らったが、その忠直は嘉するべきだ。」
平王は奮揚の罪を赦して再び城父の司馬に任命しました。
秦女が生んだ子珍が太子になり、費無極が太師になります。
 
費無極が言いました「伍奢には二人の子がおり、尚と員といいます。どちらも人傑なので、もし呉国に出奔したら楚の憂患となります。父の罪を免じると称して二人を招くべきです。彼等は父を愛しているので必ず招きに応じます。招きに応じて来たところを全て殺せば、後患から免れることができます。」
平王は進言に喜び、獄中から伍奢を出しました。
伍奢が来ると、平王は左右の近臣に紙(当時はまだ紙がありませんが、原文のままにしておきます)と筆を持たせ、伍奢にこう言いました「汝は太子に謀反を教えた。本来なら斬首して衆に示すところだ。しかし汝の祖父(祖父と父)が先朝で立てた功を想うと、罪を加えるのが忍びない。汝は書を記して二子を朝廷に帰順させよ。改めて官職を封じ、汝を釈放して田地に帰らせよう。」
伍奢は楚王が騙して父子共に処刑しようとしていると知り、こう言いました「臣の長子尚は慈温仁信なので、臣が招いていると聞けば必ず来るでしょう。しかし少子員は幼い頃から文を好み、成長してからは武を習いました。彼の文才は邦(国)を安んじることができ、武才は国を定めることができ、また屈辱を忍んで大事を成すこともできます。前知の士(予知の力がある人材)なので招きに応じることはありません。」
平王が言いました「汝は寡人の言う通りに書信を書いて二子を招け。彼等が来ないとしても、汝には関係ない。」
伍奢は君父の命に逆らうことができず、殿上で書信を書きました。その内容はこうです「尚員の二子に告げる。私は諫言を進めて王の旨(意思)に背いたため、縲絏(監獄)で罪(刑)を待っている。しかし我が王は我が祖父の先朝における功を念じて一死を免じた。群臣に議功贖罪(功績を考慮して贖罪の方法を議論すること)させた結果、汝等の官職を改めて封じることになった。汝等兄弟は星夜を通して入朝せよ。もし命に背いて遅くなったら、必ず罪を得ることになる。書が届いたら速やかに行動せよ。」
伍奢が書き終えた書信を平王に渡しました。平王は内容を確認してから封を閉じ、再び伍奢を獄に入れました。
 
平王は鄢将師を使者に任命して駟馬で封函印綬(伍奢の書信と封侯の印綬を棠邑に届けさせました。
しかし伍尚が城父に帰っていたため、鄢将師は城父に向かいます。
鄢将師は伍尚に会うと「おめでたいことです(賀喜)!」と言いました。
伍尚が問いました「父が捕らえられているのに何を祝賀するのですか?」
鄢将師が言いました「王は誤って人の言を信じ、尊公(尊父)を捕えてしまいましたが、群臣があなたの家は三世にわたる忠臣だと保証したため、王は内に対しては誤った言に従ったことを恥じ、外に対しては諸侯の恥となったことを後悔しています。そこで尊公を相国に任命し、二子を侯に封じることにしました。尚には鴻都侯が、員には蓋侯が賜われます。尊公は久しく繋がれていましたが、やっと釈放されたので、二子に会いたいと思ってこの手書(手紙)を書き、某(私)に迎えに来させました。速く駕(車)を準備して尊公の気持ちを慰めてください。」
伍尚が言いました「父が捕らえられてから心が割かれるようでした。釈放されるだけでも幸いなのに、なぜ印綬を貪ることができるでしょう。」
鄢将師が言いました「これは王命です。辞退してはなりません。」
伍尚は喜んで父の書を受け取り、部屋に入って弟の伍員に話しました。
 
伍員が招きに応じるかどうか、続きは次回です。

第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(一)