第七十二回 棠公尚が父の難に奔り、伍子胥が昭関を通る(二)

*今回は『東周列国志』第七十二回その二です。
 
伍員は一日も経たずに宋国に入りました。太子建を見つけた伍員は頭を抱きかかえて慟哭し、互いに平王の過悪を訴えました。
伍員が問いました「太子は宋君に会いましたか?」
太子建が答えました「宋国では乱が起きており、君臣が攻撃し合っている。私はまだ謁見を求めていない。」
 
宋君は名を佐といい、宋平公の嬖妾が生んだ子でした。
平公は寺人伊戾の讒言を聞いて太子痤を殺し、佐を後嗣に立てました。
周景王十三年、平公が死んで佐が即位しました。これを元公といいます。
元公の為人は、外貌が醜く性格は柔弱で、私心が多く信がありませんでした。世卿・華氏の強盛を嫌ったため、公子寅、公子御戎、向勝、向行等と共に華氏を除く方法を謀ります。
ところが向勝がその謀を向寧に洩らしてしまいました。
向寧は華向、華定、華亥と親しかったため、先手を打って乱を謀ります。
まず、華亥が病にかかったと偽りました。群臣が病状を問うために華亥を訪ねると、華亥は公子寅と御戎を捕えて殺し、向勝と向行を捕えて倉廩の中に拘留しました。
それを聞いた元公は急いで車を準備し、自ら華氏の門を叩いて向勝と向行の釈放を求めました。
しかし華亥は元公も脅迫し、世子と親臣を人質に送れば要求に従うと答えました。
元公が言いました「昔、周と鄭が質を交わした前例がある。寡人は世子を質として卿の家に入れよう。その代りに、卿も子を質として寡人に送れ。」
華氏が集まって商議し、華亥の子華無慼と華定の子華啓および向寧の子向羅を人質として送ることにしました。
元公も世子欒と同母弟の辰および公子地を人質にして華亥の家に送ります。
華亥はやっと向勝と向行を釈放し、元公と一緒に朝廷に還らせました。
 
元公と夫人は世子欒を想い、每日、華氏の家を訪ねました。世子が食事を終えるのを見てから帰ります。
華亥はこれを不便に思い、世子を公宮に帰らせようとしました。それを聞いて元公が大喜びします。
しかし向寧が反対して華亥に言いました「太子を質として要求したのは(国君に)信がないからです。もし質を帰らせたら必ず禍が至ります。」
元公は華亥が考えを変えたと知って激怒し、大司馬華費遂を招いて華氏を攻撃するように命じました。
華費遂が問いました「世子が向こうにいます。主公は世子を想わないのですか?」
元公が言いました「死生には命(天命)がある。寡人はこれ以上の恥辱を忍ぶことができない。」
華費遂が言いました「主公の意が既に決しているのなら、老臣が私族を庇って君命に違うことはありません。」
即日、華費遂は兵甲を整えました。
 
元公が人質の華無慼、華啓、向羅を全て斬首し、華氏を攻撃しようとしました。
華登は元々華亥と仲が良かったため、奔ってそれを告げました。
華亥は急いで家甲を集めて迎撃しましたが、敗戦しました。
向寧が世子を殺そうとすると、華亥が言いました「国君の罪を得た上に国君の子を殺したら、人々が我々を批難するだろう。」
華亥は人質を全て帰らせ、党を率いて陳国に出奔しました。
 
華費遂には三子がいました。華貙、華多僚と華登です。
華多僚は華貙と仲が悪かったため、華氏の乱を利用して元公にこう言いました「華貙は実は華亥と共謀しています。華亥は陳から華貙と連絡を取り、内応を誘っています。」
元公はこれを信じ、寺人宜僚を送って華費遂に華多僚の言葉を伝えました。
華費遂が言いました「それは多僚の讒言です。しかし主公が貙を疑うのなら、追放してください。」
 
華貙の家臣がこの動きを聞き、宜僚に詳しく問い質しました。しかし宜僚は答えようとしません。すると張が剣を抜いて言いました「言わないのならまず汝を殺そう!」
宜僚は懼れて全て話します。
が華貙に報告して華多僚を殺すように請いました。
華貙が言いました「華登が出奔して既に司馬(父華費遂)の心を傷つけた。我々兄弟がまた争ったら、どうして立つことができるのだ(父の前に立つ面目がなくなる)。私は避けるつもりだ。」
華貙は父に別れを告げに行きました。張が同行します。
するとちょうど華費遂が朝廷から出てきました。華多僚が御車を勤めています。
それを一目見た張は怒気を発し、佩剣を抜いて華多僚を斬り殺しました。更に華費遂を強制して共に盧門を出ると、南里に駐留します。
その後、人を陳に送って華亥、向寧等を呼び戻し、反旗を翻しました。
 
宋元公は楽大心を大将に任命して南里を包囲させました。
華登は楚に兵を借ります。楚平王は越に兵を率いて華氏を援けさせました。
 
伍員は楚軍が向かっていると聞き、「宋に住むべきではない」と言いました。太子建とその母を連れて西の鄭国に奔ります。
 
暫くして楚軍が到着して華氏を援けました。
これに対して晋頃公も諸侯を率いて宋を援けます。しかし諸侯は楚との戦いを欲していなかったため、宋に南里の包囲を解くように勧め、わざと華亥、向寧等を楚国に出奔させました。
こうして双方が兵を引き揚げました。
 
 
当時、鄭では上卿公孫僑が死んだばかりで、鄭定公は沈痛していました。
定公は以前から伍員が三代の忠臣の子孫で並ぶ者がいない英雄だと聞いていました。しかも鄭は晋と和睦して楚と敵対しています。太子建が来たと聞くと喜んで行人を賓館に派遣し、廩餼(食糧物資)を届けました。
太子建と伍員は鄭伯に会う度に冤情を哭訴しました。
鄭定公が言いました「鄭は国が小さく兵も少ないので役に立たない。子(汝)が仇に報いたいと思うのなら、晋と謀るべきだ。」
世子建は伍員を鄭に残して自ら晋国を訪ね、晋頃公に会いました。
頃公は詳しく話を聞いてから館駅に送り、六卿を招いて楚討伐を協議しました。六卿というのは魏舒、趙鞅、韓不信、士鞅、荀寅、荀躒を指します。当時の晋では六卿が政治を行っており、それぞれが下になろうとせず、国君の権力が弱くなって臣下が強くなったため、頃公は自分で決定することができませんでした。
六卿の中で魏舒と韓不信だけは賢才の名声がありましたが、他の四卿はどれも権力を貪って威勢に頼っている輩です。中でも荀寅は特に賄賂を愛しました。
鄭で子産が国政を行っていた時は対等の礼を用いており、晋卿も鄭を畏れていました。しかし游吉が代わって執政するようになると、荀寅は秘かに人を送って賄賂を求めました。游吉が拒否したため荀寅は鄭を憎むようになります。
そこで頃公に密奏しました「鄭は晋楚の間で陰陽となり(背反を繰り返しており)、その心が定まらないのは一日のことではありません。今、楚の世子が鄭におり、鄭は世子を信用しています。世子に内応させることができたら、我々が兵を起こして鄭を滅ぼし、鄭の地を太子(世子)に封じましょう。その後、ゆっくり楚を滅ぼす策を謀れば、成功は間違いありません。」
頃公はこの計に従い、荀寅を送って世子建に策謀を伝えました。世子建は喜んで承諾します。
 
世子建は晋頃公に別れを告げて鄭国に帰り、伍員に相談しました。
伍員が諫めて言いました「昔、秦の将杞子と楊孫が鄭国を襲う謀をしましたが、事は成功せず、身を隠す場所も失ってしまいました。人が忠信によって我々を遇しているのに、なぜ謀を成すのですか?これは僥倖(幸運を望むこと)の計です。行ってはなりません。」
しかし世子建はこう言いました「私は既に晋の君臣と約束してしまった。」
伍員が言いました「晋に応じなければまだ罪にはなりません。もし鄭を謀ったら、信も義も失います。これでどうやって生きていくのですか。子(あなた)が実行したら、すぐに禍が至ります。」
世子建は国を得たいと思っていたため、伍員の諫言を聞かず、家財を使って驍勇の士を集めました。また、鄭伯の左右の者に接近して協力を得ようとします。左右の者は賄賂を受け取って世子と結びました。
 
晋国が秘かに人を送って世子建と決起の日を約束しました。ところがそこから計画が徐々に漏れ始めます。ある者が罪を懼れてこっそり自首しました。
鄭定公は游吉と相談し、太子建を後圃の遊行に招きました。従者の同行は禁止します。
世子建が三杯の酒を飲んだ時、鄭伯が言いました「寡人は好意によって太子を受け入れ、怠ることがなかった。それなのに太子はなぜ陰謀を謀ったのだ?」
世子建は「そのようなつもりはありません」と答えます。
すると定公は左右の者に問い質させました(原文「定公使左右面質其事」。定公が自分の近臣を使って太子・建を問いただしたのか、太子・建の近臣を呼び出して定公が直接問い質したのか、はっきりしません。下の文を見ると、恐らく定公の近臣で、賄賂を受け取った者達を使って問い質したようです)。太子建はついに隠しきれなくなります。
鄭伯は激怒して力士に世子建を捕えさせました。宴の席で捕えられた世子建は処刑されます。更に鄭伯の左右に仕える近臣で賄賂を受け取って自首しなかった二十余人も殺されました。
 
伍員は館駅にいましたが、突然、筋肉が痙攣して止まらなくなったため(原文「肉跳不止」。どこの筋肉かはわかりません。心筋かもしれません)、「太子が危険だ」と言いました。
暫くして世子建の従者が駅に逃げ帰り、太子が殺された事を報告します。
伍員はすぐに世子建の子勝を連れて鄭城を出ました。
しかし近隣には逃げる場所がないと判断し、遠く離れた呉国に避難することにしました。
二人は鄭国の追撃を恐れ、昼は隠れて夜の間に移動します。その苦労は測り知れないものでした。
 
陳国に入りましたが、陳は足を落ち着ける場所ではないと考えて再び東に向かいました。
数日後に昭関に近づきます。
昭関は小峴山の西にあり、向き合った二つの山の間の口になっています。廬(二つとも地名)を往来する際の要衝で、関を出れば大江(長江)に臨み、呉へ向かう水路に通じます。
但し、一帯の地形は険隘で、楚が官員を設けて守らせていました。
最近は伍員を捕えるため、特別に右司馬越が派遣されており、大軍が駐軍しています。
 
 
 
*『東周列国志』第七十二回その三に続きます。