戦国時代117 秦王政(三) 『呂氏春秋』 前239年
今回は秦王政八年です。
秦王政八年
前239年 壬戌
[一] 魏が趙に鄴を譲りました。
[二] 韓桓恵王が在位三十四年で死に、子の安が立ちました。韓国最後の王になります。
『秦始皇本紀』に戻ります。
秦王は成蟜の軍吏を全て処刑し、屯留の民を臨洮に遷しました。
秦の民は軽車重馬(軽車や肥馬)を使って東に向かい、食糧を求めました。
『索隠』は人々が黄河沿岸に移って魚を食糧にしたという説と、「河魚大上」という災害を避けて人々が食糧を求めるために東に遷ったという説を紹介しています。
秦は嫪毐に山陽の地を与えてそこに住ませました。宮室、車馬、衣服、苑囿、馳猟が全て嫪毐の意思に委ねられ、事の大小を問わず全て嫪毐が決定しました。また、河西(または「汾水西」)の太原郡を毐国に改めました。
呂不韋は禍が自分の身に及ぶことを恐れるようになりました。
そこで呂不韋は秘かに大陰の者(陰茎が大きい者)を探し、嫪毐を舍人にしました。その後、しばしば宴を開いて倡(役者。道化)に音楽を奏でさせ、嫪毐に芸を披露させます。その芸とは、陰茎を車軸に見立てて桐輪(桐木の車輪)に挿し、車輪を回して歩かせるというものです。
呂不韋は嫪毐を太后に献上する機会が来たと知ると、まず部下に嫪毐が腐罪(去勢の刑に値する罪)を犯したと告発させました。同時に呂不韋は太后にもこう伝えました「偽りの腐刑(宮刑。去勢)を行えば、給事(宮中で働く使用人)の中から彼を得ることができます。」
暫くして太后は嫪毐の子を妊娠しました。人に知られることを恐れた太后は、「卜を行ったところ、住む場所を変える必要があると出ました」と偽り、雍の宮殿に遷りました。嫪毐は常に太后に従い、豊富な賞賜を与えられます。
嫪毐は太后の傍にいるおかげで権力を掌握しました。太后に代わって嫪毐が政治の決定を降すようになります(秦王は若いため親政していません)。そのため、嫪毐の家僮は数千人に膨れ上がり、官職を求めて嫪毐の舍人になる者も千人を越えました。
当時、荀卿(荀子)のような諸侯の辯士は、多くが文書を書いて天下に公開していました。そこで呂不韋も食客の見聞を書き記し、編集して八覽、六論、十二紀の二十六巻にまとめました。二十余万字に及ぶ大作になります。
その内容は天地万物から古今の事に及び、儒家・道家を始め諸学派の説を取り入れ、易学、陰陽、五行、養生、軍事、政治、音楽、天文、気象、農業、地理等、多岐にわたりました。これを号して『呂氏春秋』といい、別名『『呂覧』ともいわれています。
ここから「一字千金」という成語が生まれました。「非常に優れた文章」を形容する時に使われます。
尚、『呂氏春秋』が完成した年は『季冬紀・序意』に「維秦八年,歳在涒灘」とあることから、秦王政八年(本年。前239年)とする説と、「涒灘」は古代の紀年で使う言葉で「申」を表すため、二年前の秦王政六年(前241年。庚申の年)に当たるという説があります。秦王政六年だとしたら、秦荘襄王元年(前248年)に秦が東周を滅ぼしてから八年(足掛けでは九年)になります。
次回に続きます。