戦国時代116 秦王政(二) 合従の失敗 前243~240年

今回は秦王政四年から七年までです。
 
秦王政四年
243年 戊午
 
[] 春、秦の蒙驁が魏を攻めて畼と有詭を取りました。
三月、秦が兵を退きました。
 
[] 『史記趙世家』から趙と秦の出来事です。
秦が趙の春平君を招いて拘留しました。
泄鈞(人名)が春平君を助けるため、秦の文信侯呂不韋に言いました「春平君は趙王にとても愛されていますが、郎中(近臣)からは妬まれています。そのため郎中達が共に『春平君を秦に入れさせれば、秦は必ず拘留するだろう』と謀りました。だから春平君が秦に送られることになったのです。今、貴国が春平君を留めていますが、これでは趙との関係を断って郎中の計に陥ることになります。春平君を還して平都(平都侯?)を留めるべきです。春平君の言行は趙王に信任されています(春平君に恩を着せれば秦のためになります)。しかも趙王は平都を贖うために趙の地を広く割くはずです。」
文信侯は同意して春平君を帰国させました。
 
『趙世家』の注(『集解』と『正義』)は「春平君」を趙の太子としています。『六国年表』に「秦で人質になっていた趙の太子が帰国した」とあるからです。
『秦始皇本紀』と『資治通鑑』にも「秦の質子が趙から帰国し、趙の太子も秦から趙に帰った」と書かれています。
「平都(平都侯?)」が誰を指すのかはわかりません。
 
[] 七月、秦を蝗害と疫病が襲いました。
百姓に食糧を提供させ、粟千石に爵位一級を与えることにしました。
 
これは『資治通鑑』の記述で、『史記六国年表』にも書かれています。
『秦始皇本紀』には、「十月庚寅、蝗蟲が東方から飛んできて天を覆った。天下で疫病が流行った。秦は粟千石を国に納めた百姓()爵位一級を与えた」とあります。
『秦始皇本紀』の「十月」は「七月」の誤りのようです。『六国年表』も七月としています。
 
[] 魏安釐王が在位三十四年で死に、太子増が即位しました。これを景湣王といいます
 
これは『史記魏世家』と『資治通鑑』の記述です。『世本(秦嘉謨輯補本)』を見ると、景湣王の名は「午」となっています。
 
史記魏世家』によると、魏の信陵君魏無忌(安釐王の弟)もこの年に死にました(秦荘襄王三年247年参照)

[] 『史記』の『燕召公世家』『趙世家』『六国年表』によると、この年、趙の李牧が燕を攻めて武遂と方城を取りました。
資治通鑑』は前年に書いています。

[] 『史記趙世家』によると、趙が韓皋に築城しました。
 
 
 
翌年は秦王政五年です。
 
秦王政五年
242年 己未
 
[] 秦の将軍蒙驁が魏を攻めて酸棗、燕(旧南燕国)、虚、長平、雍丘、山陽等の三十城を取りました。
東郡が置かれます。
 
史記秦始皇本紀』の注(索隠)は『戦国策』から「燕の酸棗、虚、桃人を攻略した」という記述を引用しています。桃人も魏の邑名です。
 
尚、秦が三十城を取ったというのは『資治通鑑』の記述で、『史記秦始皇本紀』『魏世家』『燕召公世家』『六国年表』は二十城としています。
 
[] 以前、劇辛が趙にいた頃、龐煖と仲が良くなりました。
その後、劇辛は燕に仕えました(東周赧王三年・前312年に劇辛が燕に仕えたという記述があります。秦王政の時代にはかなりの老齢だったはずです)
燕王は趙が頻繁に秦に攻撃されており、しかも廉頗が去って龐煖が将になったのを知り、趙を攻撃しようとしました。劇辛に意見を求めると、劇辛は「龐煖は与しやすい相手です(龐煖易與耳)」と答えます。
龐煖なら容易に勝てるという意味です。
そこで燕王は劇辛を将に任命して趙を攻撃させました。
しかし趙は龐煖に燕軍を迎撃させてに大勝します。劇辛は殺され、燕軍二万が捕らえられました。
 
史記燕召公世家』はこの戦いがいつ起きたか明確にしていませんが、『趙世家』『六国年表』が本年としており、『資治通鑑』も本年に書いています。
 
[] 『史記秦始皇本紀』によると、冬に雷が落ちました。
 
[] 『史記六国年表』によると、趙相と魏相が柯で会して盟を結びました。
 
 
 
翌年は秦王政六年です。
 
秦王政六年
241年 庚申
 
[] 諸侯は秦の攻伐が止まらないことを憂慮していました。
そこで楚衛が合従して秦を攻撃しました。楚王が従長になります。
楚の春申君が指揮して寿陵を取り、函谷関に至りました。しかし秦軍が反撃すると、五国の連合軍は敗走しました。
楚王は春申君を譴責し、春申君はますます疎遠にされました。
 
以上は『資治通鑑』の記述で、『史記秦始皇本紀』も「韓楚が共に秦を撃ち、寿陵を取った。秦が出兵すると五国は兵を退いた」としています。
しかし『史記趙世家』は「龐煖(趙将)が趙燕の鋭師を率いて秦の蕞を攻めたが攻略できず、斉に兵を遷して饒安を取った」としています。
『秦始皇本紀』には燕がなく衛があり、『趙世家』には衛と韓がなく燕が入っています。楊寛の『戦国史』では、衛は既に魏によって滅ぼされているので(秦昭襄王五十五年252年参照)、「趙韓の五国」としています。
どの記述にも斉は入っていません。秦との戦いに失敗してから趙が斉を攻撃しているので(『趙世家』)、斉が参加しなかったのは確かなようです。
 
また、『資治通鑑』は『史記・春申君列伝(巻七十八)』を元に楚王を合従の長としていますが、『趙世家』では趙の龐煖が指揮しています。
 
いずれにしても、諸侯が合従して秦に抵抗を試みましたが、失敗に終わりました。
この戦いが合従の最後の戦いとされています。
 
[] 楚の観津の人朱英が春申君に言いました「人は皆、楚は強国だったのに、あなたを用いてから弱くなったと思っています。しかし私の考えは違います。先君の時代、秦は楚と友好関係にあり、二十年にわたって楚を攻めることがありませんでした。それは秦が黽阨の塞を越えて楚を攻めるのが不便だったからであり、両周に道を借りたとしても、韓と魏が背後から楚を襲う恐れがあったからです。しかし今は違います。魏は旦暮(朝晩)には亡び、許と鄢陵を守ることもできません。魏がこの二つの地を秦に譲ったら、秦兵は陳(楚都)から百六十里に迫り、秦楚の戦いが止まなくなります。」
朱英の言に納得した楚は、陳を去って東の寿春を都とし、郢と命名しました(楚はこれ以前に陳から鉅陽に遷都しているはずです。秦昭襄王五十四年253年参照)
春申君は封地の呉で相として政治を行いました。
 
[] 秦が魏の朝歌と衛の濮陽を取りました。
衛元君は支属(宗族)を率いて濮陽から野王(地名)に遷りました。野王は魏の河内で山険に守られています。
 
以上は『資治通鑑』の記述です。
史記衛康叔世家』は衛元君十四年に「秦が魏の東地を取った。秦が東郡を置いて衛を野王県に遷した。更に濮陽を取って東郡に併せた」としていますが、『六国年表』では衛元君元年を秦昭襄王五十五年(前252年)にしているので、秦が東郡を置いたのは元君十一年(秦王政五年242年。前年)、衛を野王に遷したのは元君十二年(本年)になります。
 
また、『秦始皇本紀』は「秦が衛を占領して東郡に迫った。衛君(衛元君ではありません)は支属を率いて野王に遷った」としています。
楊寛の『戦国史』は、この時、衛は既に魏に滅ぼされているため、衛元君は存在せず、秦が改めて衛君角を立てて復国させたとしています。秦昭襄王五十五年(前252年)に書いたので再述は避けます。
 
 
 
翌年は秦王政七年です。
 
秦王政七年
240年 辛酉
 
[] 『史記秦始皇本紀』からです。
彗星が東方に現れてから北方に移りました。
五月には西方に現れます。
 
その頃、秦の将軍蒙驁が死にました。
 
秦が趙の龍、孤、慶都(または「麃都」)を攻め、更に兵を還して魏の汲を攻めました。
『魏世家』『六国年表』によると、汲は秦に攻略されました。
 
彗星が再び西方に十六日間現れました。
秦の夏太后荘襄王の母)が死にました。
 
[] 『史記趙世家』によると、趙が傅抵(人名)を将にし、平邑に駐軍させました。
また、慶舍が東陽河外の軍を率いて河梁黄河の橋)を守りました。
 
 
 
次回に続きます。