戦国時代122 秦王政(八) 秦・趙・燕の戦い 前236年
今回は秦王政十一年です。
秦王政十一年
前236年 乙丑
[一] 趙人が燕を攻めて貍陽城を取りました。
『資治通鑑』胡三省注は、桓氏は元々姜姓で、斉桓公の子孫が諡号を氏にしたという説を紹介したうえで、斉桓公の前にも周桓王、魯桓公、晋の桓・荘の族がいるので、桓氏の祖を斉桓公とするのは相応しくないと解説しています。
秦軍は趙の鄴を攻めて周辺の九城を取りました。
精鋭を率いた王翦は鄴と安陽を取りました。
後に桓齮が将になりました。
趙が亀や筴によって燕に対する北伐を占いました。武力で燕を自分の陣営に加えさせて秦に対抗するつもりです。占の兆は大吉と出ました。そこで趙は大梁を攻めます(原文「攻大梁」。大梁は魏都なので、恐らく誤りです。『韓非子集解』は「大梁を出た(出大梁)」としています)。ところがその間に秦が上党を出ました(原文「出上党」。『韓非子集解』は「上党を攻めた(攻上党)」の誤りとしています)。
趙の兵が燕の釐(恐らく上述の「貍」)に至った時、趙の六城が秦に攻略されました。趙の兵が陽城に至った時には秦が鄴を攻略しました。
趙将・龐援(龐煖)が兵を指揮して南に向かいましたが、既に鄣水一帯(鄴周辺)が占領されていました。(略)
秦は自国の占の大吉によって(占で大吉を得て出兵したため)、地を開くという実利を得た上に燕を救ったという名声も得ました。
趙は自国の占の大吉によって(占で大吉を得て出兵したため)、地が削られ兵を辱め、国主は意を得ることなく(満足することなく)死んでしまいました(趙悼襄王は本年に死にます。下述)。
『戦国策・燕策三』にも秦、趙、燕の出来事が書かれています。この年の事ではないかもしれませんが併せて紹介します(『戦国策校注』は趙が燕を攻め、秦が鄴を占領した時の事としています)。
秦が趙を服従させたため、趙に北の燕を攻撃させました。それを聞いた燕王は使者を送って秦王を祝賀することにしました。しかし使者が趙を通った時、趙に捕えられてしまいました。
使者が趙王に言いました「秦と趙が一になっているから天下が服すのであり、燕が趙の命に従ってきたのも(後ろに)秦がいるからです。今、臣が使者として秦に向かったのに、趙は臣を捕えました。これでは秦と趙に間隙を作ることになります。秦と趙に間隙ができたら天下が服さなくなり、燕も(趙の)命を受けなくなります。そもそも、臣が使者として秦に行くことが、趙の燕討伐に何の影響があるのですか。」
趙王は納得して使者を釈放しました。
秦王が言いました「燕は無道(道理がないこと)だ。わしは趙に燕を攻略させようとしているのに、子(汝)は何を祝賀するのだ。」
使者が言いました「全趙の時(趙が独立していた時)は、南は秦と隣接し、北は益陽を下して燕と接していました。趙は三百里の広さで秦と対抗し、五十余年に及びました。結局、趙が秦に勝てなかった理由は国が小さくてその地から採れるものがなかったからです。しかし今、趙が北の燕を併呑したら、燕と趙が協力して秦の命を受けなくなるでしょう。臣は王のためにそれを心配します。」
秦王は考えを変えて燕を援ける兵を起こしました。
[二] 趙悼襄王が在位九年で死に、子の遷が立ちました。これを幽繆王といいます。
幽繆王という諡号に関して、『趙世家』に注釈があります。まずは『集解』です。
「幽繆王は『湣王』ともいう。しかし『世本』には『孝成王・丹が悼襄王・偃を生み、偃が今王・遷を生んだ。『年表(六国年表)』および『史考(恐らく魏晋時代に編纂された『古史考』)』では、趙遷には諡号がない』と書かれている。」
次は『索隠』です。
「趙王・遷には諡号がないはずだが(趙王・遷は趙国最後の王になります)、ここで幽繆王といっているのは、秦が趙を滅ぼしてから、人臣が秘かに追謚したのであろう。あるいは、太史公(司馬遷)には別の見聞があり、それを元に諡号を記したのかもしれない。」
『六国年表』は翌年を「趙王遷元年」としていますが、『集解』は「幽愍元年」と注釈しています。
『趙世家』と『資治通鑑』に戻ります。
幽繆王の母は倡(妓女)でしたが、悼襄王に寵愛されました。悼襄王は嫡子・嘉を廃して遷を太子に立てました。
しかし遷は素行が悪いことで国中に名が知られていました。
諸侯の賓客が呂不韋を訪ねてそれぞれの国に仕官するように誘います。
秦王は呂不韋が心変わりすることを恐れて書を送りました。その内容はこうです「あなたは秦に対して何の功があって河南に封じられ、十万戸の収入を得ているのだ。秦にとってどのような親があって仲父と号しているのだ。家属と共に蜀に遷れ。」
呂不韋は自分の立場が次第に危うくなっていると知り、誅殺を恐れました。
次回に続きます。