第七十七回 申包胥が兵を借り、楚昭王が国に還る(二)

*今回は『東周列国志』第七十七回その二です。
 
秦哀公は大将子蒲と子虎に車五百乗を指揮させ、申包胥に従って楚を救うように命じました。
申包胥が言いました「我が君は隨で救援を待ち望んでおり、その姿は大旱に雨を望む時のようです。胥(私)が一足先行して寡君に報告します。元帥は商、穀(両方とも地名)から東進してください。五日で襄陽に至ります。そこで南に曲がれば荊門に着きます。胥は楚の余衆を率いて石梁山から南に向かいます。二カ月もせずに合流できるでしょう。呉は戦勝に頼って備えをしておらず、しかも軍士は国外におり、久しく帰郷を望んでいます。もし敵の一軍を破ることができれば、自然に瓦解します。」
子蒲が言いました「我々は路徑(道)を知らないので楚兵の先導が必要です。大夫は期日に遅れることがないように願います。」
 
申包胥は秦軍に別れを告げると昼夜を駆けて隨に至り、昭王に謁見してこう言いました「臣が秦に出兵を請い、同意を得ることができました。秦兵は既に国境を出ました。」
昭王は大喜びし、隨侯に言いました「卜人が『西隣(秦)が虎となり、東隣(呉)が肉(餌)となる(西鄰為虎,東鄰為肉)』と言ったが、秦は楚の西にあり、呉は東にある。卜の言が当たった。」
 
この時、延、宋木等も残った兵を集めて随に入り、昭王に従っていました。子西と子期は隨の兵も起こして共に出発します。
秦軍は襄陽に駐軍して楚軍を待っていました。
申包胥が子西、子期等を秦の将帥に紹介します。
楚軍が先行し、秦軍が後に続きました。沂水で夫概の軍に遭遇します。
子蒲が申包胥に言いました「子(あなた)が楚師を率いてまず呉と戦ってください。我々は後から合流します。」
申包胥は夫概の軍と交戦しました。
夫概は勇に頼っており、申包胥も眼中にありません。しかし十余合戦っても勝敗が決しませんでした。そこに子蒲と子虎が兵を駆けて向かって来ます。
夫概は旗号に秦の字があるのを見て驚き、「西兵がなぜここにいるのだ!」と言うと急いで撤兵しました。大半の兵を損ないます。
子西、子期等は勝ちに乗じて五十里進んでからやっと追撃を止めました。
 
夫概は郢都に逃げ帰って呉王に会うと、秦兵の勢いが激しくてとても対抗できないことを報告しました。
闔閭が懼れを顔にしたため、孫武が言いました「兵(戦。武器)とは凶器(危険なもの)です。一時的に用いることはできても久しく使ってはなりません。また、楚の土地はまだ広く、人心も呉に服そうとしていません。以前、臣が羋勝を立てて楚を慰撫するように求めたのは、正に今日の変を憂慮したからです。今の計を謀るなら、使者を送って秦と通好し、楚君を復すことに同意し、楚の西鄙を割いて呉の国境を増すべきです(原文「割楚之西鄙以益呉疆」。楚を割いて呉の領土にするのなら、割くのは東鄙のはずです。楚の西部だけを楚に返すという意味かもしれません)。これなら主公に利がないわけではありません。もし長い間、楚宮を惜しんで秦と対峙したら、楚人は憤激して力を尽くすでしょう。一方の呉人は驕って怠惰になっており、しかも虎狼の秦が楚に加わるので、臣には万全を保つ策がありません。」
伍員も楚王を得ることができないと判断し、孫武の言に同意しました。二人の意見を聞いて闔閭も撤兵しようとします。
しかし伯嚭が進み出てこう言いました「我が兵は東呉を離れてから一路破竹の勢いで進攻し、五戦して郢を抜き、楚の社稷を平らげました。今、たった一度秦兵に遭遇しただけですぐに班師しようとしていますが、始めは勇があったのに後から怯(臆病)になったのですか。臣に兵一万をくだされば、秦兵の片甲(甲冑の破片。または一着の鎧。一兵の意味)も帰らせません。もし勝てなかったら甘んじて軍令(軍法)に従います。」
闔閭は壮言を称えて同意しました。孫武と伍員が交戦しないように強く諫めても伯嚭は聞きません。
伯嚭が兵を率いて城を出ました。
 
両軍は軍祥で遭遇しました。それぞれ陣を構えます。
伯嚭は遠くから楚軍を眺めて隊列が整っていないと判断し、戦鼓を鳴らして車を駆けさせました。
ちょうど子西に遭遇したため大声で罵りました「汝のような万死の残りが、まだ寒灰(冷たくなった灰)を再び熱くさせたいと思っているのか!」
子西も罵って言いました「背国の叛夫!どの顔で会いに来たのだ!」
伯嚭は怒って戟を持ち、子西に突進します。子西も戈を揮って迎え撃ちました。
しかし数合で子西が偽って敗走します。伯嚭がそれを追って二里にも至らない所で、左から沈諸梁の一軍が、右から延の一軍が襲って来ました。秦の将子蒲と子虎も生力軍(主力)を率いて呉陣の中央を貫きます。三路の兵が呉兵を三か所に分断しました。伯嚭は左右を衝いて脱出しようとしましたが、包囲を破れません。
そこに伍員の兵が到着し、秦軍に突入して伯嚭を救い出しました。一万の軍馬で残ったのは二千人もいませんでした。
 
伯嚭は自らを縛って呉王に会い、刑を待ちました。
孫武が伍員に言いました「伯嚭は功を誇って自分を過信しています。後に必ず呉国の患となるでしょう。今回の敗戦を機に、軍令によって斬るべきです。」
しかし伍員はこう言いました「彼には喪師(軍を失うこと)の罪があるが、前功は小さくない。それに敵が目前にいるのだから、一人の大将を斬るべきではない。」
伍員は呉王に進言して伯嚭の罪を赦させました。
 
秦兵が郢都に迫りました。
闔閭は夫概に命じて公子山と共に城を守らせ、自ら大軍を率いて紀南城に駐軍します。伍員と伯嚭はそれぞれ磨城と驢城を守り、犄角の勢を作って秦軍と対峙しました。
また、唐と蔡に使者を送って出兵を要求しました。
楚の将子西が子蒲に言いました「呉は郢を巣穴としており、堅壁によって対峙しています。もし更に唐と蔡が呉を助けたら、とても敵わなくなってしまいます。隙を窺って唐に兵を加えるべきです。唐を破れば蔡人は懼れて守り固めるので、我々は呉に力を集中できます。」
子蒲はこの計に同意し、子期と共に一隊の兵を率いて唐城を襲いました。唐成公を殺してその国を滅ぼします。
蔡哀公は懼れて出兵できなくなりました。
 
夫概は楚を破った首功を自負していましたが、沂水の一敗が原因で呉王から郢都を守るように命じられ、心中不満で鬱鬱としていました。
呉王と秦が対峙して決着がつかないと聞くと、突然心を動かしてこう考えました「呉国の制(制度)では、兄が死んだら弟が継ぐことになっている(兄終弟及)。次はわしが位を継ぐべきだ。しかし王は既に自分の子の波を太子に立てた。これではわしは即位できない。大兵が出征して国内が空虚になっている隙に帰国し、王を称して位を奪おう。後になって位を争うよりもいいはずだ。」
夫概は自分の軍馬を率いて秘かに郢都東門を出ました。漢水を渡って帰国し、偽ってこう宣言します「闔閭は秦に敗戦して行方が分からない。わしが位を継いで立つべきだ。」
こうして夫概が呉王を自称しました。子の扶臧に兵を総動員して淮水を守らせ、呉王の帰路を断ちます。
呉の世子波と専毅は異変を聞くと城壁に登って守りを堅め、夫概の入城を拒否しました。
夫概は三江から越に使者を送って出兵を説得し、呉国を挟撃するように誘いました。事が成功したら越に五城を譲ることを約束します。
 
闔閭は秦軍が唐を滅ぼしたと聞いて大変驚きました。諸将を集めて戦守の計を議そうとした時、公子山が報告しました「夫概が理由もなく本部の兵を率いて勝手に呉国に走りました。」
伍員が言いました「夫概の行為は謀反に違いありません。」
闔閭がどうするべきか問うと、伍員が言いました「夫概は一勇の夫に過ぎないので心配いりません。心配なのは、越人が異変を聞いて動くことです。王は速やかに帰ってまず内乱を鎮めるべきです。」
闔閭は孫武伍子胥を留めて郢都を守らせ、自身と伯嚭は舟師で川を東下しました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十七回その三に続きます。