第七十七回 申包胥が兵を借り、楚昭王が国に還る(三)

*今回は『東周列国志』第七十七回その三です。
 
闔閭が漢水を渡った時、太子波が送った急使が報告しました「夫概が造反して王を称し、更に越兵と結んで入寇させました。呉都の危機が旦夕に迫っています。」
闔閭は驚いて「子胥が考えた通りだ」と言い、郢都に使者を送って孫武と伍員の兵も引き上げさせました。
闔閭は夜を通して呉都に向かいながら、江(恐らく淮水)に沿って呉の将士を諭します「夫概から去って帰順した者には元の位を復すが、遅れて来た者は誅殺する。」
淮上(淮水周辺)の兵は全て戈の向きを変えて闔閭に帰順します。淮水を守っていた扶臧は谷陽に逃げ帰りました。
夫概が民を駆って甲(甲冑。武器)を配ろうとしました。しかし百姓は呉王が健在だと聞いて逃げ隠れします。夫概はやむなく自分の兵だけを率いて出陣しました。
 
闔閭が夫概に問いました「わしは汝を手足と思って託してきた。なぜ反叛したのだ?」
夫概が答えました「汝は王僚を弑殺した。これは反叛ではないのか?」
闔閭は怒って伯嚭に「賊を擒にせよ!」と命じました。
伯嚭が戦って数合もせずに、闔閭が大軍を率いて直進します。
夫概には勇がありましたが、無勢では敵いません。大敗して逃走しました。
扶臧が江(恐らく長江)に舟を用意して夫概を渡らせ、宋国に奔りました。
闔閭は居民を按撫して呉都に還りました。太子波が城に迎え入れ、越を防ぐ準備をします。
 
孫武は呉王の班師の詔(撤兵の命令)を聞き、伍員と商議していました。すると「楚の軍中からある者が書を送って来ました」という報告が入りました。
伍員が書を持って来させると、申包胥が送ったものでした。そこにはこう書かれています「子(あなた)の君臣が郢を拠点にして三時(春夏秋)が経ちましたが、まだ楚を定めることができません。天意が楚の滅亡を欲していないのは明らかです。子は『楚を覆す(覆楚)』という言を守ることができましたが、私も『楚を復す(復楚)』という志に応えるつもりです。朋友の義とは、互いに成功させるべきものであって傷つけあうものではありません。子が呉の威を出し尽くさないようなら、私も秦の力を出し尽くしません。」
伍員は書信を孫武に見せてこう言いました「呉は数万の衆を率いて長駆楚に入り、その宗廟を焼き、社稷を破壊し、死者の屍に鞭打ち、生者の室(家)に住んだ(妻を奪った)。古来、人臣の仇討でこれほど快(爽快。愉快)なものはない。それに、秦兵が我々の余軍(一部の兵)を破ったとはいえ、我々にはまだ大きな損害はない。『兵法』には『可能と判断したら進み、難があると知ったら退く(見可而進,知難則退)』とある。幸い、楚はまだ我が国の急を知らない。今のうちに退くべきだろう。」
孫武が言いました「ただ退くだけでは楚に笑われます。羋勝のために請うべきでしょう。」
伍員は「善し」と言って返書を書きました「平王が無罪の子を駆逐し、無罪の臣を殺したので、某(私)は憤りを抑えることができず、ここに至りました。昔、斉桓公は邢を存続させて衛を立て、秦穆公は三回も晋君を即位させながらその土(領土)を貪らなかったので、今に至るまで誦(称賛の言葉)が伝わっています。某は不才ですが、その義を少しでも聞いたことがあります。今、太子建の子勝は呉で餬口(なんとか生活すること)しており、寸土も有していません。楚が勝を帰国させて故太子の祭祀を奉じさせることができるなら、某は退いて(原文「敢不退避」。この「敢不」は肯定の意味)吾子(あなた)の志を完遂させましょう。」
 
返書を得た申包胥が子西に話しました。
子西が言いました「故太子の後代を封じるのは、正にわしの意と同じだ。」
子西が羋勝を迎える使者を呉に送ろうとすると、沈諸梁が諫めて言いました「太子は既に廃され、勝は仇人となりました。なぜ仇を養って国を害すのですか?」
子西が言いました「勝は匹夫に過ぎない。どう害すというのだ(あるいは「なぜ誹謗するのだ」。原文「何傷」)?」
子西は楚王の命と称して羋勝を招き、大邑を封じることに同意しました。
楚の使者が出発してから、孫武と伍員は兵を率いて引き上げました。楚の府庫にあった宝玉は全て車に山積みにされます。また、楚国境の戸口万家も呉の空虚な地を満たすために遷されました。
 
伍員は孫武を水路から先行させ、自分は陸路から歴陽山を通って帰りました。東皋公を探して恩に報いるためです。しかしかつての廬舍は全く残っていません。更に龍洞山に人を送って皇甫訥を探させましたが、やはり行方が分からなくなっていました。
伍員は嘆息して「真に高土だ」と言うと、その地で再拝して去りました。
 
伍員が昭関に到着しました。既に楚兵の守りは失われています。伍員は昭関を破壊させました。
 
その後、溧陽瀨水を通り、嘆息して言いました「わしはかつてここで饑困し、一人の女子に食を乞うた。女子は盎漿(飲物)と飯をわしに譲ってから、投水して死んでしまった。わしは石の上に文字を残したが、今でもあるだろうか。」
左右の近臣に土を除かせると、石の字は以前のままはっきりと残っていました。
伍員は千金で報いようと思いましたが家が分かりません。そこで千金を瀨水に投じさせてこう言いました「女子にもし知覚があるのなら、わしが裏切らなかったことを知れ。」
 
伍員が出発して一里も行かない所で、路傍に一人の老嫗(老婦人)がいました。兵が通るのを見て哭泣しています。
軍士が捕らえようとして問いました「嫗は何が悲しくで哭泣しているのだ?」
嫗が言いました「私には娘がおり、三十年も居を守って嫁ぎませんでした。しかし往年、瀨水で紗を洗っていた時、一人の道に窮した君子に遭ったため、すぐに飯を譲りました。その後、事が洩れるのを恐れて自ら瀨水に投じたのです。飯を譲った者は楚の亡臣伍君だと聞きました。今、伍君の兵が勝って帰るのに報いを得ることができません。娘がいたずらに死んだことを哀痛し、こうして悲しんでいるのです。」
軍士が嫗に言いました「我々の主将が正に伍君だ。汝に千金で報いたかったのだが、家が分からなかったので金を水中に投じた。取りに行けばよい。」
嫗は千金を取って家に帰りました。
(明清時代)に至るまでこの川は投金瀨とよばれています。
 
越子允常は孫武等が呉国に引き返したと聞きました。孫武が用兵を得意としていることを知っていたため、勝つのは困難だと判断して撤兵します。
この後、允常は「越と呉は対等だ」と言って自ら越王を称しました。
 
闔閭は楚を破った功績の筆頭を孫武としました。
しかし孫武は官職に就くことを願わず、山に帰る許可を求めます。王が伍員を送って留めようとすると、孫武は伍員にこう言いました「子(あなた)は天道を知っているでしょう。暑(夏)が過ぎたら寒(冬)が来ます。春に戻ったらまた秋に至ります。王は強盛を自負して四境に虞(憂慮。懼れ)がないので、必ず驕楽が生まれます。功が成ったのに退かなかったら後患を生みます。私は自分を全うしたいだけでなく、子も全うさせたいと思っています(あなたも退くべきです)。」
伍員は孫武の言に同調しませんでした。
孫武は飄々と去りました。道々で数車の金帛を貧困な百姓に分け与えます。その後の行方は知られていません。
 
闔閭は伍員を相国に任命し、斉の仲父や楚の子文と同じように名を直接呼ぶのを避けて字の子胥とよぶことにしました。
伯嚭も太宰となり、共に国政を預かります。
閶門を破楚門と改名しました。
また、越人の進攻を防ぐため、南界に石を重ね、門を造って兵に守らせました。石門関と号します。
越の大夫范蠡も呉を防ぐため浙江の口に築城して固陵と号しました。固く守ることを意味します。
これは周敬王十五年の事です。
 
 
 
*『東周列国志』第七十七回その四に続きます。