第七十七回 申包胥が兵を借り、楚昭王が国に還る(四)

*今回は『東周列国志』第七十七回その四です。
 
子西と子期が郢城に帰りました。平王の骸骨を収めて埋葬し、宗廟社稷を新たに建て直します。同時に申包胥を派遣して舟師で随の昭王を迎えさせました。
昭王は隨君と盟を定めて侵伐しないことを誓います。隨君は自ら昭王を送って舟に乗せてから帰りました。
 
昭王が大江の中央で欄干に身を寄せて四方を眺めました。今までの苦難を思い出しましたが、今日、再び江を渡って自由になったことを心中で喜びます。
突然、水面に一つの物が流れて来ました。斗(酒器の一種)くらいの大きさで、真赤な色をしています。水手にすくわせて群臣に問いましたが、誰も知りません。佩刀を抜いて切り開くと、中に瓜のような物が入っていました。尋常ではない甘美な味です。昭王は左右の近臣に下賜して「この無名の果物が何か知るためには、博物の士の登場を待たなければならない」と言いました(この実は「萍実」といい、後に孔子が言い当てます)
一日も経たずに雲中に入りました。
昭王は嘆息して「ここは寡人が盗賊に遭った場所だ。人々に知らせなければならない」と言うと、舟を江岸に泊め、鬥辛に監督させて雲夢の地に小城を築かせました。行旅(旅行者)が安全に宿泊できるようにします。
(明清時代)、雲夢県に楚王城という地名がありますが、その時の跡です。
 
子西、子期等が郢都から五十里外まで昭王を迎えに来ました。君臣が互いに慰労します。
郢城に至ると城外に白骨が散乱しており、城内では宮闕の半分が破壊されていました。昭王は思わず悲しみのため涙を流します。
昭王が入宮して母伯嬴に会いました。子と母が向かい合って泣きます。
昭王が言いました「国家の不幸により今回の大変に遭いました。廟社が凌夷(衰落)し、陵墓が辱めを受けましたが、この恨はいつになったら雪げるでしょう。」
伯嬴が言いました「今日、復位できましたが、まずは賞罰を明らかにし、それから百姓を撫恤するべきです。ゆっくり気力が充足するのを待ってから、やっと恢復を図ることができます(仇を討つことができます)。」
昭王は再拝して教えを受け入れました。
この日は寝宮で休もうとせず、斎宮(斎戒を行う部屋)に宿泊します。
 
翌日、宗廟社稷を祭って帰還を報告し、墳墓の地を観察してから殿に登りました。百官が祝賀します。
昭王が言いました「寡人は匪人(正しくない者)を信任したため、国を亡ぼしてしまうところだった。卿等がいなかったら再び天日を見ることもできなかっただろう。国を失ったのは寡人の罪だ。国を復したのは卿等の功だ。」
諸大夫は皆、稽首して自分の功を譲りました。
 
昭王は宴を開いて秦将を労い、秦軍を厚く慰労して帰国させました。
その後、論功行賞が始まります。子西を令尹に、子期を左尹に任命しました。
申包胥が秦軍を導いた功を嘉して右尹に任命しようとしましたが、申包胥はこう言いました「臣が師を秦に乞うたのは国君のためであり、この身のためではありません。主公が既に国に還ったので臣の志は成し遂げられました。この事によって利を求めるつもりはありません。」
申包胥は固辞しましたが、昭王が強要したため、申包胥は妻子を連れて逃走することにしました。
妻が申包胥に問いました「子(あなた)は体も心もすり減らして秦師を乞い、やっと楚国を安定させました。賞を得るのは当然です。なぜ逃げるのですか?」
申包胥が言いました「かつて私は朋友の義のために子胥の謀を洩らさなかった。子胥に楚を破らせたのは私の罪だ。罪によって功を偽るとは、私にとっては恥なことだ。」
申包胥は深山に入って終生出て来ませんでした。
昭王は人を送って探しましたが、見つからなかったため、申包胥が住んでいた閭を表彰して「忠臣の門」と名づけました。
 
昭王は王孫繇于を右尹に任命して「汝が雲中で寡人に代わって戈を受けたことは忘れられない」と言いました。
その他の沈諸梁、鍾建、宋木、鬥辛、鬥巣、延等もそれぞれ爵位を進めて邑が加封されます。
鬥懐を招いて賞を与えようとすると、子西が言いました「鬥懐は弑逆の事を行おうとしました。罪を与えて当然なのに、なぜ逆に賞するのですか?」
昭王が言いました「彼は父の仇に報いようとした孝子だ。孝子となることができたのだから、忠臣になることも難しくないはずだ。」
鬥懐は大夫になりました。
 
藍尹亹が昭王に謁見を求めました。王は成臼で舟に乗れなかった恨みを思い、捕えて処刑することにしました。そこでまず人を送ってこう伝えました「汝は寡人を道に棄てたのに、今になってまた来たのはなぜだ?」
藍尹亹が言いました「囊瓦は徳を棄てて怨を立てたため、柏挙で敗北しました。王はなぜそれに倣うのですか?成臼の舟と郢都の宮殿の平安とでは、どちらが勝りますか。臣が王を成臼に棄てたのは、王を戒めるためです。今日来たのは大王が悔悟したかどうかを観るためです。王が失国の非を反省せず、臣の不載の罪(舟に乗せなかった罪)を忘れずにいるのなら、臣は死(命)を惜しみません。楚の宗社を惜しむだけです。」
子西が言いました「亹の言は直(実直)です。王は過去の失敗を忘れないために彼を赦すべきです。」
昭王は藍尹亹を接見し、以前のまま大夫の職を任せました。
群臣は昭王の広くて大きな度量を見て皆喜びました。
 
昭王の夫人は闔閭のために身を失ったため、夫に会うことを恥じて自縊しました。
当時、越は呉と対立していたため、楚王の復国を聞いて祝賀の使者を送り、宗女を楚王に嫁がせました。楚王は越姫を継室(二人目の夫人)に立てます。越姫は賢徳があったため王に敬われました。
 
昭王は季羋が患難に従ったことを想い、良婿を探そうとしました。すると季羋はこう言いました「女子の義とは男人を近づけないものです。鍾建はかつて私を背負ったので、彼が私の夫です。他の者に嫁ぐことはできません。」
昭王は季羋を鍾建に嫁がせ、鐘建を司楽大夫に任命しました。
また、故相孫叔敖の霊に感謝し、人を送って雲中に祠を建てさせ、祭祀を行いました。
 
郢都は破壊されており、しかも呉人が久しく居住していたため道を熟知しています。そこで子西は鄀の地を選んで城を築き、宮殿を建てて宗廟社稷を造りました。遷都して新郢と改名されます。
昭王が新宮に群臣を招き、大宴を開きました。酒がまわった頃、楽師扈子が琴を抱きかかえて昭王の前に進み出ました。昭王が現在の快楽に安心してかつての苦難を忘れ、再び平王の過ちを繰り返すのではないかと心配し、「臣には『窮衄(「衄」は敗戦の意味)』という曲があります。大王のために奏でさせてください」と上奏します。
昭王は「寡人も聞いてみたい」と言って奏でさせました。
扈子が琴を弾き、淒怨(悲痛。凄惨)な声で歌いました。歌詞はこうです「王よ、王よ、なぜ乖劣(悪劣)なのだ。宗廟を顧みず讒孽(讒言)を聞く。無忌を信じて多くを殺し、忠孝を誅夷(誅殺)して大綱が絶たれた。二子伍子胥、伯嚭)が東奔して呉越に向かい、呉王は哀痛して忉怛(悲痛。愁傷。ここでは二子)を助ける。涙を流して西伐の兵を興し、子胥、伯嚭、孫武が決戦する。五戦後に郢が破れて王が奔り、兵を留めて騎に荊闕(楚の宮殿)を侵させる。先王の骸骨は掘り起こされ、腐屍が鞭で辱められた恥は雪ぎ難い。宗廟社稷が危うく滅び、君王は死から逃げて駆けまわる。卿士は悽愴(凄惨)として民は泣血(痛哭して血の涙を流すこと)し、呉軍は去ったが恐怖は尽きない。王が事を改めて忠節を慰め、讒口に謗褻(誹謗)させないことを願う(王耶王耶何乖劣。不顧宗廟聴讒孽。任用無忌多所殺,誅夷忠孝大綱絶。二子東奔適呉越,呉王哀痛助忉怛。垂涕挙兵将西伐,子胥、伯嚭、孫武決。五戦破郢王奔発,留兵縦騎虜荊闕。先王骸骨遭発掘,鞭辱腐屍恥難雪。幾危宗廟社稷滅,君王逃死多跋渉。卿士悽愴民泣血,呉軍雖去怖不歇。願王更事撫忠節,勿為讒口能謗褻)。」
 
昭王は琴曲の意図を深く察し、涙が止まらなくなりました。扈子が琴を収めて階段を下りると、昭王は宴を中止します。
この日から昭王は朝早く起きて夜晩く休み、国政に励むようになりました。刑を省いて税を軽くし、士を養って武を訓練し、関隘を修復して兵に固く守らせます。
 
羋勝が帰国すると楚昭王は白公に封じ、城を築いて白公城と命名しました。ここから白を氏にするようになります。白公勝は本族を集めて白公城に住みました。
 
夫概は楚王が旧怨にこだわらないと聞いて宋から楚に走りました。昭王はその勇を知っていたため堂谿に封じます。これを堂谿氏と号します。
 
今回の禍難は唐、蔡から起きました。このうち唐は滅びましたが蔡はまだ存続しています。そこで子西が仇に報いるために蔡討伐を請いました。
しかし昭王はこう言いました「国事は安定し始めたばかりだ。寡人はまだ民を使いたいとは思わない。」
『春秋伝』によると、楚昭王は即位して十年で出奔し、十一年に帰国しました。その後、昭王二十年になってやっと兵を用い、頓を滅ぼして頓子牂を捕虜にします。二十一年には胡を滅ぼして胡子豹を捕え、胡が晋に従って楚を侵した仇に報いました。二十二年、蔡を包囲します。蔡が呉に従って郢に侵入した罪を譴責したため、蔡昭侯は投降を請いました。昭王は蔡国を長江と汝水の間に遷しました。
昭王は帰国してから十年近く民力を休ませたため、出征したら必ず功を立て、楚国を復興させ、「湛盧」の祥と「萍実」の瑞に符合させることができました。
 
この後の事がどうなるか、続きは次回です。