第七十八回 夾谷で孔子が斉を退け、三都を堕して聞人が法に伏す(三)

*今回は『東周列国志』第七十八回その三です。
 
翌朝、両君が壇下に集まり、揖讓してから壇を登りました。斉は晏嬰が相になり、魯は孔子が相を勤めています。両相も一揖してからそれぞれ自分の主に従い、壇に登って拝礼を交わしました。
太公(斉国の祖)と周公(魯国の祖)の友好を述べてから玉帛(礼物)を交換し、酬献の礼(互いに酒を勧める礼)を行います。
会見の儀式が終わると、景公が言いました「寡人には四方の楽があるので、貴君と共に観たいと思います。」
景公が莱人を招いて本土の音楽を奏でるように命じました。
すると、壇下を鼓声が震わせ、三百人の莱人が思い思いに旄、羽袚、矛戟、剣楯を持って蜂のように群がりました。呼哨の声(喚声。または口笛)を口にし、堪えることなく相和しています。
階段を半分ほど登ると定公が顔色を変えました。しかし孔子は全く恐れる様子を見せず、小走りで移動して景公の前に立ち、袂を挙げて言いました「我が両君は友好のために会を開きました。本来、中国の礼を用いるべきなのに、なぜ夷狄の楽を用いるのですか?有司(官員)に命じて去らせてください。」
晏子はこれが黎彌の計だということを知らないため、景公に言いました「孔某の言は正礼です。」
景公は恥じ入ってすぐに莱夷を退かせました。
この時、黎彌は壇下に伏せており、莱夷が動いたら一斉に襲いかかるつもりでした。斉侯が莱夷を退けたのを見て、心中に怒りを覚えます。
そこで本国の優人を招いてこう命じました「筵席(宴席)の間に汝を召して楽を奏でさせるから、『敝笱』の詩を歌え。自由に戯謔(遊び戯れること)して魯の君臣を笑わせたり怒らせたりすることができたら、わしが重賞を与えよう。」
『敝笱』は文姜の淫乱を物語った詩です。魯国を辱めるためにこの詩を選びました。
黎彌が階を登って斉侯に言いました「宮中の楽を奏でて両君の寿を祝わせてください。」
景公が言いました「宮中の楽は夷楽ではない。速やかに演奏せよ。」
黎彌が斉侯の命を伝えると、異服(礼に合わない服装)塗面の倡優侏儒二十余人が女や男の姿で現れ、二隊に分かれて魯侯の前に向かって来ました。飛び跳ねたり舞を踊り、笑いながら口々に淫詞を歌っています。
すると孔子が剣に手を置き、目を見開いて景公を見定め、こう言いました「匹夫でありながら諸侯に戯れる者は死罪に値します。斉の司馬に法を行わせてください!」
景公はこれに応じませんでした。優人も相変わらず戯れて笑っています。
孔子が言いました「両国は既に通好したので兄弟と同じです。よって、魯国の司馬は斉国の司馬です。」
孔子は袖を挙げてから壇下を向いて振り下ろし、大声で言いました「申句須と楽頎はどこだ!」
二将は壇に駆けのぼり、男女の二隊の中からそれぞれ領班一人を捕まえてその場で首を斬りました。
残った者達は驚いて逃げ出します。
景公も心中で驚愕しました。
魯定公が立ちあがって席を離れます。
黎彌は壇の下で魯侯を遮ろうと思っていましたが、孔子がこのような手段を用いるとは思ってもおらず、しかも申句須と楽頎の英勇を目の当たりにし、更に十里の外に魯軍が駐留しているという情報を得たため、首を縮めて退きました。
 
会が終わって幕に帰った景公は、黎彌を招いて譴責しました「孔某がその君の相として行ったのは、全て古人の道だった。しかし汝は寡人を夷狄の俗に入れさせた。寡人は本来修好を欲していたのに、逆に仇を成すことになってしまった。」
黎彌は答える言葉がなく、ただ恐れ入って謝罪しました。
晏子が進み出て言いました「『小人が過ちを知ったら文(言葉)によって謝し、君子が過ちを知ったら質(実質。中身)によって謝す(小人知其過,謝之以文。君子知其過,謝之以質)』と言います。今、元々魯に属していた汶陽の田(地)が三か所あります。一つ目は讙といい、陽虎が献上した不義の物です。二つ目は鄆といい、かつて魯から取って魯昭公を住ませた場所です。三つめは亀陰といい、先君頃公の時代に晋の力に頼って魯に譲らせた地です。この三か所は全て魯の故物です。先君桓公の時代、曹沫が壇に登って盟を脅かした時も、(魯は)これらの田だけを取りました。これらの田を魯に返さなかったら、魯の志は満足できません。主公はこの機に乗じて三田で過ちを謝すべきです。そうすれば魯の君臣は必ず喜び、斉と魯の交りを固めることができます。」
景公は喜んで納得し、晏子を魯に送って三田を返還しました。
これは周敬王二十四年の事です。
 
汶陽の田はかつて魯僖公が季友に下賜しました。今回、名義上は魯に返還されましたが、実際は季氏に属します。そのため季斯は心から孔子に感謝し、亀陰に築城して謝城と命名しました。孔子の功を称揚するためです。
定公は孔子を昇格させて大司寇の職を与えました。
 
 
この頃、斉の南境に一羽の大鳥が飛んできました。長さは約三尺もあり、黒い体で白い頸(頭)です。長喙独足(嘴が長くて片足)で、双翼を羽ばたかせて田野で舞いました。野人が追いかけても捕まえられず、やがて北に向かって飛び去って行きました。
これを聞いた季斯が不思議に思って孔子に問いました。
孔子が言いました「その鳥の名は『商羊』といい、北海の浜で生まれます。天が大雨を降らせる時になると商羊が舞いを始めます。商羊が現れた地では、必ず淫雨(長雨)による災害があります。斉と魯は隣接しているので、あらかじめ備えを設けるべきです。」
季斯はこの言葉を信じて汶水周辺の百姓に警戒させ、堤防や家屋を修築するように命じました。
果たして、三日も経たずに大雨が降り出し、汶水が溢れ出ました。しかし魯の民は警戒していたため被害がありません。
この事は斉邦(斉国)にも伝わりました。景公はますます孔子を神だと思うようになります。
孔子の博学の名は天下に知れ渡り、人々は孔子を「聖人」と呼ぶようになりました。
 
季斯が孔子の門に人才を訪ねました。孔子は仲由や冉求が政治に携わることができるとして推薦します。季氏はどちらも家臣に登用しました。
ある日、季斯が孔子に問いました「陽虎は去ったが不狃が復興したらどう制すべきだ?」
孔子が言いました「彼を制したいのなら、まず礼制を明らかにするべきです。古においては、臣は甲(武器)を蓄えることなく、大夫は百雉(城の規模を表す単位)の城を擁すことがありませんでした。だから邑宰も乱を成す土台がなかったのです。子(あなた)は城を崩して(墮城)武備を除かせるべきです。上下が共に安んじたら、永久(長期の安泰)を得ることができます。」
季斯は納得して孟氏と叔氏に伝えました。
孟孫無忌は「家と国に利があるのなら、私(私利。私事)を想うことはありません」と言って同意しました。
 
当時、少正卯は孔子の師徒が用いられていることを嫉妬し、孔子の功を損なわせる機会を探していました。そこで叔孫輒を使って秘かに公山不狃に書信を届けました(墮城の計画を教えて妨害を促しました)
不狃は(墮城に反対するため)城を拠点に謀反しようとしました。かねてから孔子が魯人から尊敬されていると知っていたため、助けを借りたいと思い、厚い礼幣と書を送ってこう伝えました「魯は三桓が擅政してから国君が弱く臣下が強くなっており、人心に憤懣が溜まっています。不狃は季氏の宰ですが、実際は公義を慕っているので、費邑を挙げて公に帰順し、公臣となって公を助け、強暴を除いて魯国に周公の旧制を恢復させたいと願っています。もし夫子(あなた)の同意がいただけるのなら、直接この事を相談するため、駕を移して費を訪ねてください。ささやかな路犒(路費。相手の遠出を労う礼物)ですが、どうか嫌わずに受け取ってください(不腆路犒,伏惟不鄙)。」
 
書を読んだ孔子が定公に言いました「不狃が叛したら兵を労することになります。臣が軽身を運び、改心して過ちを認めるように説得したいと思いますが、如何でしょう。」
しかし定公は「国家が多事であり、全て夫子(あなた)の主持に頼っている。寡人の左右の者を去らせるわけにはいかない」と言って反対しました。
孔子は書信と礼幣を送り返しました。
公山不狃は孔子が来ないと知り、成宰の公斂陽と郈宰の公若藐に連絡して、同時に挙兵するように誘いました。しかし公斂陽と公若藐は拒否しました。
 
郈邑の馬正侯犯は勇力があり、射術を得意としました。郈人に畏服されています。
かねてから不臣の志(謀反の心)を抱いていたため、圉人を送って公若藐を刺殺し、自ら郈宰に立ちました。
その後、叔孫州仇の命(城を取り壊す命)に逆らうため、郈の人々を集めて城壁に登り、守りを固めました。
 
郈の謀反を知った叔孫州仇は孟孫無忌に会いに行きました。無忌が言いました「私が子(あなた)を助けて一臂(片腕)となろう。そのような叛奴は共に滅ぼすべきだ。」
こうして孟孫と叔孫の二家が共に討伐の兵を出し、郈城を包囲しました。
しかし侯犯が力を尽くして抗戦したため、攻撃側に多数の死者が出ました。城は攻略できません。
無忌は斉に援軍を求めるよう州仇に勧めました。
 
この時、叔氏の家臣駟赤が郈城の中にいました。侯犯に従うふりをしたため、侯犯は駟赤を信用します。そこで駟赤が侯犯に言いました「叔氏が使者を斉に送って師を乞いました。斉と魯が兵を合わせたら勝ち目がありません。子(あなた)は郈を挙げて斉に降るべきです。斉は表面上は魯と親しんでいますが、内心では魯を嫌っています。郈を得れば魯を圧することができるので、斉は必ず喜び、他の地を選んで倍にして子に報いるでしょう。(郈を斉に譲ったとしても)どちらにしても地を得ることができるのです。しかも危険を除いて安定を得ることができるのですから、不利になる要素はありません。」
侯犯は「素晴らしい計だ」と言って斉に投降を請う使者を送り、郈邑を献上すると伝えました。
 
 
 
*『東周列国志』第七十八回その四に続きます。