第七十八回 夾谷で孔子が斉を退け、三都を堕して聞人が法に伏す(四)

*今回は『東周列国志』第七十八回その四です。
 
斉景公が晏嬰を招いて問いました「叔孫氏が郈を討つために兵を請い、侯犯も郈を挙げて投降して来た。寡人はどちらに従うべきだろう。」
晏子が言いました「魯と修好したばかりです。叛臣が献じる地を受け取るべきではありません。叔孫氏を助けるのが正しい選択です。」
しかし景公は笑ってこう言いました「郈は叔孫の私邑だ。魯侯とは関係ない。それに、叔孫氏の君臣が互いに魚肉となった(「自相魚肉」。自ら殺し合うこと)。魯の不幸は斉の幸である。寡人の計は既にある。双方の使者に同意して誤らせよう(戦わせよう)。」
景公は司馬穰苴を国境に駐軍させて情勢の変化を窺うように命じました。もし侯犯が叔孫を撃退することができたら、兵を分けて郈を守り、侯犯を斉国に迎え入れます。もし叔孫が侯犯に勝ったら、郈城攻撃を助けるために駐軍したと説明します。今回、臨機応変に事を行うように命じたところは、斉景公の奸雄たる由縁です。
 
駟赤は侯犯の使者が斉に向かったのを見てから、再び侯犯に言いました「斉は魯侯と会したばかりなので、魯を助けるか郈を助けるかまだ分かりません。多くの兵甲(武器)を門に置くべきです。万一、不測の事変が起きても(武器を準備しておけば)自衛できます。」
侯犯は一勇の夫に過ぎないため、駟赤の言葉を好意によるものだと信じました。精甲利兵(優れた甲冑や鋭利な兵器)を選んで門下に集めます。
それを見届けて駟赤が羽書を城外に射ました。魯兵がそれを拾って州仇に渡します。州仇が開いてみるとこう書かれていました「臣赤が逆犯に対して十分の七八の段取りを終わらせました。数日中に城中で異変が起きます。主君は心配いりません。」
喜んだ州仇は無忌に報せ、兵を配置して待機させました。
 
数日後、侯犯の使者が斉から帰ってこう言いました「斉侯は既に同意しました。他の邑を報酬として与えるとのことです。」
駟赤は侯犯を祝賀してから退出し、人を送って城内でこう宣言しました「侯氏は郈の民を遷して斉に附こうとしている。使者の報告によると、斉師はもうすぐ到着する。どうするべきだ!」
城内はすぐ騒ぎになり、多くの人が駟赤を訪ねてこの情報について問いました。
駟赤が言いました「わしもそれを聞いた。斉は魯と修好したばかりなので、この地を得るのは相応しくないと考え、汝等戸口を遷して聊攝(地名)の虚を充実させるつもりだ。」
古から「安土重遷(一つの場所に住みついたら遷るのが容易ではない)」といいます。郷里を棄てると聞いて驚かない者はいません。人々はこの情報を伝えあい、怨心を抱くようになりました。
 
ある夜、侯犯が酒を飲みました。駟赤は探りを入れて侯犯が酔っていると知り、数十人の心腹を送って城中でこう叫ばせました「斉師が既に城外に至った!我々は速やかに行李(荷物)をまとめ、三日以内に行動を開始しなければならない!」
それに続いて哭声をあげます。
郈の人々は驚いて侯氏の門に集まりました。老弱の者は泣き、壮齢の者は歯を噛み締めて侯犯を憎みます。
この時、人々は門内に大量な武器が集められているのを見つけました。まさに今こそ武器が必要な時です。皆先を争って甲冑を身に着け、武器を手に取り、喚声を上げて侯犯の家を包囲しました。城を守っていた兵達も侯氏に背き、民衆を助けました。
駟赤が急いで部屋に入って侯犯に告げました「郈の衆は斉に附くことを願わず、満城が謀反しました。子には他に甲兵(武器と兵)がありますか?私が率いて攻撃しましょう。」
侯犯が言いました「甲兵は全て民衆に奪われてしまった。今日の事は、禍から免れることができたら上とするべきだ(禍から逃げられたら充分だ)。」
駟赤は「私が命を棄てて子(あなた)を送ります」と言うと、退出して民衆にこう言いました「汝等は一路を譲って侯氏の出奔を許せ。侯氏が出て行けば斉師も来ることはない。」
人々はこの言に従って一路を開きました。
駟赤が先を進み、侯犯が後に続きます。百余人の家属と十余乗の車が出ていきました。
駟赤は東門まで送ってから魯兵を率いて郈城に入り、百姓を按撫しました。
孟孫無忌が侯犯を追撃しようとしましたが、駟赤が言いました「臣は禍から逃れることに同意しました。」追撃は中止されました。
 
郈城が三尺取り壊され、駟赤が郈宰になりました。
侯犯は斉軍に奔ります。
穰苴は魯軍が既に郈を平定したと知り、軍を率いて斉に還りました。
州仇と無忌も魯国に還ります。
 
これ以前に、公山不狃が侯犯の郈における挙兵と叔仲二家の討伐を聞き、喜んで言いました「季氏が孤立した。虚に乗じて魯を襲えば国を得られる。」
公山不狃は費の衆を全て駆り立てて魯都曲阜に殺到します。叔孫輒が内応して門を開きました。
定公が急いで孔子を招き、策を問いました。
孔子が言いました「公徒は弱いので用いることができません。臣が主公を御して季氏に行くことをお許しください。」
孔子は定公を守りながら車を季氏の宮に駆けさせました。
 
季氏の宮内には堅固な高台がありました。定公はそこに住みます、
暫くして司馬中句須と楽頎が到着しました。孔子は季斯に全ての家甲を提供させ、司馬に授けて台の左右に隠れるように命じます。公徒は台の前に並べました。
 
その頃、公山不狃が叔孫輒と商議して言いました「我々のこの挙は公室を援けて私家を抑えることを名分としている。魯侯を奉じて主にしなければ、季氏に勝つことはできない。」
二人はそろって公宮を訪れました。しかし定公を探しても見つかりません。久しく逗留してからやっと定公が季氏の家に移ったと知ります。
二人は兵を率いて季氏の家を攻めました。
 
公山不狃が公徒と戦うと、公徒は全て逃げ散りました。しかし突然左右から大きな喚声が上がり、申句須と楽頎の二将が精甲を率いて襲いかかりました。孔子は定公を抱えて台上に立っており、費人に向かってこう言いました「我が君はここにいる!汝等は順逆の理を知らないのか!速やかに甲を解けば、今までの事は咎めない!」
費人は孔子が聖人だと知っていたため、誰も逆らいません。皆、武器を棄てて台下で拝伏します。
勢いが窮した公山不狃と叔孫輒は呉国に出奔しました。
 
叔孫州仇が魯都に還り、郈都を崩したことを報告しました。
季斯も費城を崩して本来の制度を恢復させます。
孟孫無忌も成都を崩そうとしましたが、成宰公斂陽がこれに不満で、少正卯に相談しました。少正卯が言いました「郈と費は叛逆があったから取り壊されたのです。もしもこれに合わせて成も取り壊したら、子(あなた)と叛臣の間に違いがなくなってしまいます。子はこう言ってください『成は魯国北門の守りです。もし成を崩したら、斉師が我が(魯の)北鄙を侵した時、どうやって防ぐのですか。』この意見を堅持すれば、命に背いても叛逆にはなりません。」
公斂陽はこの計に従い、自分の徒に甲冑を着させて城壁の上に並べてから、叔孫氏に対してこう言いました「私は叔孫氏のために守っているのではありません。魯の社稷のために守っているのです。斉兵が旦暮にでも突然至ったら、守禦の備えがなくなってしまいます。この性命を捧げて城と共に砕けることを願います。一磚一土も動かすことはできません!」
孔子が笑って言いました「陽にはこのような言を語る弁才はない。『聞人』が教えたのだろう。」
 
季斯は孔子が費を平定した功績を嘉しており、自分が万分の一も及ばないと理解していたため、相事(相の政務)を代わりに行わせていました。いつも孔子に相談してから事を行います。
しかし孔子が意見を述べる度に、少正卯がその言葉を曲げて混乱させたため、聴いた者の多くが惑わされました。
そこで孔子が秘かに定公に言いました「魯の不振は忠佞が分けられず、刑賞が正しく行われていないことが原因です。嘉苗を守る者は必ず莠草(雑草)を除くものです。国君は姑息(暫時の安泰。無秩序な寛大さ)に流されず、太廟の斧鉞を出して両観(宮闕)の下に並べてください。」
定公は同意して「善し」と言いました。
 
翌日、定公が群臣に成城を取り潰すかどうかを議論させました。最後は孔子の裁決に委ねます。
群臣には取り潰すべきだという者もいれば、反対する者もいました。
少正卯は孔子の意志に迎合するため、成城を取り潰す六つの利を述べました。一つ目は国に二尊がなくなること(臣下が国君に相当する権力を持たないこと。「君無二尊」)、二つ目は都城の重要な地位を取り戻すこと(帰重都城形勢)。三つ目は私門を抑えること(抑私門)。四つ目は跋扈する家臣が拠り所を失うこと(使跋扈家臣無所憑藉)。五つ目は三家の心を平静にさせること(平三家之心)。六つ目は隣国に魯国の改革が道理に則っていることを知らせて尊敬を受けること(使鄰国聞魯国興革当理知所敬重)です。
しかし孔子はこう言いました「卯の意見は誤りです。成は既に孤立しているので何もできません。また、公斂陽は公室に対して忠心を抱いているので、跋扈の者と対等に述べるべきでもありません。卯は弁舌によって政を乱し、君臣を離間させようとしています。法に則って誅殺するべきです。」
群臣が言いました「卯は魯の『聞人』です。その言が適切ではなかったとしても、その罪は死に及びません。」
孔子が言いました「卯は偽言を発してしかも弁才があり(偽りでありながら巧みな弁論で飾り。原文「言偽而辯」)、行動は僻(邪悪)でしかも頑固です(過ちを認めようとしません。原文「行僻而堅」)。虚名によって大衆を惑わしているので、誅殺しなければ政治が成り立ちません。臣の職は司寇です(人を裁く立場にいます)。斧鉞の典(規則)を正させてください。」
孔子は力士に命じて少正卯を縛らせ、両観の下で処刑しました。
群臣は皆顔色を変え、三家も心中で慄然とします。
 
少正卯が誅殺されてから、孔子はやっと思うように政治ができるようになりました。定公と三家は虚心になって孔子の意見を聞きます。
孔子は綱紀を正して礼義を教育し、廉恥の心を養わせました。そのおかげで民は混乱することなく統治に従いました。
三カ月後には魯の風俗が大いに改められます。市中で羔(羊)や豚を売る者は虚価(偽りの値段)で飾ることなく、男女が道を歩く時は左右に分かれて乱れることなく、道で落とし物を拾った時は、自分の物とすることを恥じて誰も着服しなくなりました。四方の客が魯の国境に入ったら生活に必要な物資が不足することなく、賓客は自分の家に帰って来たようにくつろげました。
国人が孔子を称えてこう歌いました「兗衣章甫(礼服礼冠)の者孔子です)。彼が我々の所にやって来た。章甫袞衣の者。彼は無欲で我々を慰めた(恩恵をもたらした。「兗衣章甫,来適我所。章甫兗衣,慰我無私」)
この歌は斉国にも伝わりました。斉景公が驚いて言いました「我が国は魯に併呑されることになるだろう。」
 
景公がどのような計を用いるのか、続きは次回です。

第七十九回 女楽を帰して孔子を拒み、会稽に棲んで宰嚭に通じる(一)