戦国時代 范睢と蔡澤(二)

蔡沢と范睢の会話を書いています。前回の続きです。

戦国時代 范睢と蔡澤(一)

 
元々、范睢は蔡沢に反駁するつもりでした。しかし蔡沢の発言を称賛するようになります。

蔡沢はその機に乗じてこう問いました「商君、呉起、大夫種は人臣として忠を尽くし、功を成しました。人はそのようになりたいと思うものです。しかし、文王に仕えた閎夭や成王を補佐した周公は忠聖といえないのでしょうか?君臣の関係について論じたら、商君、呉起、大夫種のようになりたいと思うものでしょうか?それとも閎夭、周公のようになりたいと思うものでしょうか?」

范睢が答えました「商君、呉起、大夫種は二人に及ばない。」

蔡沢が問いました「それでは、あたなの主が仁人を慈しんで忠臣を信任し、厚道誠実で旧情を忘れることなく、その賢智によって有道の士と膠漆(深い交わりの喩え)となり、義によって功臣を裏切らないという点においては、秦孝公、楚悼王、越王と較べてどうでしょう?」
范睢が答えました「それはわからない。」

蔡沢が言いました「今、国主が忠臣に対して親しむ様子は秦孝公、楚悼王や越王を越えることがありません。しかしあなたが設智(建策)することで、主のために危難を解決して政治を修め、乱を治めて兵を強くし、禍患を排して難を除き、地を拡げて殖穀穀物を増産させること)し、国を富まして家(民)を満たし、主を強くし、社稷を尊び、宗廟を顕揚し、天下に主を侵犯させることなく、主の威信によって海内を震わせ、功績を万里の外にも聞こえさせ、声名光輝を千世に伝えさせるという点において、あなたと商君、呉起、大夫種を較べたら如何ですか?」

范睢が答えました「私は及ばない。」

蔡沢が言いました「今、主が忠臣と親しんで旧故を忘れない様子は、孝公、悼王、句践に及びません。そしてあなたの功績と愛信親幸(国君から受けている信任寵愛)も商君、呉起、大夫種に及びません。ところがあなたの禄位は貴盛であり、私家(自分の家)の富も三子を越えています。それでも身を退こうとしないようなら、三子を上まわる禍患を招くことになるでしょう。私は秘かにあなたの危機を心配しています。こういう言葉があります『日が昇ったら傾き、月が満ちたら欠ける(日中則移,月満則虧)』。物は盛んになったら衰えるのが、天地の常数(法則)です。進退盈縮(伸縮。または五星が早く出ることを「嬴」、遅く出ることを「縮」)は時と共に変化するのが、聖人の常道です。だから『国に道があれば仕え、国に道がなければ隠れる(国有道則仕,国無道則隠)』というのです。聖人はこう言いました『飛龍が天にいれば大人に利がある(「飛龍在天,利見大人」。上に明君がいれば、能力がある者がそれを補佐して利をもたらすことができる)』。『不義によって富貴を得ても、私にとってそれは浮き雲と同じなので取るに足らない(不義而富且貴,於我如浮雲』。今、あなたは既に怨を晴らして徳(恩)にも報いました。意欲を達成したのに変計臨機応変な策謀)を持たないというのは相応しくありません。翠、鵠、犀、象が住んでいる場所は死から遠く離れています。それでも殺されてしまうのは、餌に惑わされるからです。蘇秦や智伯の智謀があれば恥辱から逃れて死を遠ざけることができたはずです。それでも殺されてしまったのは、貪利に惑わされて満足しなかったからです。だから聖人は礼を制定して欲を節制し、民から物を得る時には度(節度)があり、時に応じて民を使い、使う時にも止(限度)があったのです。志(欲)が過度にならず、行いが驕(横暴)にならず、常に道(原則。道理)と共にあってそれを失わなかったので、天下が聖人を語り継いで途絶えることがないのです。

昔、斉桓公は諸侯を九合して天下を一つに正しました(九合諸侯一匡天下)。ところが葵丘の会において驕矜の志があったため、九国が離反したのです。呉王夫差は天下に敵がいませんでしたが、勇強によって諸侯を軽んじ、斉晋を侵犯したため、最期は自分の身を殺して国を亡ぼすことになったのです。夏育(賁育。古代の勇士)や太史噭(斉襄王の時代に太史噭がいましたが、『索隠』によると恐らく別の人物です)が叱咤したら三軍を退けることができましたが、最期は庸夫によって殺されました。これらは隆盛が極まった時に道理に返ることができず、身を低くして倹約することができなかったために招いた禍患です。

商君は秦孝公のために法令を明らかにし、姦本(姦邪の根源)を禁じ、爵位を尊んで功績がある者を必ず賞し、罪がある者を必ず罰し、権衡(重量の基準)を統一し、度量(長さと容量の基準)を正し、軽重(物流)を調整し、阡陌(田地の畦道)を切り開く(井田制を廃止する)ことで、生民の業を安定させて習俗を一つにしました。民に耕農を勧めて土地から得る利を拡大させ、一室(一家)には二事を業とさせず(農業以外に従事させず)、農業に励んで食糧を蓄積させ、平時から戦陳(戦陣。戦争)の事を習わせたので、兵が動けば(民が兵になれば。出征すれば)土地が広くなり、兵が休めば(兵が民に戻ったら。兵を収めたら)国が富むようになりました。だから秦は天下で無敵になり、諸侯に威信を立てて秦国の業を成すことができたのです。ところが商君は功が既になってから、車裂に処せられました。

楚の地は方数千里に及び、持戟(兵)は百万に及びましたが、白起が数万の師を率いて楚と戦い、一戦で鄢郢を占領して夷陵を焼き、再戦して南の蜀漢を併せました。更に韓と魏を越えて強趙を攻め、北は馬服(趙奢。実際はその子趙括)と対抗して四十余万の衆を誅屠し、長平の下で全滅させました。流れた血は川となり、沸声(沸き起こる声。または血の川が流れる音)は靁(雷)のように響きました。その後、邯鄲を包囲して秦の帝業を完成させたのです。楚と趙は天下の強国であり、しかも秦の仇敵でしたが、楚も趙も共に恐れて屈服し、秦を攻めることがなくなりました。これは白起の勢(威風)によるものです。彼は自ら七十余城を攻略して功を成し遂げました。ところが最期は剣を下賜されて杜郵で死にました。

呉起は楚悼王のために法を立て、大臣の威重を低減させ、無能な者を罷免し、無用な輩を廃し、不急の官(今すぐ必要ではない官)を削減し、私門(豪族・名家)の請いを塞ぎ、楚国の習俗を一つにし、游客の民(職がなく遊蕩している民)を禁じ、耕戦の士(農耕と戦に習熟した士)を選抜し、南は楊越を収め、北は陳蔡を兼併し、横を破って従を散じ(三晋や秦を破り)、馳説(遊説)の士の口を閉じさせ、朋党(徒党を組むこと)を禁じて百姓を(本業に)励ませ、楚国の政を定めました。そのおかげで、(楚の)兵が天下を震撼させ、威信が諸侯を服させました。しかし功が既になってから、呉起は枝解(四肢を分裂させる刑)によって死にました。

大夫種は越王のために深謀遠計し、会稽の危難から免れさせ、亡国を存続させ、恥辱を栄に変え、草地を開墾して邑を充実させ、地を開いて殖穀し、四方の士を率い、上下の力を集中させ、句践の賢を補佐し、夫差の讎に報い、ついに勁呉(強呉)を滅ぼしました。こうして越の霸業を完成させたのです。しかし功が既に明らかになって信を得たのに、句践はそれを裏切って殺しました。

この四子は功が成ったのに去らなかったから禍が至ったのです。これが『伸びても縮むことができず、進んでも帰ることができない(信而不能詘,往而不能返)』という状態です。范蠡はそれを知っていたので超然と世を去り、陶朱公となって長生きできました。あなたは愽者(博打をする者)を見たことがありませんか?ある時は大きく賭け、ある時は功を分ける(分功。小さく賭ける)ものです。これはあなたもよく知っているでしょう。今、あなたは秦の相となり、計を出す時は席から離れる必要がなく、謀を出す時は廊廟(朝廷)を出る必要がなく、座して諸侯を制し、利は三川に延び(三川の地を占領し)、宜陽の力を増強させ、羊腸の険を通じ、太行の道を塞ぎ、范中行の塗(韓と魏の要衝)を断ち、六国の合従を阻止し、棧道は千里に連なって蜀漢に通じ、天下が皆、秦を畏れ、秦の欲を満足させました。あなたの功は既に極まっており、秦にとって分功の時(功を分ける時。情勢が変化した時)が来ています。それなのに退かなかったら、商君、白公、呉起、大夫種と同じようになるでしょう。『水を鏡にすれば自分の顔を見ることができ、人を鏡にすれば吉凶を知ることができる(鑒於水者見面之容,鑒於人者知吉与凶)』と言います。『書(恐らく『逸周書』)』にはこうあります『功を成したら久しく留まるべきではない(成功之下,不可久処)。』あなたはなぜ四子の禍の上に留まろうとするのですか。なぜこの機に相印を返上し、賢者に地位を譲り渡してから、退いて巖居川観(山川に隠居すること)をしないのですか。そうすれば伯夷の廉潔の美名を得て久しく応侯の地位を保ち、世々代々、孤(国君の自称。ここでは「侯」の意味)を称することができます。許由や延陵季子のような献讓の名声を得て、喬(王子喬と赤松子という二人の仙人)のような長寿を全うするのと、禍によって最期を終えるのとでは、どちらが善いですか。あなたはどちらの状況にいるつもりですか。自ら離れることができず、自ら決することもできなかったら、必ず四子の禍を招きます。『易』には『高く飛翔した龍は後悔する(「亢龍有悔」。頂点に達した龍はそれ以上高くに行けないことを知って後悔する)』という言葉があります。これは高く登っても降りることができず、伸びても屈することができず、進んでも返ることができないという状態です。あなたはよく考えるべきです。」

范睢が言いました「その通りだ(善)。『欲を持って止めることを知らなかったら欲した物を失い、物を有しながら満足することを知らなかっらた有していた物を失う(欲而不知止,失其所以欲。有而不知足,失其所以有)』という。幸いにも先生に教えていただいた。雎(私)は謹んで命(言葉)を受け入れよう。」
范睢は蔡沢を座席に招いて上客にしました。
 
数日後、范睢が入朝して秦昭王にこう言いました「山東から新たに来た客に蔡沢という者がいます。彼は辯士であり、三王の事、五伯の業、世俗の変に明るいので、秦国の政を委ねることができます。臣が見てきた者は大勢いますが、彼に及ぶ者はなく、臣も彼には及びません。敢えてこれを報告します。」
秦昭王は蔡沢を招いて談話し、その才能を気に入りました。蔡沢は客卿になります。
それを見届けた范睢は病と称して相印を返上しました。昭王は范睢に政治をさせようとしましたが、范睢は病が重いと言って辞退します。
昭王は范雎の相を罷免し、蔡沢を秦相に拝命しました。暫くして秦は東に進み、周室西周を併合します。
 
蔡沢が相になって数か月後、ある人が蔡沢を讒言しました。蔡沢を誅殺を懼れ、病と称して相印を返上します。
蔡沢は綱成君と号されました。

蔡沢は秦に十余年住み、昭王、孝文王、荘襄王始皇帝(秦王政)に仕えました。始皇帝の時、秦のために使者として燕に行き、その三年後に燕が太子丹を人質にして秦に送りました。

晩年の詳細はわかりません。