第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(二)

*今回は『東周列国志』第八十一回その二です。
 
越王が美女を教育して三年が経ちました。技も姿態も見事に完成します。珠幌(玉簾)で飾った宝車に座って街衢(街路)を通ると、香風が遠近に漂いました。
更に美婢の旋波、移光等六人が侍女に選ばれました。
越王は相国范蠡を呉国に派遣して美女達を献上します。
夫差が斉から呉に帰った時、范蠡が謁見し、再拝稽首して言いました「東海の賎臣句践は大王の恩に感謝していますが、自ら妻妾を率いて左右に伏侍することができないので、境内を遍く探して歌舞を善くする者二人を得ました。陪臣を使って王宮に納めさせたので、どうか灑掃の役に供えてください。」
夫差が二人を見ると、神仙が降りて来たのかと思わせるほどの美女です。夫差は魂魄が砕け散りました。
伍子胥が諫めて言いました「『夏は妹喜によって亡び、殷は妲己によって亡び、周は褎姒によって亡んだ』といいます。美女とは亡国の物です。王は受け入れてはなりません。」
夫差が言いました「好色とは人の同心(共通の心)である。句践はこのような美女を得たのに自ら用いず、寡人に進めた。これは呉に忠を尽くしている証だ。相国が疑う必要はない。」
夫差は二人を受け取りました。
 
夫差は二人の絶色を気に入ってどちらも寵愛しました。ただし妖艶さと媚びる姿は西施の方が一枚上です。西施は歌舞の魁(筆頭)の地位を奪い、姑蘇の台に住んで房室を独占し、出入の儀制も王后に擬されました。
呉宮に住む鄭旦は西施の寵を嫉妬し、鬱鬱として満足することができず、年を経て死んでしまいます。
夫差はこれを悲しんで黄茅山に埋葬し、祠を建てて祀りました。
 
夫差は西施を寵幸し、王孫雄に命じて霊巖の上に館娃宮を建てさせました。銅溝(銅を鋳て作った溝)、玉檻(玉の欄干)を珠玉で装飾し、美人の遊息の場所とします。
また響屧廊を造りました。屧とは鞋の名です。回廊の下の地面を掘って空洞にしてから、大甕を並べて平らにし、上を厚板で覆いました。西施と宮人が屧を履いて廊下を歩くと音が響くため、響屧と命名されました。今(明清時代)、霊巖寺にある円照塔前の小斜廊がその跡です。
山上には翫花池と翫月池(「翫」は「遊ぶ」の意味)があり、呉王井という井戸もありました。井泉はとても清碧で、西施が泉に自分を映して化粧をし、夫差が傍に立って西施の髪を梳かすこともありました。
西施洞という洞もあり、夫差と西施はよく一緒に洞に座りました。洞外の石に小さな窪みがあり、今でも俗名を西施跡といいます。
夫差は西施と共に山頂で琴を弾いたこともありました。今でも琴台があります。
香山に香木を植えさせ、西施と美人を舟に乗せて香を採らせたこともありました。今の霊巖山から南を見渡すと、矢のようにまっすぐな川があり、俗名を箭涇(「箭」は「矢」、「涇」は「川」の意味)といいます。ここが香を採った川(採香涇)です。
郡城の東南には採蓮涇もありました。呉王と西施が蓮を採った場所です。
城中に大濠を掘って南からまっすぐ北に延ばし、錦帆の舟で遊びました。この濠は錦帆涇と号しました。
城南には長洲苑がありました。遊猟をした場所です。
その他にも魚を飼った魚城、鴨を飼った鴨城、雞(鶏)を飼った雞陂、酒を造った酒城があります。
夫差は西施と西洞庭湖の南湾で避暑をしたことがありました。湾は十余里もあり、三面は山に囲まれ、南だけ門闕のように開いています。呉王が「この地は消夏(避暑)に相応しい」と言ったため、消夏灣と名づけられました。
 
夫差は西施を得てから姑蘇台を家とし、四時(四季。一年中)を問わず自由に出遊しました。いつも絃管(楽器。楽工)が従い、遊興に耽って帰るのを忘れるほどです(流連忘返)。太宰嚭と王孫雄だけが常に左右に侍っており、伍子胥が謁見を求めても多くが拒絶されました。
 
越王句践は呉王が西施を寵幸して日々遊楽に耽っていると聞き、文種と謀りました。
文種が言いました「『国は民を本とし、民は食を天とする(国以民為本,民以食為天)』といいます。今年は穀物の収穫が少ないので、粟米の値が上がります。主公は呉に食糧を借りるように請い、民の飢えを救うべきです。天がもし呉を棄てるつもりなら、必ず同意して我が国に貸し出します。」
句践はすぐに文種を使って伯嚭に重い幣賄を届けさせました。伯嚭を通して呉王への謁見を求めます。
呉王は姑蘇台の宮殿で文種を引見しました。
文種が再拝して言いました「越国は低地にあるため、水旱が調和せず年穀(一年の収穫)が不足しています。人民が飢困しているので、大王から太倉の穀一万石を貸していただき、目前の餒(飢餓)を救いたいと思います。明年、穀物が熟したらすぐに返却します。」
夫差が言いました「越王は呉に臣服している。越民の飢えは呉民の飢えだ。積穀を惜しんで救わないという道理はない。」
この時、伍子胥が越の使者の訪問を知り、蘇台(姑蘇台)に来て呉王に謁見しました。
穀物を貸すことに同意したと聞き、諫めて言いました「いけません(不可,不可)!今日の形勢は、呉が越を有さなければ越が呉を有すことになります。越王が使者を送ったのは、本当に飢困のため穀物を求めたのではなく、呉の粟(食糧)を空にするのが目的です。与えても親(親しみ)を加えることはできず、与えなくても仇を成すことはありません。王は拒否するべきです。」
呉王が言いました「句践が我が国に捕えられて馬前を歩いたこと(越国が滅亡したこと)は諸侯で知らない者がいない。わしは一度滅んだ越の社稷を回復させた。その恩は彼を再生させたのと同じだ。越からの貢献も絶えることがない。なぜまだ背叛の虞(恐れ)があると言うのだ。」
伍子胥が言いました「越王は早朝晏罷(朝早くから夜遅くまで政務に励むこと)し、民をいたわって士を養っているといいます。その志は呉への報復にあります。大王がまた粟を送って越を助けたら、臣は麋鹿(鹿)が姑蘇の台で遊ぶことになるのではないか(姑蘇の台が廃墟になるのではないか)と恐れます。」
呉王が言いました「句践は既に臣を称した。臣が君を伐つはずがない。」
伍子胥が言いました「湯は桀を伐ち、武王は紂を伐ちました。これらは臣が君を伐ったのではありませんか?」
伯嚭が横から叱責して言いました「相国の言は度を超えています。我が王は桀紂と同等なのですか!」
伯嚭が続けて上奏しました「臣は葵邱の盟(斉桓公と諸侯の盟)について聞いたことがあります。(斉桓公が)遏糴穀物の滞留)を禁止したのは隣国を大切にするためです。越に至っては、貢献を欠かしたことがないので援助するのは当然です(原文「況越,吾貢献之所自出乎」。理解困難なので意訳しました)。明年、穀物が熟してから同等の数量を返却させれば、呉にとって損はなく、しかも越に徳を施すことができます。何を懼れて拒否しようというのですか。」
夫差は越に粟一万石を与えて文種にこう言いました「寡人は群臣の議に逆らって粟を越に送ることにした。年豊(豊作)になったら必ず返却せよ。信を失ってはならない。」
文種が再拝稽首して言いました「大王が越を哀れんで飢餒から救ってくださいました。約束に背くようなことはしません。」
文種は一万石の穀物を受け取って越に帰りました。
越王は大喜びし、群臣が万歳を唱えます。
句践が粟を国中の貧民に分け与えたため、百姓も皆、その徳を称えました。
 
 
 
*『東周列国志』第八十一回その三に続きます。

第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(三)