第八十一回 美人の計で西施を寵し、子貢が列国を説く(四)

*今回は『東周列国志』第八十一回その四です。
 
話は斉に移ります。
斉国の陳氏は代々民心を得ており、以前から国政を独占する志を抱いていました。陳恒が陳氏を継いでから、逆謀(反逆の謀)はますます急になります。しかし高氏や国氏の党がまだ多いことを憚り、これらを除くために知恵を絞りました。
陳恒が簡公に上奏しました「魯は鄰国であるのに呉と共に斉を攻撃しました。この仇を忘れてはなりません。」
簡公はこの言を信じて出征に同意しました。
そこで陳恒は国書を大将に、高無平と宗楼を副将に推挙し、大夫公孫夏、公孫揮、閭丘明等を全て従わせました。車千乗が動員され、陳恒自ら軍を見送ります。
陳恒と斉軍は汶水の上に駐軍し、魯を滅ぼさなければ帰還しないと誓いました。
 
当時、孔子は魯で『詩』『書』の編纂を行っていました。
ある日、門人の琴牢(字は子張)が斉から魯に入り、師に会いに来ました。
孔子は斉の事を尋ねて初めて斉兵が境上にいると知ります。
驚いた孔子は「魯は父母の国だ。今、攻撃されようとしている。援けないわけにはいかない」と言い、弟子達に問いました「某(私)のために使者として斉に行き、魯を攻撃しに来た兵を止められる者はいないか?」
子張と子石が名乗り出ましたが孔子は同意しませんでした。
子貢が席を立って問いました「賜(子貢の名)が行ってもいいでしょうか。」
孔子は「よろしい(可矣)」と答えます。
子貢は即日別れを告げて出発し、汶上に至って陳恒に謁見を求めました。
 
陳恒は子貢が孔門の高弟であると知っていたため、遊説に来たに違いないと判断し、厳格な様子を装って待ちました。
子貢は傍若無人な態度で堂々と営内に入ります。
陳恒が迎えてあいさつし、席を定めて問いました「先生がここに来たのは、魯のために説客となったからですか?」
子貢が言いました「賜(私)が来たのは斉のためであって魯のためではありません。魯は攻めるのが難しい国なのに、相国はなぜ攻撃するのですか?」
陳恒が言いました「魯はなぜ攻めるのが難しいのですか?」
子貢が言いました「魯の城壁は薄くて低く、池(濠)は狭くて浅く、国君は弱く、大臣は無能で、士は戦に慣れていません。だから『難伐(攻めるのが難しい)』と言ったのです。相国のために計るのなら呉を攻めるべきです。呉の城壁は高く、池は広く、兵甲は精利で、しかも良将が守っています。これは攻め易い(易攻)国です。」
陳恒が怒って言いました「子(汝)が言う難易は逆転していて道理がない。恒(私)には理解できない。」
子貢が言いました「左右の人払いをしてください。相国のために説明します。」
陳恒は従人を去らせ、席を前に出して教えを請いました。
子貢が言いました「『憂いが外にある者は弱者を攻め、憂いが内にある者は強者を攻める(憂在外者攻其弱,憂在内者攻其強)』といいます。賜(私)が秘かに相国の形勢を窺ったところ、諸大臣と事を共にできる状況ではありません。今もし弱魯を破って諸大臣の功にしたら、相国が利を得ることはありません。諸大臣の勢いが日々盛んになり、相国が危うくなります。しかし師を呉に移せば、諸大臣が外で強敵を相手に困窮することになるので、相国は斉国を専制できます。これこそ最もふさわしい計ではありませんか?」
陳恒は突然理解した顔をし、喜んで問いました「先生の言は恒(私)の肺腑を見通しています。しかし兵は既に汶上にいます。もし呉に向けて移動したら、人々は私を疑うでしょう。どうすればいいでしょうか?」
子貢が言いました「兵を留めて動かさないだけで充分です。賜(私)を南の呉王に会わせて、魯を助けるために斉を討伐するよう請わせてください。こうすれば呉との戦いに名分ができます。」
喜んだ陳恒は国書にこう言いました「呉が斉を攻めようとしていると聞きました。我が軍は暫くここに駐留しましょう。軽率に動いてはなりません。呉人の動静を探り、呉兵を破ってから魯を討伐するべきです。」
国書は承諾しました。
陳恒は斉国に帰りました。
 
子貢は昼夜を駆けて東呉に至りました。
呉王夫差に謁見してこう言いました「呉と魯が兵を合わせて斉を攻めたので、斉の恨みは骨髓に達しています。今、その兵が既に汶上に駐留し、魯を攻撃しようとしています。次は必ず呉に及ぶでしょう。大王はなぜ斉を攻めて魯を救わないのでしょう。万乗の斉を破って千乗の魯を収めれば、威を強晋に加えて呉が霸者となります。」
夫差が言いました「以前、斉が世世(代々)呉国に服事すると同意したから、寡人は班師(撤兵)した。しかし今になっても朝聘が至らない。寡人はちょうどその罪を問いに行こうと思っていたところだ。しかし越君が政治に励んで武を訓練し、呉を謀る心があると聞いた。寡人はまず越国を討伐するつもりだ。それから斉に及んでも遅くない。」
子貢が言いました「いけません。越は弱く斉は強いので、越を攻撃しても利は小さく、斉を放ったら患が大きくなります。弱越を畏れて強斉を避けるのは非勇です。小利を追って大患を忘れるのは非智です。智も勇も共に失って、どうして霸を争うことができるのですか。大王がどうしても越国を心配するのなら、大王のために臣を東の越王に謁見させてください。(越王)自ら櫜鞬(弓矢を入れる袋)をもって(呉の)下吏に従わせてみせます。」
夫差が歓んで言いました「そのようにできるのなら孤の望むところだ。」
子貢は呉王に別れを告げて東に向かい、越に入りました。
 
越王句践は子貢が来たと聞き、候人を派遣してあらかじめ道を掃除させ、郊外三十里で出迎えました。宿泊のために上舍を提供します。
句践が鞠躬(お辞儀)して問いました「敝邑は東海の僻地にあります。高賢を煩わせてはるばる遠出させてしまったのはなぜでしょうか?」
子貢が言いました「貴君を弔いに来たのです。」
句践が再拝稽首して言いました「『禍と福は隣り合っている(禍与福為鄰)』と言います。先生が弔を下すのは、孤にとって福となります。教えをお聞かせください。」
子貢が言いました「臣は最近、呉王に会い、魯を救って斉を討つことを話ました。しかし呉王は越の謀を疑い、まず越に誅を加えようとしています。人に報復しようという意志がないのに人に疑われるのは拙(愚)です。人に報復する意思があって事前に人に知られるのは危です。」
句践は愕然とし、長跪(上半身を伸ばして跪く姿勢)して言いました「先生はどうやって私を助けてくださるのでしょうか?」
子貢が言いました「呉王は驕慢なうえ佞臣を好んでいます。今は宰嚭が専政し、しかも讒言を得意としているので、貴君は重器によって彼の心を悦ばせ、卑辞によって礼を尽くし、自ら一軍を率いて斉討伐に従うべきです。呉が戦って勝てなかったら、呉は削られていきます。もし戦って勝ったら、必ず驕って諸侯の覇者になろうという野心を大きくするので、兵を強晋に臨ませます。その時には呉国に隙が生まれ、越が乗じる好機となります。」
句践が再拝して言いました「先生が来たのは正に天賜です。死人を起こして白骨に肉をつけたようなものです。孤は教えに従います。」
句践は子貢に黄金百鎰と宝剣一振り、良馬二頭を贈ろうとしましたが、子貢は固辞しました。
 
子貢が戻って呉王に会い、報告してこう言いました「越王は大王による生全(命を守ること)の徳に感謝しており、大王に疑われていると聞いて慄然としました。旦暮(朝晩)には謝罪の使者が来るでしょう。」
夫差は子貢を館に帰らせました。
五日後、越が派遣した文種が呉に到着し、呉王の前で叩首して言いました「東海の賎臣句践は大王の不殺の恩のおかげで宗祀を奉じることができたので、肝脳で地を塗ったとしても(「肝脳塗地」。身を犠牲にすること)まだ報いとするには足りません。今回、大王が大義を興し、強(斉)を誅して弱(魯)を救うと聞いたので、下臣種を派遣し、前王が保管していた精甲二十領と『屈盧』の矛、『歩光』の剣を貢納して軍吏を祝賀することにしました。句践は師期(遠征の日)を尋ねています。四境の内を総動員して士三千人を選び、下吏に従わせるつもりです。句践も堅(甲)を着て鋭(武器)を持ち、自ら矢石を受けるつもりです。死を懼れることはありません。」
夫差は大いに喜び、子貢を招いて言いました「句践はやはり信義の人だった。自ら選士三千を率いて伐斉の役に従いたいと言っている。先生はどうするべきだと思うか?」
子貢が言いました「いけません。人の衆を用いてしかもその君を使うのは度が過ぎています。出師だけ同意して国君の参戦は断るするべきです。」
夫差はこれに従いました。
 
子貢は呉を去ってから再び北に向かい、晋国に入りました。
晋定公に会って言いました「『遠謀がない者は必ず近くに憂いがある(無遠慮者,必有近憂)』といいます。呉が斉と戦うのは時間の問題です。呉が戦って勝ったら必ず晋と伯(覇権)を争うことになります。貴君は兵を修めて卒を休ませ、呉の進攻に備えるべきです。」
晋侯は「謹んで教えを受けます」と言いました。
 
子貢がやっと魯に帰った時、斉兵は既に呉兵に敗れていました。
呉はどのように斉に敗れたのか、続きは次回です。

第八十二回 夫差が歃を争い、子路が纓を結ぶ(一)