第八十二回 夫差が歃を争い、子路が纓を結ぶ(五)
*今回は『東周列国志』第八十二回その五です。
獣を見た孔子が言いました「これは麟だ!」
角には赤紱がついていました。かつて孔子の母・顔氏が縛り付けたものです。
孔子が嘆息して言いました「我が道はついに窮してしまった。」
孔子は『魯史(魯国の史書)』を収集し、魯隠公元年から哀公の獲麟の年まで二百四十二年間に起きた出来事を編集して『春秋』という史書を完成させました。『易』『詩』『書』『礼』『楽』と併せて「六経」と号します。
この年、斉の右相・陳恒は、呉が越に敗れたと知り、外に強敵がなく内に強家もなくなったと判断しました。ただ闞止だけが邪魔になっています。そこで族人・陳逆、陳豹等に闞止を攻撃させて殺しました。
斉簡公は出奔しましたが、陳恒が追撃して殺し、闞氏の党も滅ぼしました。
陳恒は簡公の弟・驁を立てました。これを平公といいます。陳恒が単独で相になりました。
斉の政変を聞いた孔子は三日間斎戒し、沐浴の後、哀公を朝見して斉討伐の兵を請いました。陳恒が国君を弑殺した罪を討つためです。
哀公が三家に使者を送って伝えると、孔子がこう言いました「臣は魯君がいることを知っているだけで、三家がいることは知りません。」
陳恒は諸侯の討伐を恐れていたため、魯と衛から奪った地を全て返還し、北は晋の四卿と好を結び、南は呉・越に聘問しました(そのため諸侯は斉を討伐しませんでした)。
陳恒は陳桓子の政治を修め、財を散じて粟を与え、貧困の者を援けたため、国人が喜んで帰服しました。
また、徐々に鮑氏、晏氏、高氏、国氏といった諸家や公族子姓(公族とその子孫。姓は子孫の意味)を除き、国の大半を自分の封邑にしていきました。
更に国中の女子から身長七尺以上の者を選んで後房に入れました。その数は百人を下りません。賓客が自由に出入りすることを許したため、七十余人の男子が生まれます。こうして自分の宗族を強化しました。
斉の都邑で大夫や宰になる者は、全て陳氏から出るようになります。
当時、衛の世子・蒯瞶が戚にいました。
その子である衛出公・輒は国人を率いて蒯瞶を攻撃しようとしました。大夫・高柴が諫言しても聴き入れません。
蒯瞶の姉は大夫・孔圉の家に嫁ぎ、孔悝という子を生みました。孔悝は大夫を継いで出公に仕え、衛の政治を行っています。
孔氏の小臣に渾良夫という者がおり、身長が高くで容姿が優れていました。孔圉が死ぬと渾良夫が孔姫(孔圉の妻)と姦通します。
ある日、孔姫が渾良夫を戚に送って弟・蒯瞶を訪ねさせました。蒯瞶が渾良夫の手を握って言いました「子(あなた)が私を国に入れて君に立てることができたら、子に冕を着させて軒に乗せ(卿大夫にするという意味です)、死刑に値する罪を三回犯しても赦すことにしよう。」
渾良夫は帰ってからこれを孔姫に話しました。孔姫は渾良夫に婦人の服を着せて蒯瞶を迎えに行かせます。
昏夜(夜。暗くなってから)、渾良夫と蒯瞶が婦人の服装をして温車(屋根がある車)に乗りました。勇士・石乞と孟黶が車を御します。渾良夫と蒯瞶は婢妾と偽って城中に紛れ込み、孔姫の室(部屋)に隠れました。
孔姫が言いました「国家の事は全て吾児(我が子。孔悝)が掌握しています。今は公宮で(国君と)飲んでいるので、彼が帰ったら武威を使って強制しましょう。事は必ず成功します。」
孔姫は石乞、孟黶、渾良夫に甲冑を着させ、剣を懐にしまわせました。蒯瞶を台上に隠して孔悝が帰るのを待ちます。
すぐに孔悝が朝廷から帰りました。酔いを帯びています。孔姫が孔悝を招いて問いました「父母の族で至親(最も親しいこと)であるのは誰ですか?」
孔悝が答えました「父の族ではは伯叔(父の兄弟)、母の族では舅氏(母の兄弟)です。」
孔姫が言いました「汝は舅氏が母にとって最も親しいと知っているのに、なぜ私の弟を国に入れないのですか?」
孔悝は「子を廃して孫を立てたのは先君の遺命です。悝が違えることはできません」と言うと、立ち上がって廁に向かいました。
孔姫は石乞と孟黶を送って廁の外で待たせます。
孔悝が廁を出ると、左右から動きを封じて「太子(蒯瞶)が召しています」と言い、有無も言わさず台の上に連れて行きました。
孔悝が蒯瞶に会った時、孔姫が既にその傍におり、一喝して言いました「太子がここにいます!孔悝はなぜ拝さないのですか!」
孔悝はやむなく下拝しました。
孔姫が問いました「今日、汝は舅氏に従うことができますか?」
孔悝は「命に従います(惟命)」と答えました。
孔姫は豭(牡豚)を殺し、蒯瞶と孔悝に歃血させて盟を定めました。
孔姫は石乞と孟黶を留めて台上で孔悝を監視させ、孔悝の命を偽って家甲を集めました。渾良夫に家甲を率いて公宮を襲撃させます。
出公・輒は酔って寝ようとしていましたが、乱を聞いて左右の者に孔悝を招かせました。
しかし左右の者が「乱を成したのは正に孔悝です!」と報告したため、出公・輒は驚いて宝器を集め、軽車に乗って魯国に出奔しました。
群臣で蒯瞶に附こうとする者はなく、皆四散して逃げ隠れます。
仲子路は孔悝の家臣でした。この時、城外にいましたが、孔悝が脅迫されていると聞き、城に入って助けようとしました。ちょうど城から出て来た大夫・高柴に遭遇します。
高柴が言いました「門は既に閉められた!政(政権)が子(汝)にあるわけではない。難を共にする必要はない!」
子路は走って門に行きます。しかし門は閉じられていました。
門を守る公孫敢が子路に言いました「国君は既に出奔した。子はなぜ城内に入ろうとするのだ?」
この時ちょうど城内から出て来る者がいたため、子路は門が開いた隙に城に入りました。
子路が台下に至って大声で叫びました「仲由がここにいます!孔大夫は台を下りても問題ありません!」
しかし孔悝は応えられません。
子路は重傷を負って瀕死の状態になりましたが、「礼においては、君子はたとえ死んでも冠を脱がないものだ」と言い、纓を結んで冠を整えてから息絶えました。
孔悝が蒯瞶を即位させました。これを荘公といいます。次子・疾が太子に立てられ、渾良夫が卿になりました。
当時、衛にいた孔子は、蒯瞶の乱を聞いて弟子達にこう言いました「柴は帰るだろう。由は死ぬだろう。」
言い終わる前に高柴が逃げて来ました。再会した師弟が悲しみ喜びます。
使者が驚いて問いました「その通りです。夫子はなぜ分かったのですか?」
孔子が言いました「そうでなければ衛君が下賜するはずがない。」
使者は別れを告げて去りました。
弟子達が北阜(北丘)の曲(湾曲した場所)に埋葬し、一頃に及ぶ大きな冢(墓)を作りました。鳥雀も(遠慮して)敢えて墓の樹にとまろうとしません。
衛荘公・蒯瞶は孔悝が出公・輒の党だと疑い、酒に酔わせて駆逐しました。孔悝は宋に奔ります。
衛の府藏が空になってしまったため、荘公は渾良夫を召して「どのような計策を用いれば宝器を取り戻すことができるか?」と問いました。
渾良夫が密奏しました「亡君(出公)も主公の子です。なぜ招かないのですか?」
荘公は出公を招くのか、続きは次回です。