第九十回 蘇秦が六国の相となり、張儀が秦邦に向かう(二)

*今回は『東周列国志』第九十回その二です。
 
この時、趙の奉陽君趙成は既に死んでいました。
趙粛侯は燕国が客を送って来たと聞き、階段を降りて迎え入れ、「上客がはるばる遠くから足を運ばれましたが、私に何を教えてくださるのでしょうか?」と問いました。
蘇秦が上奏しました「天下における布衣(庶民)の賢士は誰もが賢君(趙粛侯)の行義を尊崇しており、皆、君前で忠を示したいと思っていましたが、奉陽君が賢士の才能に嫉妬していたため、遊士は足を留めて進まず、口を巻いて言を献上しなくなりました。しかし最近、奉陽君が館舎を棄てたので(「捐館舍」。死ぬこと)、臣は敢えて愚忠を献上しに来ました。『国を保つには民を安んじるに越したことはなく、民を安んじるには交わりを選ぶに越したことはない(保国莫如安民,安民莫如択交)』といいます。今、山東の国では趙だけが盛強です。趙の地は二千余里に及び、帯甲は数十万に上り、車は千乗、騎馬は万頭を有し、粟(食糧)は数年を支えることができます。秦が最も忌害(忌避)している国は、趙の他にありません。しかし秦が兵を挙げて趙を撃たないのは、韓と魏が後ろを襲うことを恐れているからです。よって趙のために南で蔽(壁)となっているのは韓と魏です。ところが韓と魏には名山大川の険(守り)がないので、一旦秦兵が大挙したら二国を蚕食(侵食。併合)してしまいます。そして、二国が降ったら禍が趙に及びます。
臣はかつて地図を考察しました。列国の地(面積)は秦を越えること万里に及び、諸侯の兵は秦の十倍にもなります。もし六国が一つになり、協力して西に向かったら、秦を破るのも困難ではありません。今、秦のために謀っている者は、秦の名を使って諸侯を脅し、領地の割譲によって和を求めさせています。しかし理由もないのに地を割くのは、自ら破れる(敗れる)のと同じです。人を破るのと人に破られるのでは、どちらがましでしょうか?臣の愚見に依るなら、列国の君臣と約束して洹水で会見し、盟を交えて誓いを定め、兄弟の関係を結んで唇歯のように連なるべきです。秦が一国を攻撃したら五国が共に救い、もし盟を破って誓いに背く者がいたら諸侯が共に討伐します。こうすれば、たとえ秦が強暴だったとしても、孤国で天下の衆と勝負(勝敗)を争うことはできません。」
趙粛侯が言いました「寡人はまだ若く、国に立ってから日が浅いため、このような至計を聞いたことがありませんでした。上客が諸侯を糾合して秦を防ごうというのなら、寡人は敬従しましょう。」
粛侯は蘇秦に相印を渡し、大邸宅を下賜しました。他にも飾車百乗、黄金千鎰、白璧百双、錦繡千匹を与えて「従約長(合従の長)」に任命します。
 
蘇秦は人を燕に送り、借りていた百銭を百金にして旅邸の人に返しました。
日を選んで韓魏諸国へ遊説に行こうとした時、趙粛侯が突然、蘇秦に入朝を命じました。緊急の事を商議すると伝えられます。
蘇秦が急いで粛侯に会いに行くと、粛侯が言いました「辺吏の報告が来た。『秦の相国公孫衍が師を出して魏を攻め、大将龍賈を捕らえて四万五千を斬首した。魏王は河北十城を割いて和を求めた。衍は兵を移して趙を攻めようとしている』とのことだ。どうすればいい?」
蘇秦は心中で驚いてこう考えました「秦兵が趙に来たら、趙君は必ず魏に倣って和を求めるだろう。これでは合従の計が成立しなくなる。」
「人は危急の時に計が生まれる(人急計生)」といいます。窮地に立った蘇秦はとりあえず返事をして後から方策を練ることにしました。
そこで蘇秦は平静を装い、拱手してこう言いました「臣が見るに、秦兵は疲敝(疲弊)しているので、すぐ趙国に至るとは思えません。万一来たとしても、臣には退かせる計があります。」
粛侯が言いました「先生は暫く敝邑に留まってくれ。秦兵が来ないと分かってからなら、寡人から離れてもよい。」
この言葉はまさに蘇秦が望んでいたことだったため(合従が放棄されるという事態は避けられました)、承諾して退出しました。
 
蘇秦は府第(府邸)に帰ってから門下の心腹の者を呼びました。名を畢成といいます。
畢成が密室に来ると、こう命じました「私には同学の故人(旧友)がおり、名を張儀、字を餘子という。大梁の人氏だ。汝に千金を与えるから、汝は商賈(商人)のふりをし、姓名を賈舍人に変えて魏邦(魏国)張儀を尋ねよ。彼に会ったらこのようにして、趙に来た日にはこのようにせよ。汝は注意して慎重に事を行え。」
賈舍人は命を受けて連夜、大梁を目指しました。
 
 
話は張儀に移ります。
張儀は鬼谷と別れて魏に帰りました。家が貧しいため自国の魏恵王に仕えようとしましたが、登用される機会がありません。やがて魏軍が連戦連敗したため、妻を連れて魏を去り、楚で遊説しました。
その結果、楚の相国昭陽が張儀を留めて門下の客にしました。
昭陽は兵を率いて魏を攻撃し、大勝して襄陵等七城を取りました。
楚威王はその功を嘉して「和氏之璧」を下賜しました。
 
ここで「和氏之璧」について少し説明します。
楚厲王の末年、楚人の卞和が荊山で玉璞(磨いていない玉)を得て厲王に献上しました。厲王は玉璞を玉工に見せます。しかし玉工は「これは単なる石です」と報告しました。
厲王は激怒し、国君を欺いた罪で卞和を刖刑(脚を切断する刑)に処しました。卞和は左足を失います。
後に楚武王が即位すると、卞和は再び璞を献上しました。ところが玉工がまた「石です」と言ったため、武王も怒って刖刑に処しました。今度は右足を失います。
楚文王が即位した時、卞和がまた玉を献上しに行こうとしましたが、両足を失ったため行動できません。卞和は璞を懐に抱いたまま荊山の下で痛哭しました。三日三晩泣き続けて涙が血に変わります。
卞和を知っている人が問いました「汝は二回献上して二回刖刑に遭った。もうあきらめるべきだ。まだ褒賞を望んでいるのか?なぜこのように哭泣するのだ?」
卞和が言いました「私は賞を求めているのではありません。恨めしいのは、元々良玉なのに石と言われ、元々貞士なのに欺いたと言われ、是非が顛倒しているのに自ら明らかにできないことです。だから悲しんでいるのです。」
楚文王は卞和の哭泣を聞いて璞を受け取り、玉人に磨かせました。すると果たして欠点のつけようがない美玉が現れます。この玉で作った璧(礼器。装飾品)が「和氏之璧」です。
(明清時代)、襄陽府南漳県荊山の頂に池があり、池の傍に石室があります。ここは抱玉岩といい、卞和が居住して玉のために泣いた場所だと伝えられています。
楚王は卞和の誠心を憐れみ、大夫の俸禄を卞和に与えて天寿を全うさせました。
「和氏之璧」は値をつけられないほどの宝ですが、昭陽が越を滅ぼして魏を破ったため、その功労が楚国最大のものであると認められて下賜されました。
昭陽は璧をいつも身に着けて片時も手離しませんでした。
 
ある日、昭陽が赤山に巡遊しました。四方の賓客で従った者は百人に上ります。
赤山の下には深潭(淵)があり、姜太公太公望がかつて釣りをしたことがあるといわれていました。
潭の傍に高楼があり、昭陽一行は楼の上で宴を開きました。酒が進んで酔いがまわった頃、賓客が「和璧」の美を見たがって昭陽に披露するように求めました。
昭陽は守藏豎(宝物を守る童僕)に命じて車に積んだ宝櫝(宝箱)を持ってこさせ、自ら鑰(鍵)を開きました。三重にまいた錦袱(錦の包み)を開くと、玉光が輝いて人々の顔を照らします。
賓客達は順番に璧を眺めて賞賛を極めました。
ちょうどその時、昭陽の近臣が言いました「潭の大魚が飛び跳ねています。」
昭陽は立ち上がって欄干に寄りかかり、大魚を眺めました。賓客達も一斉に外に出ます。
一丈余もある大魚がまた飛び跳ね、魚の群れもそれに続いて跳躍しました。
にわかに東北で黒雲が立ち上りました。大雨が迫っているようです。
昭陽が命じました「片付けて帰ろう。」
守藏豎が「和璧」を櫝にしまおうとした時、無くなっていることに気づきました。誰の手に渡ったのかはわかりません。
賓客達は混乱して探し回りましたが、見つからないため城に帰ります。
府邸に戻った昭陽は門下の客に命じて璧を盗んだ者を探させました。門下の客達が言いました「張儀は赤貧で素行も悪いので、璧を盗んだのは彼に違いありません。」
昭陽も心中で張儀を疑ったため、部下に命じて張儀を捕えさせ、笞で打って白状させました。
しかし張儀は盗んでいないので屈服しようとしません。笞で数百回打たれて体中を負傷し、息も絶え絶えになりましたが、ついに認めませんでした。
昭陽は垂死(半死状態)張儀を見てやむなく釈放します。
傍にいた者が張儀を憐れに思い、抱きかかえて家に帰らせました。
妻が張儀の困頓(困憊。疲弊)とした様子を見て、涙を流して言いました「子(あなた)が今日辱めを受けたのは、全て読書と遊説が招いたことです。もしおとなしく家に住んで農業に励んでいれば、このような禍はなかったでしょう。」
すると儀張は口を妻に向けてこう問いました「私の舌はまだあるか?」
妻が笑って言いました「まだあります。」
張儀が言いました「舌があればそれが本銭(元手)になる。いつまでも困窮を心配する必要はない。」
張儀は傷がだいぶ良くなってから魏国に帰りました。
 
 
 
*『東周列国志』第九十回その三に続きます。