第九十回 蘇秦が六国の相となり、張儀が秦邦に向かう(四)
*今回は『東周列国志』第九十回その四です。
この頃、秦恵文王は蘇秦を失ったことを後悔していました。
左右の者が張儀を薦めたため、すぐに招いて客卿に任命し、諸侯の事を謀るようになります。
それを見届けて賈舍人が別れを告げました。
張儀が涙を流して言いました「かつて私は甚だしく困阨(困窮)しました。しかし子(あなた)の力によって、秦国で重用されることになりました。これから徳に報いようと思っていたのに、どうして突然去ると言うのですか?」
賈舍人が笑って言いました「臣があなたを知っていた(理解していた)のではありません。あなたを知っているのは蘇相国です。」
賈舍人が言いました「相国は『合従』の約(盟約)を提唱していますが、秦が趙を攻撃して妨害することを恐れており、秦の柄(政権)を掌握できるのはあなたしかいないと考えました。そこでまず臣に賈人のふりをさせ、あなたを趙に招いたのです。しかしあなたが小就(小さな官に就くこと)に満足することを恐れたため、故意に怠慢な姿を見せ、あなたを激怒させたのです。その結果、あなたは遊秦の意を抱きました。そこで相君は巨額の金資を臣に与え、あなたに必ず秦の柄を得させるため、自由に使わせるように命じました。今、あなたは既に秦に用いられました。臣は帰って相君に報告したいのです。」
張儀が嘆息して言いました「ああ(嗟乎)、私は季子の術中にいたのに気がつかなかった。私は季子に遠く及ばない。あなたから季子に謝意を伝えてください。季子がいる間は、『趙討伐(伐趙)』の二字を口にすることはありません。これで季子による玉成の徳に報いさせてください。」
秦の脅威がなくなったため、蘇秦は粛侯に別れを告げて韓に向かい、韓宣恵公に会ってこう言いました「韓の地は方九百余里しかなく、帯甲も数十万しかいませんが、天下の強弓勁弩は全て韓から出ています。大王が秦に仕えたら、秦は必ず贄(礼物)として割地を要求し、明年にもまた求めるでしょう。韓の地には限りがありますが、秦の欲は無窮なので、再三地を割いたら韓の地がなくなってしまいます。俗諺にこうあります『鶏の頭になったとしても、牛の尻尾になるべきではない(寧為雞口,勿為牛後)』。大王の賢と強韓の兵がありながら『牛後(牛の尻尾)』の名を有しているので、臣は陰で恥ずかしく思っています。」
宣恵公が恭しい態度で言いました「国を挙げて先生の言葉を聞こう。趙王の約(盟約)に従うことにする。」
韓は蘇秦に黄金百鎰を贈りました。
蘇秦は魏に行って魏恵王に言いました「魏の地は方千里に過ぎませんが、人民の衆(多)と車馬の多において魏に及ぶ国はありません。秦に対抗してもまだ余りあります。しかし最近、大王は群臣の言を聞き、地を割いて秦に臣事しようとしています。もし秦の要求に限りが無かったらどうするつもりですか?大王に臣の言を聴くつもりがあるのなら、六国を従親させ、力を合わせて秦を制すべきです。そうすれば永遠に秦患を除くことができます。今回、臣は趙王の命を奉じて約従のために来ました。」
魏恵王が言いました「寡人は愚かで不肖なため、自ら敗戦の辱めを招いてしまった。今、先生は長策を寡人に授けた。命に従わないはずがない。」
魏も蘇秦に一車の金帛を贈りました。
蘇秦は斉国に行って斉宣王に言いました「臣が聞いたところによると、臨淄の塗(道)では車轂(車輪の中心の出っ張った場所)がぶつかり、人々は肩がこすれ、その富盛は天下にまたとないとのことでした。それなのに西面して秦に仕えることを謀るとは、恥ずかしくないのですか?そもそも斉の地は秦から遠く離れているので、秦兵が斉に及ぶことはありません。秦に仕えるのは何のためですか?臣は大王が趙の約に従い、六国が和親して互いに救援することを望みます。」
斉宣王が言いました「謹んで教えを受け入れよう。」
蘇秦は車を駆けさせて西南に行き、楚威王に言いました「楚の地は五千余里に及び、天下にこれ以上強い国はありません。秦が患としているのは楚だけです。楚が強くなれば秦が弱くなり、秦が強くなれば楚が弱くなります。今、列国の士は従(合従)でなければ衡(連衡)を行っています。合従を選べば諸侯が地を割いて楚に仕え、連衡を選べば楚が地を割いて秦に仕えることになります。この二策には大きな違いがあります。」
楚威王が言いました「先生の言は楚の福となる。」
蘇秦は趙粛侯に報告するために北へ向かいました。途中で洛陽を通ります。
道中の官員は遠くに起きた砂塵を眺め見ただけで下拝しました(「望塵下拝」。遠くに砂塵が現れただけで拝礼すること。貴人に対する恭しい態度を表す言葉です)。
蘇秦が車の中から嫂に言いました「嫂は以前、私のために炊事もしませんでしたが、今はなぜそのように過分な恭敬を示すのですか?」
嫂が言いました「季子の位が高く金も多いので、敬畏を表さざるを得ないのです。」
蘇秦が嘆息して言いました「世情は冷暖を看て、人面は高低に従うものだ(「世情看冷煖,人面逐高低」。世情は人の態度が暖かいか冷たいかで見てとることができる。人の顔とは相手の地位が高いか低いかで変わるものだ)。私は今日になって富貴が欠かせないものだと知った。」
蘇秦は車に親属を乗せて一緒に故里に帰りました。大邸宅を建てて、家族を集めて暮らします。また、千金を散じて宗党に贈りました。今(明清時代)も河南府の城内に蘇秦宅の遺址があります。ある人がその地を掘って金百錠を得たと伝えられていますが、恐らく当時埋められたものです。
蘇秦の弟の蘇代と蘇厲も兄の貴盛を羨んで『陰符』を習い、遊説の術を学びました。
燕文公が最初に至り、韓宣恵公が続きました。
数日も経たずに魏恵王、斉宣王、楚威王も前後して到着します。
蘇秦はまず各国の大夫と会見し、席の序列を決めました。楚と燕は老国で、斉・韓・趙・魏は姓を換えた新国ですが、戦争の時代では国の大小によって序列が決められます。楚が最大で、次は斉、次は魏、趙、燕、韓となります。このうち楚・斉・魏は既に王を称していましたが、趙・燕・韓はまだ侯のままなので、爵位の差が大きく、対等に会話するには不便でした。
そこで蘇秦の建議によって六国が共に王を名乗ることにしました。
会盟の日、諸侯が盟壇に上り、決められた序列に従って立ちました。
蘇秦が階段を登って六王に告げます「諸君は山東の大国を擁し、位は全て王爵である。地は広く兵も多く、自雄するに足りる。秦は牧馬の賎夫に過ぎないのに、咸陽の険にたよって列国を蚕食している。諸君は北面の礼を用いて秦に仕えることができるか。」
諸侯がそろって言いました「秦に仕えるつもりはない。先生の明教を奉じたい。」
六王が拱手して言いました「謹んで教えを受け入れよう。」
蘇秦が盤を持って六王の前に持って行き、順に歃血を勧めました。六王は天地と六国の祖宗に拝告し、一国が盟に背いたら五国が共に撃つことを約束します。誓書を六通書いて六国がそれぞれ一通を受け取りました。
儀式が終わってから宴が開かれました。
五王が言いました「趙王の言の通りだ。」
こうして合従が成立し、六王が解散して帰国しました。蘇秦も趙粛侯に従って趙に帰ります。これは周顕王三十六年の事です。
この年、魏恵王と燕文王が死に、魏襄王と燕易王が即位しました。
後の事がどうなるか、続きは次回です。